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郡山河岸と小繰舟
樋爪氏が支配したころの五郎沼周辺(想像図)
 
丸木舟(想像図)
 
一、丸木舟から小繰舟へ
 北上川は、岩手町御堂(みどう)から宮城県北上町の追波(おっぱ)湾まで全長二百四十九kmの大河である。紫波町はその源流から約六十km、河口から約百八十kmの地点に位置する中流域の上流部に存在する。
 町内を南北に貫流する流れは約十三km、紫波橋付近の標高は九十五m、河床の勾配は八百分の一とやや急流である。川にはあちこちに淵と瀬があり、また大きな蛇行もあり、河床と流量の変化が激しく、この川を舟で航行するのは決して簡単なことではなかったであろう。
 江戸期以前の人々は川をどのように使ってきたのだろうか。
 まず縄文時代であるが、北上川沿いの縄文遺跡としては、城山周辺、日詰の石田、北日詰、南日詰、犬淵周辺、長岡の天王、栃内などに知られている。ここに住む縄文人が川をどのように利用したかを示す証拠は見つかっていないが、彼らが八千年もの長い時代の間に、生活圏を広げ、丸木舟を造って漁をしたり、移動したりしていることは他の縄文遺跡の調査でもわかっている。石の斧などで造られる丸木舟は狩猟や漁労の道具であったが、人、物、情報の交流の器でもあった。
 田村麻呂が延暦二十二年(八〇三)、胆沢城に続いて志波城を築いた時、その兵糧米や物資は船で荷揚げされたといわれる。徳丹城を含め古代城柵が北上川の河岸段丘の上に並んでいることは、平安期に川船の造船技術が高くなり、その船で移動したり、戦闘をくり広げたりして支配地を拡大していったことを想像させる。
 藤原清衡は、寛治三年(一〇八九)四男清綱(きよつな)(二代基衡(もとひら)の弟)を紫波の地に送り込み、五郎沼の北側に樋爪(ひづめ)館を造らせた。それは北の地の支配を確実にし、平泉の黄金都市建設のための物資を調達するためであり、樋爪館は紫波産の米や砂金、漆、毛皮、麻布、鷹羽、鷲羽などを船で柳御所に直送する集荷拠点だったといえるのではなかろうか。
 一方平泉からは、たとえば山屋の経塚から出土した常滑三筋文壷(とこなめさんきんもんこ)などに見られるように、貴重な文物や情報が川船によってもたらされ、当地の文化を進展させたとものと考えられる。
 文治五年(一一八九)の源頼朝の奥州平定により、紫波の地は川村氏、足利(あしかが)氏(後斯波(しば)氏)の支配するところとなるが、その館跡を見ても北上川との関わりが深かったことがわかる。
 またこの時代には、是信坊の足どりにも見られるように、新たな宗教の広がりもあり、その際、川船が果たした役割は大きかったに違いない。多くの仏像や法具あるいは寺の建設資材の移動に船が輸送手段となっていたことであろう。
 
盛岡藩、八戸藩の江戸御蔵場
 
盛岡藩、八戸藩江戸屋敷
 
二、江戸廻米(かいまい)と北上川水運のはじまり
 徳川家康が幕府を開くと江戸は一大消費地となり、幕府には政治経済の必要から江戸に通ずる街道と水路を確保することが急務であった。そこで洪水対策と川の航路を開くために利根川改修の大工事に着手した。その結果、川船により銚子から関宿へ遡航(そこう)し、江戸川を経て江戸湾に物資を送る動脈が造られた。房総半島を回って江戸湾に入るコースは「大回り」と呼ばれ、海の難所もあって、川船利用の方が有利であった。東回り海路が開かれた後も利根川舟運は衰えなかった。
 一方諸国の藩主も与えられた領地のなかで自立の道を歩むことを迫られた。伊達政宗は、土木家川村孫兵衛に命じて北上川の河川改修に乗り出し、登米(とよま)の南の柳津(やなつ)から川を分流させ、迫(はさま)川や江合(えあい)川をつないで上流の米の生産地と石巻湾を船で結ぶ航路を確保した。船が本流の追波湾に出た場合は、金華山沖の難所を廻る危険が伴うのに対して、石巻は、江戸への中継地として有利であった。
 利根川と北上川下流の河川改修は南部藩にとっても江戸廻米のルートとして有難いものであった。この航路を通じて領内産の米を江戸へ送りはじめたのがいつかははっきりしないが、南部利直から家老楢山五右衛門宛の手紙があり、江戸開府直後から廻米が行われていたようである。それには、「花巻より江戸へ上させた米八百石余がかなり鼠に喰われた」とか、「千石の米が百四十石五斗減っている。途中水主(かこ)(水夫)どもに盗まれた」などと書かれている。(雑書、県史)
 江戸廻米の第一の目的は、江戸城に勤める藩主とその家族、それに仕える用人の生活に充てる(あてる)ためである。寛永十二年(一六三五)には、参勤交代がはじまり、妻子は江戸に常住、藩主は隔年(かくねん)ごと江戸勤番(きんばん)となり、主として上(かみ)屋敷(日比谷公園の一角)に住んだ。勤番以外の時は下(しも)屋敷(港区元麻布、現在の有栖川宮(ありすがわのみや)公園)でくつろいだ。この二つの屋敷には藩主家族に仕える用人も多く、このまかないに必要な「お台所米」を国元から送り続ける必要があった。これは藩の御蔵に収納された年貢米から送られた。船は大川(隅田川)河口の永代橋のたもとにある藩の御蔵に荷揚げされた。
 第二の目的は、年貢米だけでは不足する財源を補うため、藩は家臣に支給した米(俸禄(ほうろく))を安く買い、また農民から飯米を強制的に買い取って、江戸市中で換金した。これを買米(かいまい)という。
 
