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カシャギ船(ぶね)
 平成十二年(へいせいじゅうにねん)(二〇〇〇)正月十六日(しょうがつじゅうろくにち)、町(まち)の健康(けんこう)まつり・さざなみハイクで原岡海岸(はらおかかいがん)を通り(とおり)ますと、珍しい(めずらしい)形(かたち)の小さな(ちいさな)漁船(ぎょせん)が一艘(いっそう)ありました。
 その船(ふね)は一般(いっぱん)の船(ふね)と違い(ちがい)、みよし(船首(せんしゅ))が尖って(とがって)おらず、とも(船尾(せんび))は広く(ひろく)、船底(ふなぞこ)は平ら(たいら)に近く(ちかく)、船全体(ふねぜんたい)が青く(あおく)塗られて(ぬられて)いました。どこの家(いえ)の漁師(りょうし)さんの持ち船(もちぶね)でしょうね。
 漁船(ぎょせん)のことに詳しい(くわしい)豊岡(とよおか)の出口祐治(でぐちゆうじ)さんの説明(せつめい)によりますと、富浦(とみうら)では『カシャギ船(ぶね)』と呼び(よび)、今(いま)はたいへん珍しく(めずらしく)なったが、昔(むかし)は沢山(たくさん)あって、波(なみ)の静かな(しずかな)富浦(とみうら)から金谷(かなや)までの海岸(かいがん)で見突き用(みづきよう)に使った(つかった)そうです。(船型(せんけい)から波(なみ)の荒い(あらい)外房(がいぼう)や、潮(しお)の流れ(ながれ)の早い(はやい)東京湾(とうきょうわん)の奥(おく)では使えない(つかえない)。)
 漁(りょう)の時(とき)は船縁(ふなべり)に身体(しんたい)を伏せる(ふせる)ようにして櫓(ろ)を足(あし)で操り(あやつり)、口(くち)にくわえた箱(はこ)めがねで海底(かいてい)を見ながら(みながら)、サザエを長い(ながい)柄(え)の付いた(ついた)挟(はさみ)で捕り(とり)、寒(かん)にはヒラメ、アンコウ、ボラなどを、へし(銛(もり))で突く(つく)のです。
 カシャギ船(ぶね)の名(な)の起こり(おこり)は、昔(むかし)、漁師(りょうし)さんが木(き)の皮(かわ)などを大釜(おおがま)で煮出して(にだして)造った(つくった)染料(せんりょう)をカシャギ箱(ばこ)に入れて(いれて)網(あみ)を染めた(そめた)のですが、当時(とうじ)は海(うみ)の浅い(あさい)所(ところ)まで魚(さかな)がいっぱいいましたので、カシャギ箱(ばこ)でも見突き用(みづきよう)の船(ふね)の代わり(かわり)になるだろうと、改良(かいりょう)して使い出した(つかいだした)ことからです。
 
 
コザラシ網(あみ)
 コザラシ網(あみ)は、イワシの流し網(ながしあみ)の一つ(ひとつ)で、東京湾周辺(とうきょうわんしゅうへん)で用いられた(もちいられた)のですが、その発祥地(はっしょうち)は富浦(とみうら)だと言われて(いわれて)います。
 昔(むかし)は、二月(にがつ)〜三月(さんがつ)の頃(ころ)になりますと、富浦(とみうら)の湾内(わんない)には脂(あぶら)の乗り(のり)きった大羽(おおば)イワシの群(むれ)がやって来ました(きました)。それを浜(はま)への出口(でぐち)で見張って(みはって)いる者(もの)が、そのイワシの群(むれ)を見つけ(みつけ)ますと、漁師(りょうし)たちは一斉(いっせい)に、船(ふね)に網(あみ)を積み込んで(つみこんで)沖(おき)へ漕ぎ出し(こぎだし)、争う(あらそう)ように網(あみ)を張った(はった)のです。
 網(あみ)を張る(はる)頃合(ころあい)は夕日(ゆうひ)の入る(はいる)前(まえ)ですので、漁(りょう)が終えて(おえて)船(ふね)が浜(はま)に帰る(かえる)のは夜中(よなか)です。急いで(いそいで)網(あみ)からイワシを外さない(はずさない)と、夜明け(よあけ)になってしまいますので浜(はま)は大忙し(おおいそがし)です。
 コザラシ網(あみ)の呼び名(よびな)が生れた(うまれた)話(はなし)につながるのですが、漁師(りょうし)のおかみさんたちも皆(みな)、小さい(ちいさい)子(こ)を、寒い(さむい)浜(はま)へ晒す(さらす)ように放り出した(ほうりだした)まま網(あみ)からイワシを外した(はずした)のです。
 イワシは人(ひと)が食べた(たべた)のではなく、浜(はま)で干し上げ(ほしあげ)、叺(かます)(藁(わら)むしろを二つ折り(ふたつおり)にして作った(つくった)袋(ふくろ))に詰め(つめ)、肥料(ひりょう)として出荷(しゅっか)しましたが、昭和(しょうわ)の中頃(なかごろ)まではイワシの漁獲量(ぎょかくりょう)が多く(おおく)、たいそう活気(かっき)がありました。
 岡本(おかもと)に、いわしのたくさん取れた(とれた)頃(ころ)の面白い(おもしろい)話(はなし)があります。あるとき、富浦(とみうら)の沖(おき)を通って(とおって)いた東海汽船(とうかいきせん)の船員(せんいん)が、岡本(おかもと)の浜(はま)を見ます(みます)と、浜中(はまじゅう)が銀色(ぎんいろ)に光って(ひかって)おり、不思議(ふしぎ)に思い(おもい)わざわざ船(ふね)を止めて(とめて)浜(はま)へ上陸(じょうりく)しますと、そこには、足(あし)の踏み場(ふみば)もないほどイワシが干して(ほして)あり驚いた(おどろいた)というのです。
 
