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坊津-さつま海道-

 事業名 海と船の企画展
 団体名 九州海事広報協会 注目度注目度4


第2章 海を行き交う人と物
 東アジアの海をゆく「人と物」が交錯した国際港「坊津」。国内外の記録や、坊津地域に残された文化財が、海上交流の隆盛を伝えています。
 
1. 鳥原宗安による明人の送還
 坊津の鳥原氏は、天正12年(1584)に島津義久から琉球渡海朱印状を発給されるなど、坊津の代表的な海商として知られています。安政2年(1855)に編纂された鳥原家『家傳由緒書』所収の「鳥原對馬入道勤功白札」には、島津義久が川内の泰平寺で豊臣秀吉に降伏した際、義久から秀吉への礼品「銀子壱貫目・白糸五拾五斤・沈香九拾二斤」を、鳥原氏が用立てたことが記されています。
 鳥原宗安は、豊臣政権による朝鮮出兵の際、人質として日本へ送られた明人らを、戦後、明と日本との国交回復を目指す徳川家康の意向を受けた島津義弘の命により、明国へ送還する任務を果たした人物です。先述の「鳥原對島入道勤功白札」には、明人の送還を終えた宗安らが、日本へ帰国の際、明の福州で「拾二万斤船」を入手し、のちにこの船で泊の山下志摩丞が呂宋(フィリピン)へ渡ったことなどが記されています。
 
鳥原家『家傳由緒書』
(輝津館寄託)
 
 最近、宗安の明人送還に関する、中国側の詳しい史料(『撫浙奏疏』:財団法人東洋文庫所蔵)が渡辺美季氏によって確認され、明人送還の経緯の詳細や、宗安と共に送還任務に当たった人々の氏名などまでが明らかになっています。
 鳥原宗安の明人送還は、文禄・慶長の役で悪化した日明関係の修復に寄与したと考えられます。また、この一件をめぐる史料からは、17世紀初頭のアジア諸国間における人的交流の活発さが垣間見えるようです。
 
『撫浙奏疏』
(パネル展示:原資料 財団法人東洋文庫蔵)
 
CORM1 鳥原宗安と明人送還
渡辺 美季
 1600(慶長五)年の春、一隻の船が坊津(泊津港)を出港した。この船は、文禄・慶長の役(豊臣秀吉の朝鮮出兵)で決裂した明(中国)・朝鮮との関係修復を目指す徳川家康の命を受け、慶長の役で日本軍の人質となった明人・茅〔毛〕国科(朝鮮へ派遣された明軍の遊撃・茅国器の配下の軍人)1を明へ送還する島津氏の遣船であり、その船頭に選ばれたのは坊津の海商・鳥原宗安であった。またこの船には、家康の意向によって作成された「朝鮮との和平を実現し明と公貿易を行いたい」旨が書かれた明宛ての書簡が託されていた2
 この出来事は、後世に薩摩藩で編纂された『征韓録』などの史書類の中で「宗安一行は福建省に到着し、その後北京へ赴いて皇帝に拝謁した。皇帝は大変喜び宗安を賜宴した。また茅国器は毎年福州から商船二隻を薩摩に派遣して貿易することを約束した。」と説明されている。しかしこの説には従来から疑問が呈されており、近年、増田勝機氏が、(1)宗安一行は福建省の隣省である浙江省に到着し、(2)当初は警戒されたものの最終的には現地の役人に賜宴・褒賞され、(3)その後福建に移送されて(北京には赴かずに)帰国したことなどを明らかにした3。だがこの事件に関わる史料は依然少なく、多くの不明点が残されていた。
 ところが最近「浙江省に到着した宗安らを現地の役人が取り調べて朝廷に報告した文章」(財団法人東洋文庫蔵『撫浙奏疏』所収「題報倭使送還差官請旨勘處疏」)が見つかったのである。そこには従来知られていなかった様々な事実――宗安・国科以外の乗船者の詳細、明における国科の弁明、明の役人による取り調べの様子や彼らのこの出来事に対する見解など――が記されていた。以下にその内容を簡単に紹介してみたい。
 この記録によると、宗安船は4月16日に浙江省に漂着している。部下から報告を受けた浙江巡撫・劉元霖は、倭人が明の内情を探りに来たかと警戒し、詳しく取り調べるように命じた。調査によると、送還されたのは茅国科だけではなく、その従者2名、海上で倭人に拉致された明人10名、福建の役人から日本の情報を探るために派遣された明人(彼らは許儀後・郭国安という薩摩に居た明人の日本情報を知らせる書簡を持っていた)3名、文禄・慶長の役の際の明人捕虜と朝鮮人被虜人14名、海賊に襲われた明の商人(高光国)、捕縛された海賊(明人とその仲間の倭人で高光国を襲った海賊も含まれていた)11名など計42名であった。船の乗組員は、宗安を含めて43名4である。史料上に記された彼らの姓を見ると、野村・山内・地(蒲地力)・島(鮫島力)・貴島など、中・近世の坊津地方に存在を確認できる姓が目立つ。従ってこの船の乗組員は、坊津周辺に出自を持つ者たちによって構成された可能性があると言えるだろう。また乗組員には倭人だけではなく、かつて倭人に海上で拉致された明人2名も含まれていた。両者とも日本に妻子がいて、1人は日本に戻ることを、もう1人は逆に故国である明に帰ることを望んでいた。
 さて取り調べを担当した浙江省の役人に対し、茅国科は事の経緯を次のように説明した。
 
