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 海で泳ぐときの秘訣は、暴れなければ水圧の関係で沈まないのです。暴れると、慌てて水を飲むからややこしいことになるのです。ですから水中で服を脱ぐ訓練とか、そういうことはずいぶんさせられました。しかし全部脱いではいけないのです。素っ裸になると、冷えてしまうのです。水の中とはいえ、いちばん下の下着だけは残しておくようにということで、その訓練もずいぶんやらされました。ですから、いまでも海に落ちても死ぬ心配は、自分にはありません。落ちてみないとわかりませんが、そういう自信はあります。
 船と泳ぐことと、陸上では鹿児島本線が私の家の7メートル前で汽車が走っていました。それと飛行機の三位一体が自分の中に入ってきたわけです。プロペラ機が飛んでいて、それがジェット機に替わる過程も見上げていました。私の父親が乗っていたのは当然日の丸がついていましたから、授業中でもふとその状況を思い出しました。よく飛行場に連れて行かれていましたが、あの翼は永久に飛ぶことはないのかと、なぜか頭を飛び越して向こうへ行く映像的な感覚がよみがえってきて、非常に悲しい思い出がありました。
 そうすると、ある日突然日の丸がついた飛行機が飛んで来ました。それは戦後の航空自衛隊、海上自衛隊の前身である保安隊の巡視用飛行機で、これは反戦とかそういう問題とは違うのですが、日の丸の翼を見たときにジーンときて立ちすくんだ記憶があります。われわれは、そういう世代でもあります。
 ただ終戦のときは2年生ですから、そういう意味での敵愾心というのは何もありません。ただ、川の中にいたら土手の上をおじさんが「戦争が終わったぞ」と走り抜けて行って、帰り道にあぜ道やいろいろなところに座っている大人が一言も口をきかずにじっとしている影が道路に落ちていたのを記憶しています。
 家に帰るとばあちゃんが、閉め切った座敷に正座して日本刀を抜いていて、ものすごい形相で磨いているのです。「どうするんか」と言うと、「敵が来たら、これで刺し違えて死ぬ。お前も侍の子なら覚悟せ」と言われて「ああ、そうか。敵が来たら一緒にやるのか」と、自分はそれくらいの感覚しかありませんでした。いま考えてみると、あれは家族が刺し違えて死ぬということなので、日本国落城の瞬間に出会ったわけです。辱めを受けるようであれば、家族で刺し違えて死ぬということです。
 よく落城してお城が燃え始めると刺し違えて死ぬ映画がありますが、それの現実版だったのです。枕元にずらっと日本刀を並べて寝ていて、その真意に気がついたら、本当のことが理解できたら、とても一緒に寝ていられませんでした。おそらく逃げて来たでしょう。そういう時代を経験している最後の世代です。
 ですから船とか飛行機というものが懐かしくもあり、しかし未来志向型でもあるのです。ですから潜水艦の漫画から始まって、その次に小学校3年生のときに描いたのが『火星悪魔』で、火星人がやって来るのです。当時でいう殺人光線、怪光線を発射して地球人をやっつける。3年生ではまだ絵が描けませんので、火星人は黒覆面で地球人は白覆面です。そして殺人光線、いまでいうレーザー光線か何かを刀で反射させて勝ってしまうという怪奇な漫画を描いたら、友人たちが「うまい。お前はうまいからもっと描け」と言うのです。
 友達というのはありがたいものです。先生方も授業中に描いてもいいと言う。おれは見捨てられたのだろうかと思いました。私は小、中、高を通じて授業中に平気で漫画を描いていました。ばれていないと思っていましたが、あとで聞くと全部ばれていました。あいつはいつも授業中に漫画を描いていた。
 そうやって描いている中に、いまの原型が生まれてくるのです。絶世の美女型のロボット、アンドロイドが必ず地球人を助けに来るわけです。そして地球人を助け終わったときに、動けなくなるのです。「いま、私の母性が滅びました。エネルギーの転送が止まりました。どうか皆さん元気で。さようなら」と言って動かなくなるロボットの話を、小学生のときからずいぶん描きました。
 それは、何が何でも美人でなければ気がすまないわけです。子どもでもほのかな恋心というものを持つのです。もう66歳ですから、10歳くらいのときのことは白状してもいいでしょう。同級生の中で自分がいちばん憧れている女性にほのかな恋心を持ち、なるべくそれに似せて書くのです。名前まで拝借して描いているわけで、もう同級生にはばればれです。いまでも「こいつはあのクロダが好きだったんだ」と言われますが、そのとおりだったと白状します。
