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CORM2 鳥原掃部助と鳥原宗安
橋口 亘
 天正12年(1584)、写真の琉球渡海朱印状を島津義久から発給された鳥原掃部助と、明人送還に当たった鳥原宗安は、『鹿児島縣史』『薩摩にいた明国人』等の多くの諸書において、同一人物とみなされている。
 しかし、『征韓録』『島津國史』等や、渡辺美季氏によって確認された明側の記録などを見ると、明人送還に当たった鳥原宗安は、「喜右衛門」や「喜右衛門尉」と表現されるにとどまり、「掃部助」の呼称は用いられていない。
 興味深いことに、安政2年(1855)に編纂された鳥原家『家傳由緒書』所収の鳥原氏系図には、「掃部助」という人物A(義久より「琉球國通船御朱印ヲ賜フ」とされる)と、「喜右衛門」という人物B(「宗安」と称し「後掃部助ニ改ム」とされる)が、別人として記されている。さらに同系図は、人物Aについて「後對馬入道」と記す。この記述が正しければ、鳥原家の人物Aと人物Bはいずれも「掃部助」を名乗ったものの、「對馬入道」を名乗ったのは人物Aで、「喜右衛門」「宗安」を名乗ったのは人物Bとなる。
 明人送還を行ったのは、「宗安」「喜右衛門」を名乗った人物Bと考えて問題無いようだが、天正12年の琉球渡海朱印状には「鳥原掃部助」という、人物A・Bに共通の名が記されるのみである。明人送還を行った鳥原宗安について、「掃部助」の呼称を用いない諸史料の存在と、上記系図の「喜右衛門」(人物B)が「後掃部助ニ改ム」と記される点を併せて考えると、宗安が「掃部助」を名乗ったとすれば彼は明人送還後において「喜右衛門」「喜右衛門尉」から「掃部助」へ改名したという可能性が考えられる。
 つまり、天正12年の琉球渡海朱印状の「鳥原掃部助」は人物Aに該当し、明人送還を行った「鳥原宗安」とは別人(親子?)である可能性が指摘される。上記系図において、「琉球國通船御朱印ヲ賜フ」との記事が、人物Aのみに特記される点もそれを示唆するかのようである。
 同系図は後代に作成されたという性格上、その内容には撰者の猪鹿倉俊龍による主観の付加が考慮されるものの、同系図は、宗安に対し「掃部助」の呼称を用いない他の諸史料と共に、朱印状の掃部助と宗安が別人の可能性があることを窺わせる興味深い史料といえる。
 一方で、『家傳由緒書』等に所載される「覚」(鳥原對馬入道勤功白札)には、天正15年(1587)の義久降伏時から慶長期にわたる諸勤功が「鳥原對馬入道」によって記され、その中には人物B(宗安)が行った明人送還の一件も含まれている。『薩州唐物来由考』等は、「覚」の「對馬入道」と「喜右衛門」(宗安)を同一視しているが、鳥原氏系図は人物A「掃部助」が後に「對馬入道」を名乗ったとする。宗安による明人送還等も含めた鳥原氏の諸勤功を人物A「對馬入道」が代表して記した可能性もあるが、「覚」の内容をみると、「覚」の「對馬入道」は宗安(人物B)と同一人物のように思われる。また、『舊記雑録 後編』巻六十八所収の慶長18年(1613)12月「軍役賦帳」には「鳥原掃部介」という人物が「高百三拾五石」、同書巻六十九所収の「高帳写」には「鳥原喜右衛門」という人物が「高百八十五石」、同書巻七十五所収の元和6年(1620)2月「薩隅日三州一所衆并麑府衆中高極帳」には「鳥原對馬守」という人物が「高百三十八石」という石高で記されている。これらの点をどのように理解すべきかなど、残された課題も多いと言えよう。
 
【主要参考文献】
鹿児島縣1940
『鹿児島縣史 第二巻』鹿児島縣
稲葉行雄1991
『「さつま」歴史人名集』高城書房
紙屋敦之1997
『大君外交と東アジア』吉川弘文館
増田勝機1999
「鳥原宗安による明人送還」『薩摩にいた明国人』高城書房
渡辺美季2005
「鳥原宗安と明人送還」『坊津−さつま海道』
坊津歴史資料センター輝津館
 
琉球渡海朱印状
(輝津館寄託)
 
