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1989/09/30 朝日新聞朝刊
(社説)建国40年迎える中国の試練
1949年10月1日、北京の天安門楼上で毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言した。「明朝時代の北京の偉大な紫色の城門や城壁をとりかこんで参集した、熱狂的な歓呼をあげる数百万に向かって演説した。『中国人民は立ちあがった。だれも再びわれわれを侮辱することはないだろう』・・・」。作家ハン・スーインはその模様をこう書いている。
毛沢東の隣には、朱徳、劉少奇、周恩来らが並んでいた。「わが民族の前途は限りなく明るい。中国の歴史はここに新しい時代が開かれた」という全国政治協商会議第1回全体会議での毛沢東の宣言の通り、中国の人々は希望に燃えていた。列強の絶えざる侵略、封建的な専制支配のくびきを断ち切って、新しい国づくりが始まった。
5年前の国慶節。天安門楼上の中心は、  小平氏であった。開放・改革政策が軌道に乗り、中国経済は急成長をとげていた。オープンカーに乗った  氏は、長安街に整列した解放軍を閲兵し、大学生の隊列の中からは「小平ニンハオ(  小平さん、こんにちは)」と書かれた手製の横断幕が現れた。
建国から40年、開放・改革から10年を経た今年の国慶節は、盛大で輝かしいものになるはずだった。しかし6月4日の流血事件のあと、北京はいぜん戒厳令下にあり、パレードは行われない。外国からの祝賀の顔ぶれもさびしいものとなるようだ。
事件後、  小平氏の指名で党総書記に就任した江沢民氏は国慶節に先立つ内外記者団との会見で、6月の武力鎮圧事件について「今回の風波は悲劇でなく、中国共産党の指導に反対し、わが社会主義制度を覆そうとする反革命暴乱だった」と述べた。
だが、李鵬首相が認めた数字でも、この事件での死者は319人にのぼる。首都の真ん中で同じ中国人同士が血を流し合ったこの事態を、多くの中国人も、この上ない悲劇と受け取っているのではなかろうか。
学生運動指導者の追及は続き、密告が奨励されている。思想、政治学習が強化され、重苦しい空気が漂っている、と外電は伝えている。人民の軍隊が大衆に発砲したという前例のない事件が残した傷は深く、重い。
とはいえ、中国の現状を厳しく見つめるのと同時に、この40年、中国が歩んできた足跡をふり返り、その歴史の中に現状を位置づける視点も欠かすことはできない。
建国時、4億7500万だった中国の人口は、11億に達した。かつて餓死者が路上に横たわっていた国が、食べるだけなら困らなくなり、人々はより豊かな生活を求めるようになった。建国前の半植民地状態から脱しただけでなく、国際政治の舞台でも大国の列に加わった。この巨大な変容は中国人たちの誇りをかきたてる一方で、発展途上国の人々をも大きく力づけてきた。
その意味で「共産党がなければ新中国はない」という中国の歌の文句は、いまなおある種の説得力を失っていない。だが、中国の40年の足どりには、曲折が多かったのもまた事実だ。党の指導が常に正しく、政策や路線に誤りがなかったわけではなく、むしろ試行錯誤の連続だった。
土地改革から人民公社へと進んだ急速なコミューン化のあと、請負制に戻った農業政策、反右派闘争、文革、批林批孔、反ブルジョア自由化などが繰り返された思想運動と権力闘争、中ソ一枚岩から中ソ対立、そして和解に至る対ソ関係、朝鮮戦争参戦、反米闘争から米中、日中正常化へ至る外交路線・・・その時どきの客観情勢に迫られてのものもあるとはいえ、中国の振幅は大きかった。
いま中国は、政治不安や対外債務の増大といったマイナス要因に悩みながらも、開放と改革をめざしている。この政策自体は、生産責任制でうるおった農民を含めて、多くの人々から支持され、世界の国々も、中国がその路線を継続することを期待している。
そうしてみると、中国の困難を不変のものと固定的に見るのもまた誤りだろう。中国はいま試練の過程にあるといってよい。
地球の5分の1の人口を抱える中国の動向は、全世界にとって、また隣国であるわが国にとって大きな関心事である。中国の歩みを注意深く見守りたい。
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