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平成16年度 海事講演会
船の科学館開館30周年記念 海・船セミナー2004
この人海と船を語る
講演録
平成17年3月
船の科学館
 
1. はじめに
 船や海のことを多くの方に知っていただこうという理念のもと、当館は今年開館30周年を迎えました。
 そこで、平成16年度の講演会では、海や船に関わりながら各界の第一人者として活躍されている方々を迎え、それぞれの生き方の中でいかに海や船に関わり、ご自身の生き方の中でそれらが生かされてきたか、また開館30年を迎える船の科学館への思いなどをお話していただきました。
 多くの方に海や船のことを理解していただく一助になれば幸いです。
 
<第1回>
「宇宙戦艦ヤマトの原点、それは子供の頃にあった」
漫画家 松本零士氏
 
 
 
司会 お待たせいたしました。お時間になりましたので、ただいまから2004年船の科学館開館30周年記念「海・船セミナー2004」を始めます。皆さんご存知のように、船の科学館は今年で30年目を迎えることができました。それを記念いたしまして、今年は海や船に関心や関係のある各方面で活躍されているいろいろな方をお招きして、お話ししていただきます。第1回目は松本零士さんです。さっそく松本先生をご紹介いたします。どうぞ皆さん、拍手でお迎えください。(拍手)
松本 ご紹介いただきました松本です。このような怪奇な帽子を被っていてまことに申し訳ありません。いまは宗教的に過敏な時代で、この帽子を被っているばかりに外国をうろうろしていると「お前は何教か」と、よく聞かれます。「これは宗教的な意味ではありません。漫画キャップです。それが証拠に、ここに海賊のマークが付いているでしょう」と言うと、「おおっ」と喜んでもらえます。
 海賊というのは、昔はともかくいまはロマンチックなかつての海の思い出として人類の心に刻み込まれている万国共通の思いです。ですからドクロの旗印を見せると皆「それならわかった」。「腕のここが赤く塗ってあるのは、俺は生きた骸骨だ」とか、ばかなことを言いながら話をしています。
 私は、子どものころから乗り物が大好きな人間でした。小さいときも、汽車に乗せられると手間のかからないチビでした。赤ちゃんのときから、窓枠にしがみついて勝手に体を揺すって「ポッポッ、シュッシュッ」と言っているので、まったく手間がかからない。
 その代わり近所で何かものを食べる人がいたらそちらのほうを一生懸命じっと見ているので、そのおじさん、おばさんが「はい、これをあげよう」と言うと、びっくりするような声で「ありがとう」と言って食べ始めるというガキでした。
 ですから小さいときに汽車や船の窓から見た風景というのは、全部記憶しております。乗り物に乗るのが大好きでした。ただ残念なことに、小学生の低学年のころから空飛ぶ円盤のUFOだとか宇宙人に憧れて、夜汽車でも船でも何でも窓の外は何も見えなくても一睡もせずに外をにらんでいるのですが、残念ながらこの年になるまで1機も見たことがありません。100機見たとか150機見たという人がいますが、あれはたぶん幻影か大ボラだと決めつけています。ただ、そういう中で夢を見るのが好きだったのは事実です。
 私の父親は、空を飛んでおりました。ごく初期で、まだ日本の飛行隊としては同期生が5人くらいの時代の親父ですから、初期の飛行機の話もたくさん聞いております。結局第二次世界大戦で生きて生還したのは同期生のうちでは私の親父だけで、同期生は全部海の彼方で消えました。それが私の父親の無念な思いで、友人への思いというのがずっと残っているのは子ども心にもよくわかっておりました。
 終戦直後の小学校2年生、7歳で終戦を迎えました。それまでは明石にいて、明石公園は私の遊び場でした。それから戦争中は両親の本来の実家のある四国の愛媛県大洲市というところ、「おはなはん」という劇で有名になった場所にいて、そこで呉や広島に向かうB29の大群や艦載機の群と遭遇したわけです。実際に機関銃で撃たれた世代で、機銃掃射を浴びました。
 あの轟音たるや、世にもものすごいものでした。私もよく戦記漫画を書きますし映画も見ますが、とても電気装置では再現できないほどの巨大な音です。その轟音は、いまでも耳に残っています。実際にそれを体験した最後の世代と言ってもいいでしょう。
