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一 水押
 船絵馬を見ると、船首に突き出した大きな材がある。これが水押で、航から上棚付留までの部分を前口(まえぐち)といい、上棚付留より突き出た部分を野木(のぎ)もしくは茂木(もぎ)と称し、水押の前部を潮切(しおきり)と呼ぶ。
 水押が弁才船の外観を特徴づける一要素であったことは、合の子船をみればよくわかる。合の子船とは、明治時代から大正時代にかけての国内海運で多用された和洋折衷の帆船のことで、明治二九年(一八九六)までは一時的な税制上の措置を除いて日本形船として扱われたが、明治三〇年以降は基準が緩和されて二本帆柱の船が西洋形船に編入された。
 幕末の国内海運に西洋形帆船が導入されると、その高い建造費と運航費が本格的な合の子船の出現をうながし、明治時代に入ると西洋形船にのみ適応される法令の制定が相次いだため、経済性と実用性に優れ、法制上も有利な合の子船が盛行を極めた。合の子船は、肋材を入れ、舵を洋式にするなど棚板構造の船体の一部に洋式技術を取り入れたり、操船性能向上のためにジブ・スパンカーを追加装備したり、帆を逆風帆走性能のよいスクーナー式の縦帆に換えたりしたような、いわば在来形を改良した船からスクーナーもどきの船まで実に多種多様であった。
 興味深いのは和洋の構造を折衷した船体にスクーナー式の帆装を装備したスクーナーもどきの合の子船(図77)である。この船は外観ではスクーナー(図78)と区別がつかないので、西洋形船ではないことが一目でわかる標識を必要とした。そこで標識として選ばれたのが和式の水押である。むろん、舷側に垣立をつけても標識として十分機能しただろうが、垣立は造作に手間もかかるし、費用もかさむ。しかし、垣立と違って、船に不可欠な船首材を和式にすれば、識別の用にも供せるから、水押は一石二鳥であったに違いない。
 このように水押は和船に固有の形式と見なされていたのであるが、水押といっても、和船の水押がすべて同じ形状であったわけではない。慶応元年(一八六五)に小豆島の船大工仁兵衛らが讃岐の金刀比羅宮に奉納した弁才船の雛形(図79)と将軍の御座船である天地丸の雛形(図80)を比べると、スクーナーもどきの合の子船の水押が弁才船のそれを継承していることは一目瞭然である。
 もっとも、弁才船と関船の水押は古くはよく似ていた。水押の形状は、関船の場合、近世を通じてほとんど変わらなかったのに対して、弁才船の場合、時代が下がるにつれ変化する。船絵馬では水押のほぼ半分が海面下に没しているため、全体像を把握するのがむつかしいうえ、万治四年(一六六一)奉納の金峯山寺の大絵馬を別にすれば、延享二年(一七四五)より古い船絵馬は今に伝わらないので、代わりに雛形の水押を比較してみることにしよう。雛形を元禄五年(一六九二)、亨保期(一七一六〜一七三六)、宝暦五年(一七五五)、享和二年(一八〇二)と年代順に並べてみると、関船に似て曲線的であった水押が、時代が下がるにつれ野木にクリカタがなくなって、幅が広くなるとともに、潮切と前口が直線的に平行になってゆくのがよくわかるだろう(図81)。
 
図76 明治26年(1893)の絵馬籐派の難船絵馬 
三木町の御木神社蔵
 
図77 スクーナーもどきの合の子船
伊藤かず氏蔵
 
図78 スクーナー 竜洋町の貴船神社蔵







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