日本財団 図書館


第43回(平成17年度)海事調査報告
寧波・天台山駆け足
高橋昌明
一、寧波概要
 本年度海事博物館の海事調査は、二月二三日から二六日の四日間、四人の専門員、杉田英昭・坂本研也・野村正孝(海事科学部)、および高橋昌明(文学部)が参加した。
 主調査地の寧波は、中国浙江省東部にある省の直轄市である。面積は九三六五平方キロ、常住人口五五〇万人(二〇〇三年)。杭州湾の南岸東端、天台山に源をもつ甬江(ようこう)下流平野の中央にある。唐代に、市の南西にある一〇〇〇メートル前後の四明山にちなんで明州と呼ばれてから、その名でも知られていた。
 当地の発展は唐中期にはじまる。玄宗皇帝の開元年(七三九)、甬江流域と東方海上の舟山群島が、越州(ぼう)県から行政的に分離独立し、明州と名づけられた。南宋後半に慶元府と改名され、元代には慶元路と改められる。明代再び明州になり、清朝になって寧波府と呼ばれるようになった。
 
写真1 甬江側より見た三江口と甬江の河泥
 
図1 宋代甬江下流平野の産業分布
(斯波義信『宋代江南経済史の研究』より)
 
図2 明洲(寧波)の旧市街図(斯波義信「港市論」より)
 
 寧波は、南シナ海・東シナ海の海上交通が集中するところで、隋・唐以来、中国の最重要海港の一つとして栄えた。日本からも遣隋使・遣唐使以来、多くの船舶が向かっている。明代には日明勘合貿易の港でもあった。
 海港として栄えたのは、地勢や海流、風向など自然条件に恵まれていたことによる。まず舟山群島は、中国沿岸でも、屈指め漁場から停泊地だった。そして、海口から一三カイリ遡る三江口(甬江・姚江・奉化江の合流点、すなわちそこが明州)(写真1)までの甬江下流部は、水深深く、河幅広く、流速緩慢で、高潮の助けを借りれば、航洋の巨大構造船(いわゆるジャンク)も進入できた。長江下流や杭州湾内の諸港が、沈積と高潮の相乗作用で、砂の堆積が著しく、絶えず浚渫していないといけないのに、そうした欠点がない。
 寧波は、温暖な気候と豊かな土壌に恵まれた、後背平地を控えている。また水路により銭塘湖江流域と連絡し、さらに大運河を介して、長江中下流域の広汎な市場と結ばれていた。
 宋代、市舶司が置かれる。これは中国の海港に置かれた貿易管理機関で、外国船の積荷の臨検、専売品の買い上げや、自国商船の取り締まりなど、海上貿易全般を管理した。唐の開元二年(七一四)広州にはじめて設置され、宋代に入り中国の造船・航海術が飛躍すると、広州・泉州(以上南海貿易)、明州・杭州・秀州(以上南海および日本、高麗貿易)、密州(高麗貿易)などに置かれた(図1)。
 また南宋では、明州水軍二〇〇〇人が配備され、紹興三年(一一三一)年、沿海制置使司も設置された。水軍を統轄して南海貿易に害をなす海賊を取り締まり、海路の平静を実現するため、浙江・福建などの沿岸地方に設けられた制度で、浙江では明州に役所が置かれ、その長は知明州(明州の知州事、知州事は宋代以後の州の長官)が兼任する。
 このような貿易商業を背景に、資本の蓄積がすすみ、それを元手に各地に転出して成功するものも多く、清末より新興の上海を拠点に活躍した浙江財閥の主力となった。一八四二年、南京条約によって開港されたが、海港都市としては、内陸部との連絡の面で上海に劣り、しだいに衰退した。最近まで近海漁業の基地であったが、現代中国の経済発展のなかで活性化し、二〇〇三年の経済実力は全国第一二位にある。私営経済が極めて発達し、また外国からの投資も盛んで、同年の輸出額は一八八億米ドルに達する。
 
二、育王山と天一閣
 二月二三日、空路上海入りした一行は、翌朝六時半上海駅発の特別快速で、杭州(もと南宋の都・臨安府)・紹興を経て寧波に向かう。朝四時半起床のきびしいスケジュールだが、一日二便しかないため、やむをえない。線路は地図上では一部海岸沿いを走るが、広大な中国大陸のこと、杭州市で河口のかなたに、海が望見できたほかは、単調な田園風景のなかを、約三時間半の列車の旅であった。
 寧波駅からは、当地出身の陶駿君の運転する車で、奉化江にかかる霊橋東詰にある中信寧波国際大酒店に向かい、チェックインした。この橋を西に渡って旧明州城内に入れば、すぐそこが市舶司などのあった、かつての中心街である。
 寧波の近くには、天台山・天童寺をはじめ、古い由緒をもつ寺院が点在。都市の安逸にあきたらない僧たちが、浙江東部の山地に寺院を建てたからで、南宋時代になると、禅宗の流行とともに、これら寺院はさらに多くの帰依をえて、中国仏教の中心地になる。
 日本仏教との関係も深く、唐代に最澄が天台山で学び、帰国後日本天台宗の開基となり、宋代には栄西が天台山、道元が天童寺で禅を学び、日本に禅宗を伝えた。また舟山群島にある観音霊場・普陀山普済寺の開基は、日本の入唐僧・慧鍔(えがく)で、山西省の五台山で観音像をえ、日本へもたらそうとして果たさず、この地に安置したものという。
 我々が探訪した阿育王寺は、市街から東へ一六キロの地にある。阿育王は古代インドを統一したアショカ王のことで、開山の祖である慧達が仮死したとき、胡僧から、阿育王塔を礼拝すれば地獄に堕ちるのを免れると教えられ、蘇生後出家して、塔を探し求めたところ、この地で舎利と宝塔が出現したという。
 六朝以後、歴代にわたって堂宇が修建された。現存する建物の多くは清代以降のものだが、西側の二六メートルの塔は元代の建立になる。南宋の時代、官僚的な禅林運営制度である中国禅林の五山・十刹の制か設定され、阿育王寺は五山の第五位にランクされた。
 