 昭和20年(1945)8月15日、私は小学校2年生の7歳でした。肘川という川は坂本竜馬が脱藩するときに長州へたどって行って船出するときに通った道筋であると言われており、皆「ここを通った」と言いたいのでややこしいですが、私は肘川を通ったということは信じています。何しろ、そこで泳いでいたときに終戦なのです。私が水の中に入った最初の記憶は、竜馬脱藩の川の中で8月15日を迎え、そこで泳ぎを覚えたのです。
 毎日メダカの丸飲み競争をやり、カメの首を引っこ抜いた。いまになると「カメさん、ごめんなさい」です。カメは引っ張ったらスポンと出てくると思うので、竹の火ばさみで押えておいてうんと引っ張ると、カメさんは首が伸びて死んでしまったのです。
 そのとき、カメというのは甲羅と体が一体なのだということを子どものころに理解しました。展示されているカメの甲羅は筒抜けですから、すぽんと出てくることを期待します。あれは、引っこ抜くものではありません。ですから、いまだにカメさんを見ると「カメさん、ごめんなさい。悪いことをした」と言っています。
 また、トンボの頭をちぎったり、赤と黒のトンボをつなぎ合わせて赤黒トンボなどとやったり、それはむちゃくちゃなことをやりました。虐殺した昆虫の数となると数百匹から数千匹に至るはずですから、自分は地獄に落ちると思います。
 また、ヘビを見たら必ず殺す。どんな食糧難のときでも、ヘビとネズミの類は食料の対象ではありません。ですから、ヘビを見たら必ずぶち殺す。ヤマカガシにまでトライしました。死なないというのは恐ろしいもので、ヘビのほうが飛び掛ってくるのですが、ヘビの分際で生意気だということで、ぶち殺して悠悠とぶら下げて帰ったら「それは毒ヘビだ」と言われて、あとで認識するようなありさまです。
 幼少のころは、そういう時代を送りました。明石という大都会で、『くもとチューリップ』という漫画映画に遭遇しました。これが怪奇なことにそのころの私は5歳、幼稚園です。ただし幼稚園は1日しか行っていません。幼稚園の入園式に行きました。すると席はここだ、動いてはいけないと言われるし、鉛筆やクレヨンを前に置かれて、何か非常に不自由なのです。それであくる日から登園拒否児になりました。うちの者も何も言わないから、私は幼稚園児と言いながら1日しか行っていませんで、入園式にだけ行きました。
 その時代、昭和18年(1943)に明石の映画館で『くもとチューリップ』という、いまの東映の前進である映画会社がつくったミュージカルアニメーションとしてはいまでも日本最高の傑作と言われている映画を観て、動く映像というものに興味を持ちました。
 私の家には、父親の趣味で映写機が置いてありました。当時のフィルムは可燃性のセルロイドで、引火したらボカンといく。それを平気で何巻も扱って、恐ろしや5歳のチビが映写機を回して壁に映して喜んでいた。
 昭和18年(1943)ですから戦争中です。しかし映す映画はミッキーマウス、ポパイ、ベッキーさん、それにのらくろ、日の丸旗助という国産のものが混じっていて、この世界だけは戦争中といえどもあまり隔てがありませんでした。
 あとで東京に来てから手塚さんが突然、「なぜあんたは『くもとチューリップ』みたいな漫画を描くんだ」と言います。子どものころに影響を受けていますので「いや、明石で観た」と言うと、「ええっ」と彼が驚きます。「実はおれもそこで観た」と。
 明石の映画館では1週間しかやっていない。そうするとその1週間という幅の中で、5歳の私と15歳の手塚少年が同じスクリーンをにらんでいた可能性があるのです。それで両方が、同じような志を持った。家の様子を聞くと、お父さんが映写機が趣味で、うちと同じように家にフィルムがあって、それを回していたということで環境が非常によく似ているのです。本当に、のけぞったとはこのことです。未知との遭遇ではないですが、昭和18年(1943)に、すでに将来互いにアニメーションを志すチビと少年がそこで異常接近遭遇をしていたのです。実に不思議な気がします。
 石ノ森章太郎と私とは同年同月同日生まれです。宮城県で誕生したとき、出産には満潮干潮の差が影響あると彼から聞いているので九州の久留米で生まれた私のほうが1時間くらい遅いかも知れませんが、同年同月同日生まれです。


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