猪瀬(いのせ)の漁場争い(りょうばあらそい)
 海(うみ)で瀬(せ)とか根(ね)と呼ばれる(よばれる)岩礁(がんしょう)の周辺(しゅうへん)は、いろいろな魚介類(ぎょかいるい)が寄り付く(よりつく)ため、最適(さいてき)な漁場(りょうば)になります。
 南無谷(なむや)の沖(おき)の猪瀬(いのせ)も富浦(とみうら)有数(ゆうすう)の漁場(りょうば)ですから、江戸時代(えどじだい)の昔(むかし)から、たくさんの漁船(ぎょせん)が集まり(あつまり)漁(りょう)をしていました。それだけに、漁業権(ぎょぎょうけん)をめぐる争い(あらそい)も絶えず(たえず)起きて(おきて)いたようです。
 原岡(はらおか)に残る(のこる)古文書類(こもんじょるい)によりますと、猪瀬周辺(いのせしゅうへん)の漁業権(ぎょぎょうけん)は岡本村(おかもとむら)にあった感じ(かんじ)を受け(うけ)ますが、南無谷村(なむやむら)の漁師(りょうし)たちも、猪瀬(いのせ)は自分(じぶん)の村(むら)の沖(おき)にあるのだからと、密か(ひそか)に近付き(ちかづき)漁(りょう)をしたのです。
 岡本(おかもと)の漁師(りょうし)たちは、それを見掛ける(みかける)度(たび)に、代官所(だいかんしょ)へ、南無谷(なむや)の漁師(りょうし)が、猪瀬(いのせ)で漁(りょう)をしないよう訴状(そじょう)を差し出して(さしだして)います。その中(なか)の一通(いっつう)を現代文(げんだいぶん)に書き直して(かきなおして)みました。岡本(おかもと)の漁師(りょうし)たちが、代官(だいかん)にどうしたら自分(じぶん)たちの願い(ねがい)を聞き入れて(ききいれて)もらえるか、苦心(くしん)して訴状(そじょう)を認めた(したためた)ことがよく解り(わかり)ます。
「南無谷村(なむやむら)の漁師(りょうし)は、みな半農半漁(はんのうはんぎょ)の者(もの)たちですから、暮し(くらし)は私(わたし)たちより楽(らく)な筈(はず)です。したがいまして、岡本村(おかもとむら)の漁場(りょうば)である猪瀬(いのせ)では漁(りょう)をしないよう申付けて(もうしつけて)下さい(ください)。
 私(わたし)たちの岡本村(おかもとむら)は、慶長(けいちょう)の頃(ころ)、家康公(いえやすこう)が東金(とうがね)へ鷹狩(たかがり)にお出掛け(でかけ)になったとき、魚(さかな)を差し上げて(さしあげて)おりましたので、その事(こと)もお考え(かんがえ)の上(うえ)、特別(とくべつ)に御配慮(ごはいりょ)をお願い(ねがい)いたします。」
 この訴状(そじょう)に対して(たいして)、代官所(だいかんしょ)からは岡本(おかもと)の漁師(りょうし)に満足(まんぞく)のいく返書(へんしょ)はありませんでした。もしかすると、代官所(だいかんしょ)は南無谷(なむや)の漁師(りょうし)から、何(なに)かを贈られて(おくられて)いたのかも知れ(しれ)ませんね。
 
銚子節(ちょうしぶし)
 昔(むかし)の漁師(りょうし)たちが愛唱(あいしょう)した民謡(みんよう)と言えば(いえば)、『安房節(あわぶし)』や『島節(しまぶし)』が主(おも)だったのですが、『銚子節(ちょうしぶし)』もよく歌われた(うたわれた)民謡(みんよう)のひとつでした。
 銚子節(ちょうしぶし)というのは、魚(さかな)がたくさん捕れた(とれた)昭和三十年(しょうわさんじゅうねん)(一九五五)頃(ころ)まで、銚子方面(ちょうしほうめん)から房州(ぼうしゅう)へ出稼ぎ(でかせぎ)に来た(きた)漁師(りょうし)たちが流行らせた(はやらせた)もので、節(ふし)の出出し(でだし)が島節(しまぶし)よりやさしく、歌詞(かし)が愉快(ゆかい)でしたから、一時(いちじ)は農家(のうか)の者(もの)まで歌う(うたう)ようになりましたが、カラオケの出現(しゅつげん)と共(とも)に廃れ(すたれ)、今(いま)では全く(まったく)歌われ(うたわれ)なくなってしまいました。
 記載(きさい)した歌詞(かし)は、南無谷(なむや)の木村明夫(きむらあきお)さんよりお聞き(きき)したものです。
 


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