 そういう描き方が癖になって、宇宙の海を行くときまで余韻をひいて、必ず自分が描く宇宙の物語の中には絶世の美女がいないとそこに行かないことになっています。怪人や怪物だけがいく世界には絶対に行きません。向こう側か同伴に絶世の美女がいるから旅をするのです。そうでなければ、行く気もしないし描く気も起こらないのです。
 高校の英文法の時間に、自分の生涯のサインを発明し、本名を丸めてマーキングをつくったわけです。最初が肝心だと思いまして、これは捧げるべき相手によって運不運が決まる。それで横恋慕していた同級生のいちばんきれいな者に迫っていって「絵は要らんか」と言うと、「描いてくれたらもらうよ」と。もう実は描いてるので、「はい」と渡して思いを遂げたわけです。彼女は喜んでもらってくれまして、それがいまのサインの始まりです。
 不思議なもので、そういう思いをかけながら汽車に乗り、結果的には東京に来ることになりました。九州で連載を始めておりましたので、航空便で送っていたのです。何しろ電話でのやり取りはできませんから、電報が来るのです「ゲンコウマダカオソイ」と来るわけです。「スグオクル」と打ち返します。しばらくすると「マダカツカヌ」と来ます。「ゲンコウオクッタ」と、本当に送ったのですが「ツカヌ」。しばらくすると「ゲンコウツイタカンシャ」。
 そのうち「まどろっこしいから一刻も早く勇姿を現したまえ」という手紙が来ます。勇姿を現したいのですが、お金がないのです。ですから「勇姿を現したいのでありますがお金がありません。ついては原稿料の前借はお願いできないでしょうか」と書くと返事が、「来れば渡す」。
 ですから、どうにもならないのです。自分でつくったアンプや、クラシックが好きだったのでなけなしのお金で買っていたレコードやそういうものを全部質屋にぶち込んで汽車の切符を買って、夜汽車に乗って上京しました。残っていた金は700円です。昭和31年ですが、31年の700円といまの700円では感覚的には7000円クラスになるのです。ですから自分では、元を正せば俺は700円だ。怖いものはないということをほざいているのは、そのせいです。
 そういう夜汽車に乗って来る体験の中で、何しろ関門海峡をくぐらなければいけない。これははなはだ面倒くさいのです。北九州の小倉を夕方5時半に出ると、大阪あたりで世が明けます。夜汽車に乗っていると、夜汽車の記憶のほうが強烈で、外灯や星空がすべっているように動いて見えるのです。
 いまは4時ころになるとすぐに寝てしまうのですが、その当時は寝ろと言われても18歳の少年には寝るどころではないのです。血湧き肉踊る思いがして寝られないので、のたうちまわって外を見ているのです。思春期ですから反対側の窓側を見て、そこに自分とは関係ないけれども絶世の美女がじっと前を向いて座っていて、その後ろを星が流れているような場面を空想しながら「俺はこういう場面を漫画に描くぞ、いつか映画にしてやる」と思いながら、その思春期の思いがあとの作品の中に出現してくるのです。
 どこかに実在する人物、横恋慕した女性といったものの面影がすべて混在してくるので、それが個性を生むのです。第三者の思いではないのです。人の絵を模写して冷たく見えるのは、裏側がわからないからなのです。自分は見たり体験したりしょっちゅう触れたりして、それらを理解したうえで描けば、その大きさやボリュームや裏側まで承知してこちら側を描くので立体的に暖かく描けるのです。人間の感覚とはそういうもので、人の絵を見たり写真を見たりして描いているものでは、まともなものにはなれないのです。それはレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」にしろ「裸のマハ」にしろ、すべてそのモデルとした理想の女性の原型を深くよく知ったうえで書いているから、後世のわれわれが見たときに感動するのです。
 人のものを参考にしたわけではありません。絵とか芸術、音楽、小説すべて自分の体験の理解度がものを言うのです。ですから、いくべきところには全部行ってみるべきで、見るべきものは全部見ておけというのが信念と化したのはそのせいです。それは現実にそうなのです。あの大ベートーベンでさえ、「エリーゼのために」を作曲したときに心憎からず思っていた恋人にたくさんラブレターを書いています。にべもなく、あの大ベートーベンがふられています。エリーゼという名前ではありませんが、そのラブレターが公開されたことがあります。
