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淵(ふち)に河童(かっぱ)が棲む(すむ)
 八束(やつか)を流れて(ながれて)いる川(かわ)(岡本川(おかもとがわ))は、ぐにゃぐにゃと曲がり(まがり)、何ヶ所(なんかしょ)も支流(しりゅう)がありますから、昔(むかし)は深い(ふかい)淵(ふち)がたくさんありました。
 昔(むかし)は、川(かわ)を今(いま)のようにコンクリートの護岸工事(ごがんこうじ)や、川(かわ)まわし(川(かわ)の曲がり(まがり)を直す(なおす)工事(こうじ))をしませんから、やたらに淵(ふち)が出来た(できた)のですが、それらの淵(ふち)には恐ろしい(おそろしい)河童(かっぱ)が棲み(すみ)、人(ひと)や馬(うま)が近寄り(ちかより)ますと、水中(すいちゅう)に引き込み(ひきこみ)尻(しり)の穴(あな)から内臓(ないぞう)をとり出して(だして)食った(くった)というのです。
 河童(かっぱ)は誰(だれ)も知って(しって)いますように、頭(あたま)に水(みず)をたくわえるお皿(さら)をのせ、背(せ)に甲羅(こうら)、手足(てあし)には水(みず)かきがあり、色(いろ)は全身(ぜんしん)が青く(あおく)、人間(にんげん)と口(くち)が利ける(きける)動物(どうぶつ)です。ただし民話(みんわ)の世界(せかい)にしか存在(そんざい)しませんが。
 明治(めいじ)の頃(ころ)までは迷信(めいしん)が盛ん(さかん)でしたから、池(いけ)や川(かわ)の淵(ふち)へ河童(かっぱ)が本当(ほんとう)に棲み(すみ)、人畜(じんちく)に災害(さいがい)をもたらすと多く(おおく)の人(ひと)が信じて(しんじて)いたのです。
 そのような訳(わけ)から、昔(むかし)は、川(かわ)の淵(ふち)で遊んで(あそんで)いた子供(こども)が、溺れて(おぼれて)亡くなったり(なくなったり)しますと、河童(かっぱ)の仕業(しわざ)として噂(うわさ)が立ち(たち)ました。大津地区(おおつちく)に、『お菊ヶ淵(きくがぶち)』と呼ばれる(よばれる)川(かわ)の淵(ふち)がありますが、そこも、小さな(ちいさな)女(おんな)の子(こ)が河童(かっぱ)に引き込まれて(ひきこまれて)亡くなった(なくなった)昔話(むかしばなし)の残る(のこる)淵(ふち)のひとつです。
 
 
いそっぴ
 富浦(とみうら)の海(うみ)の岩礁地帯(がんしょうちたい)に、「いそっぴ」と呼ばれる(よばれる)赤茶色(あかちゃいろ)の蟹(かに)(学名(がくめい)・ショウジンガニ・イワガニ科(か))が棲息(せいそく)しています。
 近頃(ちかごろ)はめっきり数(かず)が減り(へり)ましたが、昭和(しょうわ)の中頃(なかごろ)まではたくさんいましたので、当時(とうじ)の子供(こども)たちは、春(はる)から夏(なつ)にかけての磯遊び(いそあそび)によく捕まえた(つかまえた)ものです。
 しかし、いそっぴは逃げ足(にげあし)が速い(はやい)ので、蟹(かに)の動き(うごき)の特徴(とくちょう)を知らない(しらない)と、大人(おとな)といえども素手(すで)で捕まえる(つかまえる)事(こと)はできません。ところが昔(むかし)から捕まえる(つかまえる)のに、うまい方法(ほうほう)があります。
 いそっぴは食いしん坊(くいしんぼう)ですから、誘い餌(さそいえ)と、手元(てもと)で引く(ひく)と萎む(しぼむ)テグスの輪(わ)(罠(わな))を小さな(ちいさな)竹竿(たけざお)の先端(せんたん)に付け(つけ)、そっと蟹(かに)の鼻元(はなさき)に突き出せば(つきだせば)、餌(えさ)を盗ろう(とろう)と自から(みずから)罠(わな)に入って(はいって)くるため、容易く(たやすく)捕まえる(つかまえる)事(こと)ができるのです。
 いそっぴの食味(しょくみ)の方(ほう)はどうかと言い(いい)ますと、味(あじ)は良い(よい)のですが姿(すがた)が小さい(ちいさい)ので食べる(たべる)には向いて(むいて)いません。殻(から)から肉(にく)を取り出す(とりだす)のにめんどうだからです。それでもたくさん捕まえる(つかまえる)事(こと)ができた昔(むかし)は、いそっぴを生きた(いきた)まま擂り鉢(すりばち)の中(なか)で叩き潰して(たたきつぶして)肉(にく)と汁(しる)を笊(ざる)でこし、煮え(にえ)たぎった味噌汁(みそしる)に入れて(いれて)食べた(たべた)のです。
 ちょうど玉子(たまご)とじのような感じ(かんじ)になり、「カンコ汁(じる)」とか、「ツッツイ汁(じる)」とか言い(いい)ました。
 