 朝鮮で島津義弘の陣営に赴いて撤兵するよう説得した。撤退時における明軍の追撃を彼らが懸念したので自分が同行してやった。日本へ到着後、京都へ行き明の徳と威を説いた。秀吉の子を補佐して執政していた家康は信義を重んじる人で、すぐに日本軍の撤兵を命じ、また島津義弘に私を明へ送還するよう命じた。更に海賊が横行して帰路を阻むことを家康や義弘に訴えたところ、各島の海賊を捕らえ、その内11名を明へ送り、日本が明を尊敬する意を表明しようとした。義弘は、海賊の襲撃を恐れ、鳥原宗安を遣わした。宗安は、兵役12名を率い彼の国の旗を携え私の道中を護送した。
 
 まず、ここで国科が自らの日本行きの正当性を主張していることに注意したい。実は国科が朝鮮で日本軍の人質となったことは明の朝廷へは内密にされており5、上述した国科の答弁にはこの「事実」を隠そうとする意図が込められていたと考えられる。また上記の国科の説明によって、宗安らの乗組員は海賊と応戦できる程の軍事的能力を有した集団であり、そのために送還の使者に選ばれたことが分かる。船が「彼の国の旗」を持って航行したという記述も興味深い。当時日本では領主が領内を通航する船に無害通航を保障する過所旗(領主の紋や年月日などが書かれた白旗)を与える習慣があり、前記の旗は恐らく島津義弘の過所旗であったと察せられる。
 さてこうした取り調べを経ても、浙江省の役人たち(取り調べの担当官や、その上官である劉元霖)はどのような処置を下すべきかなかなか判断できなかった。彼らは「倭人が明を敬って我国の人を送還してきたことは称賛すべきことのようであるし、国科の行動は功績とすべきだろう」と考える一方で、「倭人の狡猾な性質は油断ができないし、また国科は日本へ赴くための上官の命令書を持っておらずその行動は信憑性に欠ける」などと懸念しており、日本にも茅国科にも半信半疑の状態だった。結局、浙江省では臆断できないとして、福建省に宗安や国科を移送し、本格的な取り調べや処置は福建省の役人に委ねることになった。福建省における調査や処置の詳細を記した史料は残念ながら見つかっていない。ただ事件の数年後に編纂された『両朝平攘録』という明の史料には、浙江省で劉元霖が宗安らに銀牌や牛・羊を与えて褒賞したことが記されており、この記事や福建から宗安らが無事に帰国したことなどを勘案すると、明の役人たちの宗安らに対する見解が次第に好評価へと転じた可能性が指摘できるだろう。
 なお鳥原家の『家伝由緒書』などから、宗安一行の船6は古くて使い物にならなかったので、この船体と銀500目・刀1本・鉄砲1挺を支払って福建省の役人から別の船を購入して帰国したこと、この福建で購入した船は後に呂宋(フィリピン)や安南(ベトナム)への航海に使用されたことなどが知られている。
 
[註]
1 日本側の史料では国科は国器の弟であると説明されている。
2 紙屋敦之『大君外交と東アジア』(吉川弘文館、1997年)。
3 増田勝機『鳥原宗安による明将の送還」『薩摩にいた明国人』(高城書房、1999年)。
4 その他にもう一人、送還される明人が銀50両で借りたという倭人が居た
5 増田前掲書。
6 以前福建に航海したことのある商船であったという。


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