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終身雇用の人だけ集めて研究するから意見が偏る
 では、どこが問題かと聞いてみると、増えているのは中小企業、サービス産業ばかりである。大企業が増えていない・・・それから官庁が増えていないという。
 中小企業、サービス産業ばかりだとなぜ内容が悪いのかと問うと、「終身雇用でない」と言う。そこに集まっている学者も「終身雇用でないからかわいそうだ」と言った。私は「嫌な会社にいつまでもいなければいけないほうが、よっぽどかわいそうである。どんどん移れる日本をつくったことは、労働省の成功だ。なぜそう思わないのか」と言ったが、だれも賛成しない。
 ふと周囲を見回すと、メンバーは全部終身雇用の人である(笑)。労働省の人、国立大学の教授、新聞記者、それから国営放送の記者など、みんな終身雇用だと本人は思い込んでいる。そういう人が集まって、「気の毒だ」と言っている。余計なお世話という光景です。
 私も当時は銀行にいましたから、常識としては終身雇用でしたが、ただし信じていませんでした。というのは、銀行に採用が決まった最初の日、上の人が挨拶をする。「頭取を目指して頑張れ、君たちは特別幹部候補生である、正社員である。だから頑張れ」という話でしたから、私は終わってからお茶の時間に、人事部次長に「終身雇用だというのは、どこにも約束がありません。そもそも一年を超える契約は無効とすると、労働法に書いてあります。もしも骨を埋める気持ちで一生頑張れと言うのなら、そういう契約にしてほしい」と言ったところ、その人は立派な人でした。
 「労働法違反だから、そういうことはできない。しかし、君の言うとおりである。これは慣習である。潰れなければ、銀行はクビ切りをしないという意味である。だから潰れないように頑張れと言っている。まあ君個人がよっぽど悪ければ別だけれど」(笑)と言いました。ただの慣習だと言ってくれたので、ああナルホドと新入社員のときからわかっていたのです。
 ところが研究会のメンバーたちは、そんなことも知らない。日本人に生まれて日本の会社に入ったら、五十五歳までは大丈夫だという前提で四十歳前後の人がマジメに話しているのです。
 
 話を戻しますが、日本では全部終身雇用ということはない。にもかかわらず、大企業とか、官庁の人だけで集まって意見が一致して、それが新聞の紙面を占領し、テレビの画面を占領している。が、大部分の日本人は違う気持ちを持っています。しかし、その声は出てこないということです。
 例えば、銀行でも、私の知っている例ではかつての住友銀行は、四十歳をすぎるとどんどん肩を叩かれるので、一〇〇人採用された同期生があまり残っていない。「次を世話してくれるんだろう?」と聞くと、「世話はしてくれるが、向こうの会社に行って骨を埋めろ、もう住友銀行の人間ではないと言われる」ということでした。だから、籍は抜かれる。みんながそれぞれ厳しい人生を歩んでいるのですが、それは自分だけとか、住友銀行だけとかで、日本全部はきっと違うのだろうと思っている。麗しいけれども、変な思い込みですね(笑)。
 それから、日本は昔から終身雇用だったということもありません。
 終身雇用が広がったのは戦争中です。戦争経済のとき、雇用契約の期間がだんだん長くなって、そして退職金という制度もできた。
 そもそもの始まりは、昭和になって日本が急速に工業化しだしたときです。製造業で始まったことでした。それが昭和十四年からの、国家総動員体制の中で日本中に広がり、定着していく。
 その前の日本における会社経営は、伊勢屋とか越後屋とかがありますが、別に終身雇用ではありません。じつに厳しいもので、完全自由経済です。三井家ご当主の胸先三寸で人事の形態は随分違っていた。クビもどんどん切った。家訓全集二十何巻を買ってきて読んでみると、あまりにもケチケチしているのでびっくりします。
 それを読んでいると、銭形平次の時代劇がよくわかります。野村胡堂はそれぐらいの勉強をして書いている。一つだけ面白い話をすると、伊勢屋は自分の出身の伊勢の村へ行って、越後屋は越後へ行って、甲州屋は甲州へ行って、血縁関係や地縁関係で少年を集めてきて、これを小僧にする。そのときは無給で、しかも親元は衣服を一年に二着送ります。その代わり食べさせてくれる。しかし、できの悪いのはどんどん村へ帰してしまう。使えるとなると小僧から丁稚、手代とだんだん出世して、その間は住み込みです。通勤すると、店のものを持ち出すから外へ出さない。通勤する人はよほど信用のある人です。
 いよいよ三十数歳になると家を持ってよろしい、通勤してよろしい。その一歩前の形は、結婚してもいいが、家に帰ってはいけません。この店の中で生活して、時々家へ帰りなさいとか、そういう制度がいろいろある。
 最も悪らつなのは、いよいよ番頭にするとき、「試験はこうやりなさい」と書いてある。全部は番頭にできない。番頭有力候補が三、四人、この中から一人だけを番頭、残りはクビにしてしまいたいときのやり方です。
 それは、お得意の取引先に頼んで、番頭を吉原へ誘ってもらう。お接待しますと誘惑してもらう。すると、誘惑に負ける人は、酒の味を覚え、女の味を覚える。とうとう店のお金を持ち出して、吉原へつぎ込む。これが試験なのです。それを口実にして、クビにしてしまえと書いてある。きちんと文章になって残っています。もちろん家訓ですから、当時は人には見せないわけです。
 だから、日本型温情経営だの雇用形態だのというが、それはいつの何のことを言っているのかと思います。江戸時代の商家はこのぐらい厳しくやっていなければ続きませんでした。
 