「海と坊津」年表 (海事史・対外交流史を中心に)
西暦
和暦
出来事
753 天平勝宝5 唐僧鑑真を乗せた遣唐使船が薩摩国阿多郡秋妻屋浦(坊津町秋目)に着く。
1124 天治元 北宋の禅僧、圜悟克勤が虎丘紹隆に印可状を書き与える。(この印可状(国宝)は、後の時代に桐筒に入ったまま坊津の海岸へ流れ着いたという伝説を持ち、「流れ圜悟」と呼ばれる。)
1306 嘉元4 千竈時家が嫡子の貞泰に「ハうのつ」を、三男の熊夜叉丸に「大とまりの津」を譲与。
1361 延文6
(康安元)
島津道春忠政が彦三郎公忠に「秋目」「久志」を譲与。
1468 応仁2 房泊(坊泊)の代官「只吉」が朝鮮に遣使。
1471 文明3 朝鮮の『海東諸国紀』の地図に、「房泊兩津」「房御崎」が記される。
1543 天文12 島津相模守、坊津において硫黄1万斤を幕府に引渡す。
1546 天文15 この年、山川に滞在したポルトガル人、ジョルジェ・アルヴァレスの記録に九州の主要な港の一つとして、坊(boo)や秋目(aquyme)の名が挙げられる。
坊津一乗院、後奈良天皇により勅願寺とされる。
1562 永禄5 島津貴久のインド宛書簡を、ポルトガル船に託すため、泊を訪れたアルメイダが、当地で9人のキリスト教洗礼者を得る。
1564 永禄7 この年以降に成立したとみられる明の『日本一鑑』に、棒津(坊津)が手銃(鉄砲)の産地として記される。
1574 天正2 島津義久から坊津宮一丸(船頭、渡辺三郎五郎)への琉球渡海認可の書状。
1575 天正3 上洛した島津家久が帰路途中、石見銀山近くの湯津・浜田において、秋目・とまり・坊の衆に出会う。
1582 天正10 島津義久、坊津権現丸(船頭、山崎新七郎)に、琉球渡海朱印状を発給。
1584 天正12 島津義久、坊津天神丸(船頭、鳥原掃部助)に、琉球渡海朱印状を発給。
1587 天正15 島津義久が豊臣秀吉に降伏した際、義久から秀吉への礼品、銀・白糸・沈香を、坊津の鳥原氏が用立てる。
1591 天正19 島津義久、朝鮮出兵に伴い、中山王尚寧に兵7000人と兵糧10ヶ月分を、来年2月中に坊津に送る事を命ずる。
1594 文禄3 坊津の近衛信輔のもとを唐人が訪れ、氷砂糖等を献上。
1595 文禄4 ヨーロッパで刊行された日本図(オルテリウス、ティセラ「日本図」)に、Tomarum(泊)が記される。
1600 慶長5 坊津の鳥原宗安、朝鮮出兵の際に人質となった明人らを、徳川家康の意向を受けた島津義弘の命により明国へ送還、浙江省で賜宴・褒賞を受ける。日本への帰国の際、福州にて12万斤船を入手。(後に、この船で泊の山下志摩丞が呂宋へ渡る。)
1604 慶長9 小田原平右衛門尉の朱印船、秋目より呂宋へ渡航。慶長11年に片浦へ帰航。
1606 慶長11 島津義久書状に「薩州久志より呂宋渡楫之儀、望之由申来候、就其如毎年 御朱印申請度候」との記述。
1608 慶長13 福建泉州の商人許麗寰、久志より帰国。
1621 元和7 明の『武備志』に、「坊津」が「花旭塔(博多)津」や「洞(安濃)津」と共に記される。
1708 宝永5 屋久島で捕えたイタリア人宣教師シドッチを坊津中島の牢に幽閉。その後、長崎・江戸へ送る。
1716〜36 享保年間 享保の頃、坊津で大規模な唐物抜荷の取り締まりが行われたという言い伝え(「享保の唐物崩れ」)。
1741 寛保元 泊の傳兵衛、諏訪之瀬島の仲五郎船の船頭として琉球国八重山へ渡り、帰路台風に遭い清国浙江省に漂着。
1765 明和2 曳航中の漂着唐船が坊津に入港。
1807 文化4 秋目の船頭源五郎の船、この年薩摩を出航し、翌年に南蛮の「四鞄鑾国」へ漂着。彼国で松前函館の文助(八年以前に漂着)に出会う。台湾・アモイ・福州・杭州・嘉興・平胡縣・乍浦等を経て、天草へ至り長崎へ帰着(『倭文麻環』)。
1808 文化5 坊津港口で唐船が破船、唐人29人を助命、溺死した唐人61人を坊の広大寺に葬る。
1810 文化7 伊能忠敬、坊津を測量。
1813 文化10 5月7日夜、津波が起き、坊下浜泊の人家・魚小屋が流される。
1831 天保2 唐人が坊の広大寺に参詣。
1855 安政2 秋目の宮内平蔵、薩摩藩軍艦「昇平丸」の江戸への航行にあたり、親司の任を務める。
1858 安政5 「異国火車船」が秋目に入港。
1861 文久元 琉球在番奉行の市来次十郎、清国での琉球進貢船の買物(白糸等)を薩摩へ運搬する、久志の船頭武兵衛の16反帆船に航行手形を発給。
1862 文久2 琉球在番奉行の伊集院伊膳、清国での琉球進貢船の買物(白糸等)を薩摩へ運搬する、久志の船頭武兵衛の16反帆船に航行手形を発給。
1908 明治41 坊泊鰹漁業株式会社、鹿児島県初の石油発動漁船「舞鶴丸」を建造。
1922 大正11 坊岬に官設燈台竣工。
1927 昭和2 泊出身の原耕、南洋漁場開拓のための遠征(第1回)を行う。
2001 平成13 坊津の海岸風景が国指定名勝「坊津」として指定される。


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