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CORM3 日本の媽祖信仰と南薩摩の媽祖像
藤田 明良
 媽祖は中国生まれの海の女神である。福建省南部の州島で昇天した林氏の娘といわれ、まず地元の船乗りたちに崇敬され、彼らの活躍と共に中国各地に信仰が拡大していった。皇帝から天妃(元代)、天后(清代)の称号を与えられる一方、民間では媽祖、娘媽、亜媽など愛称され、龍王の娘や観音菩薩の化身とする説も生れた。神像を祀る廟が次々と港に建立され、小型の像を守護神として船に安置する船仔媽の習慣も広まる。中国人の海外進出に伴い東南アジアなど華僑・華人の居住地にも祀られるようになった。現在でも関帝と並ぶポピュラーな神として中国・台湾をはじめ、世界各地のチャイナタウンに媽祖像が祀られている。
 媽祖信仰は日本にも伝わった。琉球王国時代に中国と朝貢貿易をした沖縄では、那覇に天妃宮、久米島に天后堂が創建される。鎖国後の長崎でも中国人が建立した唐寺や唐人居留地に天后堂が建てられた。媽祖は菩薩(ボサ)とも呼ばれ、着岸した唐船から船仔媽(船菩薩)を天后堂に移す菩薩揚げは長崎の風物詩ともなっていた。また東日本でも茨城県の那珂湊や礒原、青森県の大間に海上安全を祈願して天妃神社が建てられたが、これは徳川光圀が水戸へ招いた中国僧・東皐心越の影響と言われている。媽祖は鹿児島にも祀られていた。江戸時代初め鹿児島城下の船津町に天妃宮が建ち、菩薩堂と呼ばれていた。その後、火災のため永福寺の境内に移るが現在もあるボサド通りはその名残という。永福寺は城下の北の田ノ浦にあったが、ここもまた鹿児島在住の中国人が建てた唐寺であった。
 現在、日本国内で確認されている江戸時代以前に伝来・作成された媽祖像は三〇例にのぼり、県別では鹿児島一〇例、長崎八例、茨城四例、沖縄・宮崎各二例、大分・福岡・宮城・青森各一例となる。鹿児島県内の分布は坊津・笠沙・加世田各二例、頴娃・串木野・国分・高山各一例となるが、南薩摩地域に多いことが注目される。このうち笠沙の二例は、共に片浦の林家に伝わったものだが、一つは林家の祖先が江戸時代初めに中国福建省から移住した時に所持してきたもの、もう一つは廃仏毀釈の時に野間権現宮の神像を引き取ったものである。
 かつて野間岳の山頂にあった野間権現宮は東宮に熊野権現、西宮に娘媽神すなわち媽祖が祀られていた。海上から目立つ野間岳は古くから航海信仰の対象であったが、来航する中国人たちも天堂山と呼んで崇敬するようになり、日中の航海神が共存することになった。鎖国後も娘媽神には長崎の唐船から毎年寄進があったというが、中国だけでなく日本の船乗りたちの信仰を集めるようになったことが、ここの大きな特徴である。船中に安置する「奉修娘媽山大権現順風相送祈所」の御札が笠沙や知覧の船持ちの家に残っている。
 林家に引き取られた娘媽神像は、江戸時代後期に日本で作られたものだが、それ以外の南薩摩の媽祖像は中国製の船仔媽が多い。媽祖像を伝える家々のうち、先祖が中国から来たという家伝は林家以外にはないが、廻船問屋や船主など家業が船に関わっていたところが多い。坊津で媽祖を「ボサッ様」と呼んで仏壇に拝んでいた有馬家や、「ノマサァ」と呼んで裏山に祀っていた早水家も、士分の船持の家柄である。この坊津で最近、福建省南部と共通する様式を持つ古墓が確認され、唐人の居住を考古学的に裏付けることとなった。中国でも明清時代の媽祖像がこれだけ多く残っている地域は珍しいという。対岸から渡ってきた人間や信仰を迎え入れることのできる南薩摩地域の海に開かれた特性が、海の女神たちの古雅なたたずまいを今に伝えるのであろう。
 
【参考文献】
鶴添泰蔵 「南九州の媽祖聞書」(『隼人文化 11号』隼人文化研究会、1982年)
藤田明良 「日本列島所在の古媽祖像データベース−九州・沖縄編−」(村井章介編『8-17世紀の東アジア地域における人・物・情報の交流(科学研究費補助金研究成果報告書)』東京大学大学院人文社会系研究科、2004年)
橋口 亘 「鹿児島県坊津町泊の唐人墓−南九州の港町に築かれた中国式墳墓−」(『南日本文化財研究』刊行会、2005年)
 
有馬家(泊)の媽祖像
(輝津館寄託)
 
 泊浜では、下の写真のような、海外産の陶磁器が多数見つかっています。その年代は11世紀頃〜19世紀頃に及び、多くは中国の明時代以降の製品です。珍しい製品としては、鹿児島県内では希少なベトナム産の陶磁器や、中国の青磁すり鉢なども確認されています。
 
泊浜採集陶磁器
1 (中国産:宋代) 2〜5 (中国産:明代)
6・7 (中国産:清代) 8・9 (ベトナム産)
 
 また、中には日本が鎖国をしていた時代の中国清朝の陶磁器も含まれています。
 近世の鎖国期に、琉球口貿易などで対外的に特殊な環境に置かれていた薩摩では、中国清朝の磁器が遺跡から時々出土します。薩摩における清朝磁器の出土様相は、鎖国期もなお続いた、南九州を入口とするルートでの、海外から日本本土への物流を象徴する事象の一つです。
 
【硫黄輸出と坊津】
 様々な海外文物の受け入れがみられる中、薩摩から海外へ輸出された品物の一つとして、「硫黄」が挙げられます。火薬の原料などに利用される硫黄は、中世日本における対外輸出品の一つでした。薩摩半島の沖に浮かぶ「硫黄島」(鹿児島郡三島村)は、硫黄の産地として知られています。15世紀に朝鮮で書かれた『海東諸國紀』の地図にも硫黄島が描かれ、その位置について「島去房御崎十八里」と記されています。硫黄島に近い坊津は、硫黄輸出に絡んだ史料中に登場し、「硫黄」の港としての側面も持っていたと考えられます。
 
坊津町南岸より望む硫黄島


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