写真2 阿育王山寺、放生池を隔てて天王殿をのぞむ
 
 寺内では、南の放生池から、天王殿・大雄宝殿・舎利殿とならぶ伽藍を、順次見て回った(写真2)。禅寺であり、平安後期の日本では舎利信仰で有名だったが、現在の同寺で印象深かったのは、むしろ観音信仰が、いまも人びとの心に深く根を下ろしていることを、実感できた点である。
 宋代以後、禅宗を除いて、仏教は一般に衰退したが、観音信仰だけは、あらゆる階層に浸透流行し、一般民衆の生活と深い関連をもつ。その名(みな)を称えれば、すなわち七難を免れ、礼拝すれば福徳をえることができると信じられた。
 『観音経』(『法華経』観世音菩薩普門品)では、七難の一つ、羅刹の難について、海外貿易に出かけるため、宝を積んで大海に乗り出したとき、大風が吹いて、鬼の国に吹き流されたなら、観音と称えれば、みな「羅刹の難」を逃れることができるとする。同じく観世音菩薩の救済の働きを説いた個所では、大海原に漂流して、諸々の難があったとしても、観音の力を心に念じれば、大波も海没させることができないと説く。
 観世音菩薩が、海外貿易を行う商人、船乗りの世界で信仰されたゆえんである。我々が訪れたときも、阿育王寺のそれぞれの堂舎の前には、鉄製の灯明立てに、赤く太いロウソクをあげる人びとがいた。そのロウソクには「大吉大利」等のほか、「一帆風順」の文句が浮き彫りにされており、さてこそとの思いを深くした(写真3)。
 
写真3 灯明のロウソクに記された「一帆風順」の文句
 
 今回は、時間の関係でその島影すら望見することができなかったが、観音の霊場として最も崇信されたのは、先述の舟山群島の普陀山で、文殊をまつる五台山、普賢をまつる四川省の峨媚山とともに、天下の三大仏教道場とされた。とくに海上商人や漁師の信仰をうけ、紹興から明州を通って普陀山にいたる観音霊場巡りが流行し、その場面が絵画に描かれたりしたという。
 なお、『平家物語』巻三「金渡(こがねわたし)」に、次のような話がある。平重盛は、滅罪生善の志が深く、その晩年の安元のころ(一一七五〜七七)、鎮西の妙典という船頭を呼び寄せ、黄金三千五百両をあたえ、五百両はお前にやる、残りの千両は育王山(阿育王寺)の僧に贈り、二千両を中国の皇帝に奉り、田地に代え、それを育王山に寄進して、わが後世を弔うよう伝えよと語った。妙典がその通り実行したので、いまも、重盛の後世善所を祈ることが続けられているという。
 この話は、フィクションと考えられているが、父・清盛が日宋貿易に熱心であったから、重盛が中国に関心をもっていても不思議ではない。また、五台山が金の南進によってその支配下に入り、日本の入宋僧の巡礼地も浙東の諸寺院に移っていたから、彼らから、育王山の聖地ぶりについて聞くところがあったのだろう。
 その外、東大寺の再建にあたった俊乗房重源が、安元二年までに三度宋に渡り、当地も訪れたと伝えるが、自称にとどまり、入宋の事実があった証拠はない。それにたいし栄西は、仁安三年(一一六八)四月、博多より日宋貿易の商船に乗じて入宋。天台山で禅の概要を知り、転じて阿育王山では仏舎利を礼拝し、同年秋に帰朝した。
 次の見学先は、寧波市中の天閣。途中、不測の小事故にあい、時間を空費したので、目的地に着いたのは午後四時過ぎであった。ここは、明の後期に建てられた現存する中国最古の書庫で、蔵書家范欽の書庫だったところである。
 木造二階建の蔵書楼の周囲には、築山や庭園が造られ、天一池という防火用の池も掘られている。清朝の『四庫全書』(中国最大の叢書、経・史・子・集の四部に分類されて保管されたので四庫の名がある)編集にあたっては、所蔵の四七三種が底本として利用され、『四庫全書』を収めた北京・紫禁城内の文淵閣などは、天一閣をまねて作られたという。
 また、天一閣の敷地の一角には、麻雀博物館もあった。麻雀の原型・前身は古くからあるが、現在のような近代麻雀が確立したのは、光緒(一八七五〜一九〇八)初年、寧波においてだとされている。同博物館の中庭には、木製平底帆船(河船か沿岸用)の大型模型が展示されていた(写真4)。はて、これはいったい何だろうと思ったら、地面に麻雀についての石造りの解説板が埋めこまれており、その中に、ピンズ(トンツ)牌は、航海する船の飲料水を入れ、食糧をつめるバケツの意味、ゾーズ(スオツ)牌は、海上を航海する船のケーブルと魚を捕る網に由来している、との解説文が彫られていた。なるほど漢字では、それぞれ筒子・索子(条子)と書く。たまたま麻雀博物館に足を踏み入れたのが、海事調査の名に値する成果をえるとは、予想外だった。
 
写真4 木製平底帆船の模型と麻雀の解説版


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION