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【資料】
 六月末の教室で、同級生の胸や背中をナイフで刺し、1ヶ月の重傷を負わせた高校生のA君がホームページに残した一年近くの日記を通読し、中学二年生で自殺した岡真史君の詩集『ぼくは十二歳』を思い出しました。「僕は絶対に死なない。なぜなら僕は僕自身だから」と自信を感じさせる詩を書いた岡君の最後のほうの詩は「自分の脳より他人の脳のほうがわかりやすい」という自己不信に満ちた詩でした。
 A君は昨年の九月には「充実っていうか、幸せすぎて怖い」と記し、十月には「今、生きていることがとても楽しく思える」、十二月には「日本を変えるためのサイトを立ち上げたい」と意欲に満ちた日記を残しています。しかし、四月には「精神が崩壊しかけているのが実感できる。とても苦しい」、五月には「幸せが感じられない。どうすれば幸せを感じられるのか」、六月には「死にたい、殺したい、殺してもらいたいって言葉が頭を何度も無機質によぎる」と記しています。
 私が特に注目しているのは、自らの心の変化の原因について、「最近の夜更かしや不安定な生活リズムが精神に悪影響を及ぼしている・・・不眠症も考えられるなあ。生活リズムの崩れが一番の原因だろう」と分析している点です。この事件の背景には近年の少年凶悪事件や不登校、社会的引きこもり、ニートなどと共通の問題があるのではないでしょうか。それは、自己肯定感の欠落、自律神経機能の異常、睡眠障害などで、一言でいえば脳機能の機能低下による「生体リズム障害」が起きているということでしょう。
 幼児健康度調査報告によれば、夜十時以降に就床する一歳児の割合は26%(一九八〇年)、35%(一九九〇年)、54%(二〇〇〇年)と急増しており、乳児期に一日三回以上目が覚めてしまう重度の「睡眠障害」の場合、五年後にADHD(注意欠乏多動性障害)と診断された者が四分の一との報告もあります。目の後ろの「視交叉上核」と呼ばれる脳の場所に「生体時計」があり、睡眠時間が少なく就床時刻が遅いほど認知能力が低下することが明らかになっています。
 この「生体リズム」の乱れと同様に、近年の子供の変化をもたらしている主要な原因の一つは食生活の乱れです。六月二十三日に公表された第十九期日本学術会議「子供のころ特別委員会」報告書も、起床・就寝時刻の問題点を指摘した上で、朝食欠食が小学校で16%、中学校で20%に及び「体がだるい」「イライラする」訴えと明確に関係あると警告を発しています。
 また、十月十二日に公表された文部科学省の「情動の科学的解明と教育等への応用に関する検討委員会」報告書の提言でも、「子どもの心の健全な発達のためには、基本的生活リズムの獲得や食育が重要である」と明記されています。一九六〇年以降の「新人類」と呼ばれる現代の主婦は本を見れば料理は作れるが、手料理を毎日作る能力は身についていない母親世代といえます。
 この母親世代を追跡調査して『変わる家族変わる食卓』『<現代家族>の誕生』を出版した岩村暢子さんによれば、娘世代の食卓実態を写真で見てもらい、もし若い世代の食卓に問題があるとしたらどんなところだと思うか、またどう改善すればいいと思うかと感想やアドバイスを求め、コンビニ弁当を並べた家族の夕食光景の写真を提示したところ、最も多かったのは「容器から取り出して器に盛り替えたらいいと思う」で、コンビニ弁当では栄養バランスや健康にどうかと語った母親は一人しかいなかったといいます。親子の昼食メニューとしてカップ麺を食べていることを問題とした母親も一割弱でした。
 このような合理的効率的発想が親心に浸透し食卓にも決定的な影響を及ぼしていることが食生活の乱れにつながっているわけです。
 鈴木雅子著『その食事ではキレる子になる』によれば、キレる原因となる食生活は、
(1) 野菜や根菜(特に食物繊維の多い根野菜のこと。例えば、ゴボウ、ダイコン、イモ類など)の摂取量が少ない。
(2) インスタント食品の摂取量が多い。
(3) 朝食を食べない。
(4) 砂糖の摂取量が多い。
の四つで、脳にいい食事は日本の伝統食(近年、「賢脳食」と言われています)で、多動児の約四割は、食品中化学物質によって脳がうまく働かなくなることが原因だといわれています。
 ところで、前述した日本学術会議の報告書には注目すべき指摘が二つあります。それは「三歳児神話」と脳の「臨界期」に関するものです。「三歳児神話」は通常「三歳までは母親が子育てに専念すべきである」という意味で用いられますが、「子どもの成長にとって三歳までが重要である」という意味も含んでいます。ちなみに「三つ子の魂百までも」ということわざは世界中にあり、英語にも、"The myth of the first three years."という言葉があります。この「三歳児神話」について厚生労働省の平成十年度版『厚生白書』が、「少なくとも合理的な根拠はない」と明記したことが大きな影響を与えたといえますが、同報告書は次のように指摘しています。
<一九九八年の厚生白書が「合理的な根拠は認められない」として否定している。ただし、三歳までの間が脳・神経系や情緒、生活習慣の発達上重要な時期であるのは科学的事実であり、この時期に「誰がどう世話をするか」は重要な問題である。・・・(「三歳児神話」)否定論は、三歳までの教育が極めて重要であるという命題そのものを否定するものではない。三歳児までの教育の重要性は、精神分析における無意識界の形成においても指摘されているところであり、また、最近では脳科学での研究から脳の可塑性、あるいはそれにつながる臨界期の存在などからも支持されているところである。・・・最も大きな役割を演じるのは、まず両親であり・・・>