 そういうのが江戸時代から明治時代にあって、やがて工業化を始めたとき、熟練という問題が発生しました。
 イギリス、アメリカから機械を取り寄せて動かすが、その当時の日本はそんな立派な機械は買えないから、安物を買ってきて、工夫改良して使う。基幹設備だけ買って派生設備は国産するが、教えられる先輩はいない。そこで熟練という問題が日本で特に発生する。熟練工は社内育成です。コストをかけた会社の財産です。
 この熟練工が引き抜かれてしまうのを引き止めなければいけない。熟練工には高い賃金を払わなければいけないが、会社自体が弱体だから払えない。どうしますか?だから、終身雇用になるのです。勤務評定期間がやたらに長くなる。五年、一〇年先に払うから、というのがやがて退職金になるのです。「移らないでくれ。移ったら、今まで働いた分がパーになるぞ」という効果があって、退職金とは“足どめ金”なのでした。
 日本は満州事変以降、工業を発展させていく。それを支えていたのは熟練工で、その引き止めのために、勤務評定期間が長くなって、「後でまとめてどっさり払う」というのが退職金で、それがもっと長くなると、「取締役にしてあげる」となる。
 それをやっていたのが当時の財閥ですが、オーナー社長がいてなかなか陸軍の言う「生産力増強至上主義」に協力しない。それから社員を小僧に思っている。
 そのとき陸軍は次のようなことを発見しました。「戦争は国家のため、天皇のためである。だから日本国民は、国家と天皇のために働くのである。三井、住友、岩崎家のためではない」と言ったほうが、国民はよく働く。ですから、主要軍需工場を国有、国営にして、そこで働く人を準公務員にしてしまう。するとたしかに日本人はよく働いた。ここは国民性です。天皇陛下のためならやる気が出るという時代でもありました。
 それで、日本の民間会社の主だったものがみんな国有、国営みたいになった。それから、オーナーの株を無効にしていく。経営権を国家が奪ったわけですね。
 労働組合も同じです。日本にもイギリス、アメリカと同じ労働組合がありました。会社別ではなく職能別だったのです。それをみんな会社別にして、さらには産業をもって国に報いる会―産業報国会になれと言うと、それもそうだな、まず勝たなければしようがないからなと、組合運動が国家の下に入った。
 そのすべては「生産力増強」のためです。
 そのようなわけで、日本国民みんなが公務員的になります。というか、陸軍軍人は自分がやっているとおりを民間企業に押しつけたのです。
 ところで、軍人は、公務員の塊です。公務員の中の公務員です。だから、陸軍の中の習慣を三井、三菱、住友、中島飛行機、川崎重工業に持ってくると、みんな軍人にされてしまう。その代わり軍人的名誉、軍人的待遇を与えると、みんなよく働いたのです。
 それが終身雇用であり、年功序列賃金であり、企業別労働組合です。
 ちなみに陸軍においては、兵隊は国民のままです。正式の公務員ではない。一等兵、二等兵は、今でたとえればボランティアみたいなもので、二年たったら帰すという約束があった。上等兵、あとで兵長というのもできましたが、これも公務員ではない。その上の伍長になると、ここから公務員になる。
 伍長の上が軍曹で、その上が曹長。これは大過ない限り二年たてば一階級上がるとか、ボスが採点して成績順の名簿をつくるとか、そういうシステムが陸軍の中で決まっている。そういうシステムがそっくりそのまま、一般の民間会社のほうへ入った。それが年功序列制度です。
 完全には入りません。入りかけたところで戦争に負けましたから。
 産業報国会の労働組合も同じです。労働を売っているのではなく、忠誠心を売るようになった。すると二年たったから係長にしてくれとか、あいつがなったのに自分がならないのはなぜだとか、みんなそういうことを言うようになった。
 公平の原則とか、年功序列賃金とか、それはみんな戦争中にできたものです。言い換えれば当時の日本人には、実はかなり異質なものだったはずです。
 
 さて戦争が終わると焼け野原で、何が何でも大事なことは生産回復です。
 ここでみんなが忘れていることを言えば、アメリカは残酷でした。貿易を統制しました。アメリカが日本の貿易を握っている。金を出しても売ってくれない。だから通産省というのはなかった。最初にできたのは、貿易庁です。小刻みに許してくれるのですが、だから、何が何でも国産して生きていかなければいけない。
 日本人の生活は最低水準に落とす、というのがマッカーサーの最初の方針です。別にマッカーサーを悪く言っているのではなく、これはドイツに対しても同じです。それを表面は「二度と軍国主義にならないように」と言うのです。その内容は広くて、中には日本人を一〇〇年奴隷にしようという考えがあった。口には出さないが、それは欧米人の常識です。
 だから世界情勢が変わって、ともかく貿易再開となったとき、日本人はほんとうに心の底から喜びました。これからは良いものをつくれば売れる、安くつくれば売れる。では一生懸命働こうとなりました。勤勉には「勤勉の条件」があります。
 さて、その貿易再開以前、ともかく自分のものは自分でつくらなければ食えないというとき、国家統制は非常にきつくて、産業報国会とか国家管理工場というのが戦後五、六年は続いた。ですから、戦争中の統制経済は、戦争が終わってからもまだ五、六年続いた。その辺からしか知らない人は、「日本は昔から」と思うわけです。
 「昔から」と言うけれども、戦争中からです。あるいはその前の、満州事変以降に工業を発展させていく頃からだとも言えるでしょう。それを「一九四〇年体制」と言って、一時ちょっと流行しましたね。







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