三、郡山御蔵と郡山河岸
郡山河岸(想像図)
 
 斯波(しば)氏の居城高水寺(こうすいじ)城は、南部信直(なんぶのぶなお)によって郡山(こおりやま)城と改名され、寛文七年(一六六七)年に破却(はきゃく)されるまで六十年以上もその形を保っていた。この間すでに奥州街道の整備がされ、馬継ぎの駅(郡山駅の名の起こり)が置かれるなど陸路の発達が見られた。城下には郡山三町(下町、二日町、日詰)の小市街ができ、城山の下には御仮屋(おかりや)、給人(きゅうにん)(侍)屋敷、御同心(ごどうしん)屋敷などがあった。城山の北西部の丘陵に数棟の御蔵があり、ここに周辺の村々の年貢米(ねんぐまい)が収納された。大迫の御蔵も同じ場所にあったらしい。江戸への御登米(おのぼせまい)はこの蔵から馬で河岸(かし)まで運び、船積みされた。
 船着き場を河岸(かし)という。郡山河岸はどこにあったのか、その場所を示す確たる証拠は見あたらないが、支流五内(ごない)川(現岩崎川)河口付近の城山側の岸辺にあったという説が有力である。この辺りは護岸が安定しており、また船の繋留地(けいりゅうち)としても適していたし、何よりも郡山御蔵とは最も近い位置にある。盛岡の新山河岸など一般には河岸のすぐ近くに御蔵があり、河岸と御蔵は一体のものであるが、郡山河岸の場合は、河岸場が比較的近い位置にあったためか、高水寺城時代の御蔵がそのまま使われたのかも知れない。
 郡山御蔵から河岸までの道については、下町を迂回するルートではなく、郡山御蔵から御同心屋敷前を通り、城山の北側の縁(ふち)を直線的に河岸に通ずる城下(しろした)道であったという。その途中で歳智(さいち)川を渡り、この小川に沿って船着き場に向かったらしい。その距離約四百メートル、今は歳智川の改修が進んでその形状は見えないが、以前はある程度の道幅もあり、橋もしっかりしたものだったらしい。歳智川は、地元では「サイズ川」と呼ばれ、その語源は「清水」でもあったという。この小川の上流には大きなわき水があり、北上川から遡上(そじょう)した鮭(さけ)がこの辺りで産卵をしたともいい、また農家の馬の洗い場ともなったという。(川村迪雄(みちお)氏談)御蔵から米俵を乗せた馬が河岸までにぎやかに往復したことであろう。
 郡山河岸の近くには、他の例を参考にすれば、御積立奉行の詰め所や水主(かこ)の休憩所、あるいは船に使う道具類を収納する小屋などが建っていたと思われる。周囲は柵(さく)で囲まれ、道には木戸もあったという。(村谷喜一郎氏談)
 正保五年の藩の日誌には「郡山、大迫の御蔵より米、大豆(たいず)出荷は四斗二升入り俵」とあり、郡山河岸から江戸へ向けて米と大豆の出荷があったことがわかる。また、この時、「船頭孫左衛門預船(あずかりぶね)積み登させ候」とあり、孫左衛門という船頭が藩から船を借り受け、米の運送を請け負っていた事実もわかる。(雑書)
 郡山代官所に働く役人は、代官二名の配下に御蔵奉行、町奉行、御山奉行、金山奉行、御境奉行(八戸藩領との境の監督役人)、鳥見奉行の外、廻米関係では、俵司(ひょうし)奉行、積立(つみたて)奉行などの役人がいた。俵司奉行は江戸廻米に当たって、年貢米の収納検査、俵詰め替えの立ち会いをした。領内通用の米俵は三斗七升入りであるが、江戸廻米に当たっては四斗五升をもって一俵としたので、各俵をより大きい俵に詰め替える。積立奉行は俵を船に積み込む場合の検査役人である。
 寛文八年(一六六八)には船の通行を臨検する船番所が城山下の川端に置かれた。航行する船の艘数が増えたことや商人船も多く通行するようになったため、船の航行や積み荷を調べる必要が出たのであろう。ほとんどの物資が藩の専売となっていた当時、商人といえどもそれらの荷物を勝手に流通させることは密輸送として取り締まられた。また許可された船からは御礼銭(税金)が徴収された。その任務にあったのは初期には舟番所改奉行だったが後は船肝入(ふなきもいり)となった。
 代官所からは船に関する高札も出され、一般町人が遭難船や漂流船、長期繋留の船を見つけた時は直ちに報告することなどを通達している。(町史)
 