 また「臨界期」については、「ある脳機能が習得できるのは幼い頃の一定期間内だけである」という意味であると定義した上で、「脳の可塑性に基づく機能習得には『臨界期』がある」と明確に結論づけ、次のように述べています。
<もっとも有名な研究は、後にノーベル医学・生理学賞を受賞することになるHubelとWieselの幼若サルの片目遮断によって視覚機能障害が残る現象に臨界期があることの証明であった。ごく最近、理化学研究所のT. Henschらによって、このような大脳皮質視覚野の「臨界期」はGABAによる抑制回路が形成されると終了することが示されており、臨界期そのものの本質的な実態が明らかになろうとしている。・・・一九二〇年にインドの東方で発見された「狼に育てられた子」の一人であるカマラが、九年後に死ぬまでに運動機能や感覚機能には充分な改善が見られたにもかかわらず、言語機能をはじめとする高度な脳機能には、思うような改善が見られなかった・・・「臨界期」があると考えざるを得ないのである。>
 「臨界期」については、東京大学付属病院小児科の榊原洋一医長がその著書『子どもの脳の発達臨界期・敏感期』において、早期教育の脳科学的根拠とされる「臨界期神話にメスを入れる」(第三章)批判的考察をしていますが、前述した文部科学省の報告書は次のように指摘しています。
<大人の脳にも可能性があることが指摘されているが、特に空間記憶やエピソード記憶に関与する部分は可塑性が高く、子どもの頃に感受性期(臨界期)が終わってしまうということはないとされている。また、脳の機能ごとに感受性期(臨界期)がずれることも指摘されており、場合によっては感受性期(臨界期)がない脳機能もある。これらの知見は生涯学習の重要性を示しているが、どのような分野でどのように生涯学習を遂行するかについては脳科学の知見を考慮すべきである。・・・前頭連合野の感受性(臨界期)は、脳科学の知見から推論すると八歳くらいがピークで二〇歳くらいまで続くと思われ、その時期に、社会関係をきちんと教育・学習することが大切である。>
 文科省の報告書の提言で見落としてならない重要なポイントは、「子どもの対人関係能力や社会的適応能力の育成のためには適切な『愛着』形成が重要である」「子どもが安定した自己を形成するには、他者の存在が重要であり、特に保護者の役割が重要である」「情動(怒り・喜び・悲しみなどのような一時的な感情の動きで表情、身振りなどの行動の変化や心拍数増加や血圧上昇などの自律神経や内分泌系の変化を伴う)は、生まれてから五歳くらいまでにその原型が形成されると考えられるため、子どもの情動の健全な発達のためには乳幼児教育が重要である」と指摘している点です。
 脳科学の最新の研究成果に基づく文科省の報告書の提言が、「愛着」形成と保護者の役割、乳幼児教育の重要性を強調したことを私たちは重く受けとめる必要があるでしょう。教育改革国民会議が教育の第一義的な責任は家庭にあると提唱したことを科学的根拠をもって明確に裏付けたからです。これまで家庭教育については、個人の多様な考え方、価値観に基づいて、「わが家にはわが家の方針があるので、余計な口出しをするな」という風潮が支配的でしたが、家庭教育は子供の脳の発達段階に応じてどうかかわるべきかという「教育の不易」に立脚しなければならないことが明らかになったことは画期的なことといえるでしょう。
 これまで教師に求められたのは子供に対する指導力でしたが、これからは保護者に対する指導力も求められます。教師を教師とも思わず身勝手な言動が目立つ親が増えており、このような親を説得、納得させるためには、脳科学という科学的根拠に基づいて、子供の発達段階に応じた師範塾には「親としての学び」を求める「親学」についての研修も導入していますが、埼玉県教育委員会でも「親へのアプローチ」の仕方を研究し、「親への関わり方・親との連携の在り方」などについて、年次研修(初任者研修・五年次教育研修・十年経験者研修など)のカリキュラムに取り入れる方針を固めています。
 同教育委員会では教育改革アクションプラン改定に向けた最終協議を終え、学校を「親が学ぶ拠点」とし、学校に「親としての学習」「親になるための学習」を取り入れることになりました。この「親学」を学校に取り入れ、教師の親に対する指導力を高めるためには、PHP教育政策研究会の提言にある「親学アドバイザー」を育成し、学校に配置する必要があります。
 わが国には「親業訓練」を初め、「子育てアドバイザー」「子育てサポーター」「子育てNPO」など、家庭教育や子育てに関する悩みや不安を抱える親からの相談に対応する団体がありますが、これらの団体や個人がこれまでに積み上げてきた理論や実践に学びながら、親が自分自身を見つめ直して「主体変容」を促す独自の「親学」の理論と実践の体系を確立し、その指導者となる「親学アドバイザー」を養成するシステムを早急に作る準備を進めています。
 「脳科学に基づく親学」を確立して全国に発信していくことが最重要課題であると私は認識しています。東京、大阪、福岡に続く「埼玉県師範塾」、四年前に発足した「親学会」、全国に広がりつつある「感性・脳科学教育研究会」、学校を「親が学ぶ拠点」とし、学校に親学(親になるための学習と親としての学習)を取り入れることを決めた埼玉県教育委員会などがその中核的役割を担い、先駆的な実践モデルを一刻も早く提示していきたいと思っています。それが日本の教育再生の原動力になると確信しています。







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