 
アワビ
 アワビは遠い(とおい)奈良時代(ならじだい)に、安房国(あわのくに)から都(みやこ)へ貢物(みつぎもの)(調(ちょう))として納めた(おさめた)と言い(いい)ますので、太古(たいこ)の昔(むかし)も、今(いま)のように一番(いちばん)高級(こうきゅう)な磯(いそ)の貝(かい)だったようですね。
 広い(ひろい)磯(いそ)のある多田良地区(ただらちく)の漁師(りょうし)は、アワビのことを「貝(かい)(けぇ)」と呼び(よび)ます。ですから、ただ貝(かい)と言われ(いわれ)たら、トコブシやサザエのことでなくアワビだと思っていいのです。シッタカと呼ぶ(よぶ)小さな(ちいさな)巻き貝(まきがい)などは、馬鹿(ばか)にして、ただ「玉(たま)」と言って(いって)しまいます。
 アワビには赤(あか)と黒(くろ)の二種(にしゅ)あり、黒(くろ)の方(ほう)が殻(から)が深い(ふかい)ため身(み)が厚く(あつく)、美味(びみ)だと言われ(いわれ)ます。またアワビの殻(から)は、内側(うちがわ)が洋服(ようふく)のボタンや螺鈿細工(らでんざいく)の材料(ざいりょう)になるほどきれいですから神様(かみさま)への供物(くもつ)を盛る(もる)器(うつわ)として使い(つかい)ます。
 多田良(ただら)の漁師(りょうし)の家(いえ)では、神様(かみさま)へ供える(そなえる)アワビの殻(から)は、品質(ひんしつ)を落とさぬ(おとさぬ)ために火(ひ)や熱湯(ねっとう)を通さず(とおさず)、身(み)を生(なま)のまま剥ぎ取り(はぎとり)、小さな(ちいさな)殻(から)は毎日(まいにち)備える(そなえる)器(うつわ)に、大きな(おおきな)殻(から)は正月(しょうがつ)に餅(もち)や伊勢(いせ)エビを乗せて(のせて)供える(そなえる)のに使って(つかって)います。
 古老(ころう)の話(はなし)によりますと、昭和(しょうわ)の中頃(なかごろ)まではアワビがたくさんいましたので、白米(はくまい)を一升(いっしょう)入れて(いれて)供えられる(そなえられる)、大きな(おおきな)殻(から)のものが獲れた(とれた)そうです。
 
 
山桃(やまもも)の悲鳴(ひめい)
 南無谷(なむや)の字(あざ)・故郷地(こごうじ)に、大正(たいしょう)(一九一二〜一九二五)の中頃(なかごろ)まで、幹(みき)が大人四人(おとなよにん)で抱える(かかえる)ほどの大山桃(おおやまもも)が生えて(はえて)いました。
 木(き)の所有者(しょゆうしゃ)は、屋号(やごう)・新左衛門(しんざえもん)さんで、毎年(まいとし)おいしい実(み)を付け(つけ)、近く(ちかく)に住む(すむ)人達(ひとたち)を喜ばせて(よろこばせて)いたのですが・・・。しかし残念(ざんねん)な事(こと)に、その山桃(やまもも)は鉄道線路(てつどうせんろ)の敷設(ふせつ)のため、取り除かれて(とりのぞかれて)しまったのです。
 言い伝え(いいつたえ)ですが、山桃(やまもも)を取り除く(とりのぞく)作業(さぎょう)は大変(たいへん)だったようです。大鋸(おおのこぎり)で根本(ねもと)から切り倒そう(きりたおそう)としたのですが、幹(みき)が太すぎ(ふとすぎ)作業(さぎょう)が進まない(すすまない)ため、根(ね)の底(そこ)へ発破(はっぱ)を仕掛(しかけ)け、吹き飛ばす(ふきとばす)方法(ほうほう)でやっと作業(さぎょう)を終えた(おえた)そうです。
 ところが昔(むかし)は、相手(あいて)が木(き)でも残酷(ざんこく)な事(こと)をすれば、不思議(ふしぎ)な現象(げんしょう)が起きた(おきた)ようですね。鉄道工夫(てつどうこうふ)が発破(はっぱ)の導火線(どうかせん)に点火(てんか)した時(とき)、山桃(やまもも)の大木(たいぼく)が突然(とつぜん)「ウオーウオー。」と、大きく(おおきく)鳴り出した(なりだした)のです。その場(ば)に居合わせ(いあわせた)た人達(ひとたち)は皆(みな)びっくりして、この山桃(やまもも)には神霊(しんれい)が宿って(やどって)いるに違い(ちがい)ない、崇り(たたり)がなければ良い(よい)がと身震い(みぶるい)しました。
 やがて大正(たいしょう)の関東大震災(かんとうだいしんさい)が起き(おき)、取り除かれた(とりのぞかれた)山桃(やまもも)の崇り(たたり)かどうか分かり(わかり)ませんが、安房地域(あわちいき)の鉄道(てつどう)の中(なか)では、南無谷(なむや)の隧道(ずいどう)が最大(さいだい)の被害(ひがい)を受けて(うけて)しまいました。
 


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