 しかし「エリーゼのために」は永遠に残ったのです。その万感の思いを込めてつくった曲だから、人の胸を打つのです。ほかの名だたる名画、その他全部そうです。ですからそれを見るたびにその画家、作曲家、小説家のバックグラウンドを考えます。この人は何に感動して、何を描こうとしたかというその裏側が知りたいわけです。
 ですから、なるべくその近いところまで行ってみます。ヨーロッパをうろうろしてみたり、アフリカへ行ったり、アマゾン、インド、南太平洋と、肋骨も2、3本ずつ折って帰って来ました。その代わりワニも猪もサルも、大きな声では言えませんがナマケモノまでみんな食ってしまいました。食われたのではなく、食ってきました。
 ワニのハンドバックは高いですから、このワニの皮を持って帰ったらいくらになるだろうかと思いました。しかし剥いだばかりの皮は生臭くて食えないので、しょうがないから中身だけは串刺しにして丸焼きにして、かぶりついて食ってきました。それは、はるかアマゾンの奥地です。
 私は『キャプテンハーロック』の中の相手をマゾーンという名前で呼んでいました。植物人間マゾーン、ラフレシア、それはアマゾンに生える花ともなんともつかない大型の花の植物です。その名前をマゾーンという名前でラフレシアとした。するとアマゾン川を遡っているときに、船長が「こちらへ行くとマゾーンだ」と言うのです。「えっ」と驚きました。「この奥はマゾーンという名前の場所だ」ということです。そのときに、やはり運命みたいなものを感じました。こちらが勝手に想像して描いているのに、マゾーンという実在の地があったのです。これは縁起がいいということで、ワニを食ったりサルを食ったりして帰ってきました。
 ちばてつや氏が一緒でした。彼は敬虔なクリスチャンか何か知らないけれども、動物の命を殺めてはならないという私とは逆に食い気よりもそちらのほうを大事にする。私が鉄砲を持ってジャングルに入ろうとすると、「あんまり殺すなよ」と後ろで怒鳴られるので、拍子抜けしてしまうのです。こちらは食いたい一心で踏み込むわけでが。獲物は彼には見せるなということで、捕ってきた獲物は全部キャンプの裏側で料理しました。
 ところが食う段になると、「この肉うまいな」と原型を知らないから盛大に食ってくれる。こちらは原型も全部知っているわけですが、一緒にかぶりついたのはワニの丸焼きだけで、この友人たちとの思い出が、自分を支えてくれるのです。
 そういうことで、現実にものを体験しないと描けない。下宿でインキンタムシになりました。この中で、お年から言うとインキンタムシの体験者はかなりおいでだと思います。あれほど始末が悪くて恥ずかしいと思うものはありません。かゆくてかゆくて血まみれになってもかきむしり、暗黒の青春だと思いました。
 ある日新聞を見ていたら「白癬菌、俗にタムシという」という論文が出ているのです。白癬菌、なるほど。学名なら言えるということで、本郷三丁目の薬局に行って「白癬菌の薬をください」と言ったら、「おお、お前もタムシか」と言われました。言えば治るのです。本当に一発で治るのです。実は、これをそのまま漫画に描き込みました。このときに使命感が生まれたのです。何のためにこれを描くか。ここが実はバリアを乗り越える瞬間です。自分は何のためにこのような仕事をして物語を書くのかという目的意識、使命感が生まれました。それは世の中の悩めるインキンタムシ青年たちが、公然と「インキンタムシ」と口走れる世の中にしてしまえということで、症状から何から役名まで書き込んだ。
 そうすると、山のように手紙が来ました。「おれはいま真っ最中だけど、前途が揚々と開けてきた」。女性からも来ました。森雪さんというヤマトの女性のモデルにした女性で森木深雪さんというきれいな字面のピアニストになった方で「私の彼が急に元気になりました。なぜかと思ったら、あなたの漫画を読んだせいでした。感謝します」という手紙をいただきました。
 大勢の人たちが、いろいろな感想をくれました。そこで森木深雪さんの真ん中を伏せて、森と雪を残して森雪さんというのが誕生しました。沖田艦長というのは、私の親父です。私の親父はああいう顔をしていました。そして口癖のように、「みだりに刀の柄に手をかけてはならんぞ。抜く以上は生きて帰ることを考えるな。その覚悟がなくば抜いてはならん」。つまり、負けるけんかはするなということです。


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