盛岡藩の御蔵と河岸場
黒沢尻〜盛岡13里(52km) 上り4日、下り半日
 
四、(ひらた)船と小繰舟の継ぎ立て制の開始
 江戸時代初期から廻米に利用された川船は、御石(穀)船と呼ばれた。御石船は、当初盛岡の新山河岸やその他の河岸から米などの荷を積んで、途中の休憩はあったにせよ荷物を積み替えることはなく、石巻へ向かったようである。このことは、まだ船がなく、従って積み替えという作業はなかったということである。
 盛岡から石巻の間の河岸は、南部領内では盛岡の新山河岸(明治橋下流左岸)、郡山河岸、花巻城のあった花巻の花巻河岸(通称イギリス海岸の辺り)と黒沢尻に造られた。伊達領との境にある黒沢尻は、米所であると共に和賀川を通じて奥地から物資を運び出せる水陸交通の要(かなめ)に当たり、河港が出来る条件が整っていた。伊達藩領内には上の図に挙げるように多くの河岸があった。
 船が出現し、黒沢尻河岸で御登米(おのぼせまい)が継ぎ立てされるようになったのはいつからだろうか。南部藩の家老日誌「雑書」慶安四年(一六五一)の条に黒沢尻で船継ぎをしている事実を示す文書がある。また「船」という用語がはじめて見られるのは、それより少し下って、寛文五年(一六六五)の文書からであるという。(千葉経済大学川名論文)
 船はそれまでの御石船を大型化したものであり、盛岡からの船が百俵から百五十俵程度の容量であるのに対して、船は三百俵から四百俵と二、三倍の積み荷が可能な船である。
 大型化した船を船と呼ぶのならば、従来の船はなんと呼ぶのか、その区別の必要から「小繰舟」という名前がつけられたのではないかと考える。小繰舟の名前の由来について不明だが、仮に小操舟と書くなら急流や瀬のある川を細かく操る(あやつる)という意味を連想されるし、糸偏の繰は、上流に遡航する場合、岸から綱で手繰る(たぐる)という意味を連想させるが、確実なことはわからない。小繰舟の読み方については、岩手県史では「ぐりぶね」、東北歴史資料館発行の「近世の北上川と水運」には「ぐりぶね」とふりがなを付けてる。名の由来も呼び方もはっきりしたことはわからない。
 千葉経済大学の川名登教授は、論文「北上川舟運と川船」において「文書の上で船と小繰船が区別されて見られるのは延宝六年(一六七八)であり、これはこの時期、黒沢尻河港における継ぎ立て制が確立していることを示している」と述べている。それは江戸時代二百七十年間のはじめから七十年目ぐらいのことである。
 船が登場した背景は何だろうか。船が大型化するのは、積み荷の輸送量の増加があったからに外ならない。
 南部藩二十八代重直公は嗣子(しし)を決めずに亡くなり、寛文五年(一六六五)に十万石から盛岡藩八万石と八戸藩二万石に分封された。領地と石高(こくだか)が減らされても給人の数はそれほど変化がなかったので、盛岡藩は減封となった分の回復を図る必要に迫られた。そのために新田開発を奨励し、各地で開田が進められ、収量は増加していった。その結果、小繰舟だけでは江戸廻米が困難になってきたのである。
 船が出来たことは、黒沢尻に造船所があり、より高い造船技術を持っていたことを意味する。造船所は江戸時代初期には盛岡にあったが、このころから黒沢尻にその拠点が移ったようである。そのほか、黒沢尻以南の北上川は、勾配が緩く、水量も豊かであり、船が大型化しても航行ができるという川の条件があった。これに対して、盛岡、黒沢尻間は、川の状態から小繰舟が規模の限度であったのだろう。
 
船の大きさ
(参考 舟「北上川の水運」北上市立博物館編、
小繰舟「北上川舟運と川船」千葉経済論叢25号)
 
 船の規模については、船が長さ十間(十八メートル)前後、中幅二間半(四、五メートル)、積載量が四百四十俵から四百五十俵(別の資料では積載量は三百五十俵前後とあり、これは、船の規模の違いと俵の大きさにもよる)であったという。一方小繰舟は、長さ八間半(約十五・三m)、中幅六尺五寸(約二メートル)、積載量は百二十俵から百五十俵とある。船と小繰舟の構造はほとんど同じであり、従っての原型は小繰舟ということになる。(上図参照)
 船の数については、岩手県史によれば、天和二年(一六八二)、黒沢尻河岸の船は四十五艘、小繰舟は、花巻河岸に十艘、郡山河岸には三艘、盛岡河岸に六艘、計十九艘、両者合計で六十四艘となる。この数字からみて黒沢尻の河岸の規模の大きさと集荷港としての機能の大きさが図り知れる。なお、船の数は、年代や資料によって多少の違いが見られる。


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