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八、明治初期の水運の興亡
 明治二年三月、朝敵の汚名を着せられた盛岡藩主は、諸藩に先駆けて版籍を奉還して恭順の意志を表し、南部盛岡藩は消滅した。これに伴い、五月には郡山代官所が、六月には郡山御蔵が閉鎖されて、真田藩に明け渡された。この時、郡山河岸も同時に閉鎖されたのであろう。また、藩所有の小繰舟も民間に払い下げになったという。黒沢尻では船も払い下げになった。江戸廻米の必要がなくなり、また地元の米は藩(後の県)から商人に売られるようになり、公設の船便は不要になったのである。
 明治政府の富国強兵の方針のもと、人や物の交流が自由に行われるようになると、輸送路の確保の必要から、鉄道のない時代、川への期待はますます高まってきた。
 こうした動きにのって、盛岡の斉藤市太郎や黒沢尻の蔵宿を勤めていた阿部嘉兵衛などが小繰舟やを使って新たに人の乗合船(のりあいぶね)と貨物輸送船として定期船を走らせた。明治六年五月に出されたその広告には、盛岡から郡山まで、下り一人五十文、上り七十文、舛物(ますもの)(穀物)三俵下り五十文、上り七十文、木綿(もめん)荷二個下り六十文、上り七十文などという運賃表が添えてある。一艘貸し切りの場合、盛岡から石巻まで一貫七百五十文となっている。船の出航は毎月五の日、月三回とし、その日の午前九時に新山河岸を出ることになっている。(町史)
 この船便も、天候と風向き、水量の外に河床の変化だけではなく、川漁のために仕掛けられた梁(やな)も障害となった。そこで明治政府は、舟運を発展させるため、明治五年八月、布告を出して、北上川は沼宮内以南から河口まで、その他の支流も区域を定めて梁簀留(やなすどめ)の撤去を命じている。
 このようにして川船の航行は主要輸送幹線として年々盛んになり、明治十四年には、盛岡の新山河岸の船の数は、出艘が百八十五艘、入港が百八十九艘となっている。(町史)
 明治十八年には、盛岡の有志が「北上回漕会社」を興し、石巻を発着点として狐禅寺までは川蒸気船「岩手丸」を、黒沢尻までは大型船、盛岡までは小型船(小繰舟)を継いで東京間の水運に乗り出した。この交易の規模は、輸入が九千トン、内容は雑貨、綿布、石油、砂糖、食塩などで、また輸出は一万三千トンに及び、米穀、大豆、木材、果物など一次産品を主に運輸業を行っている。(町史)
 郡山にも回船問屋や荷物取り扱い所があったといわれるが、その位置については不明である。ただし、河岸場を旧五内川河口付近からもっと南の日詰新田石田地内に移転させようと、時の県知事石井省一郎宛に日詰新田村外九ヶ村の戸長から請願書が提出されている。それには有志が相談して、町から離れた河岸場の不利を除くため、河岸場を日詰の町に近い石田の場所に移して欲しい、その上で小回船(小繰舟と同義か)を二三艘建設して運送したい、と書かれている。その河岸の位置は、二日町と日詰の境で、現在の福祉協議会の建物から下った辺りの川岸である。(町史)
 その新河岸の建設がその後どうなったか、また、江戸期に日詰の蔵宿や井筒屋が使った荷揚げ場がその後どのようになったかはわからない。ただし、戦前までは、その近くの向町には旅館や飲食店が残っていたことから明治期にも船便の客や舟運に従事する人が行き交っていたのかも知れない。
 
 
 いずれ、明治時代初期から中期にかけて、北上川における民間の水運業が盛り上がってきたのは事実である。しかし、時を同じくして鉄道建設が進められていた。鉄道の敷設(ふせつ)と日詰駅の設置について日詰の町民から反対運動が起きたのは、鉄道が通れば泥棒が来るとか煙害が広がるといった風評だけでなく、水運への期待が高まる中、関連する人々の利害と思惑が絡んでいたようである。
 
北上川を下る小繰舟(想像図)
 
 明治二十三年(一八九〇)十一月一日、盛岡までの東北本線が開業、仙台までおよそ六時間、上野までおよそ十八時間で結ばれた。東北本線の開業は地域の経済にも大きな影響を与え、天候などに左右されずに大量輸送できる鉄道の便利さに押され、川船は衰退の一途をたどった。鉄道の駅を遠くへ押しやり、舟運にも頼れなくなった日詰の町は、以後、他の沿線都市の発達に比べて遅れをとったのは歴史の皮肉である。
 しかしながら、江戸期から明治中期までおよそ三百年間の長きにわたって、川と時代の荒波を乗り越えて、この地方の経済と文化を支え続けた小繰舟の存在はすばらしいものであった。また、それに携わった(たずさわった)人々の智恵と勇気と苦労を思うとき、人間のすばらしさを感じ、感謝の気持ちが湧いてくる。


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