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第八回海洋文学大賞の募集と選考について
 第八回海洋文学大賞は、平成十五年十月十日から平成十六年二月二十九日までの間、公募を行った。作品募集の周知は、関係記者クラブなど報道関係向けに発表を行ったほか、マスコミ各社の媒体、海事関係団体の会報、文学館、文芸関係の教育機関等に応募要綱を周知するとともに、主な図書館や博物館などの文化施設及び運輸関係施設で募集ポスターの掲示を行ったり、海のイベント会場でチラシの配布を行う一方、インターネットを利用して広く応募を呼びかけた。
 応募作品は、総数四百三十六点で、その内訳は、海洋文学賞部門百九十三点、海の子ども文学賞部門二百四十三点であった。
 応募者は、日本全国はもとより、インドネシア、シンガポール、ブラジル、モロッコ王国、セイシェル共和国などの在住日本人からの応募もあった。また、応募者の年齢の幅も広く、最年少は海の子ども文学賞部門の八歳から、最高齢は海洋文学賞部門の九十一歳の方だった。
 締め切り後、二部門の応募作品について、ただちに粗読み選考をすすめ、引き続いて予備選考委員会(海洋文学賞部門は四月二十日、海の子ども文学賞部門は四月二十二日に開催)において、それぞれ候補作品を決定、本選考委員会に送付し、選考をお願いした。
 本選考委員会は、海洋文学賞部門は五月十八日に、十川信介(選考委員長)、北方謙三、半藤一利、鈴木光司の各選考委員により、また、海の子ども文学賞部門は五月二十四日、十川信介(同)、木暮正夫、上笙一郎、木村龍治の各選考委員によりそれぞれ開催し、海洋文学賞部門、海の子ども文学賞部門の両部門でそれぞれ大賞一点及び佳作二点を決定した。
 また、海洋文学のジャンルにおける著作活動において顕著な活躍をされている作家を顕彰することにより、一般国民に対して海や船への興味を喚起することを目的とする海洋文学大賞特別賞については、三月下旬から四月下旬にかけて出版社、新聞社等で文芸関係に携わる方がたを中心に候補作家の推薦をお願いし、その結果をもとに、五月十八日に十川信介(同)、北方謙三、半藤一利、鈴木光司の各選考委員により、選考委員会を開催し、受賞者を決定した。
 報道機関等への発表は、五月二十八日に行った。
 なお、大賞及び特別賞の贈賞式は、七月十六日に船の科学館(東京都品川区)において受賞者ならびに関係各位を招いて開催。
 
第八回海洋文学大賞の入賞作品
【海洋文学賞部門】
大賞 『宗谷丸の難航』(ノンフィクション)高頭聰明(そうめい)(大阪府)
佳作 『南風(まぜ)の海』(小説)中川富士男(和歌山県)
佳作 『コーラル・アイランド』(小説)坂西夏果(ばんざいなつか)(兵庫県)
【海の子ども文学賞部門】
大賞 『海ん婆』菅原裕紀(岩手県)
佳作 『海のでんわにきをつけろ』渡辺ふき乃(千葉県)
佳作 『いつか、未来の海で』新垣勤子(いそこ)(沖縄県)
 
第八回海洋文学大賞特別賞
画家・海事評論家
柳原良平
 
『宗谷丸の難航』
高頭 聰明(たかとう・そうめい)
本名=同じ。一九三〇年小樽市生まれ。大阪工業大学専門学院電気工学科卒業。関西高周波(株)・現日本電子(株)大阪工場に勤務。五年後、高頭高周波工業(株)設立。経営の傍ら、絵画、文学を勉強。一九八〇年、和泉市・文化功労賞受賞。現在パリ国際サロン会員。大阪府和泉市在住。
 
(一)
 
 気付かぬ内に船は岸壁を離れたらしく、黄色い裸電球が灯る船客待合所がゆっくり流れていた。銅鑼(どら)の音もない汽笛も鳴らない出船だった。
 一九四五年九月十八日、昼下がり。
 宗谷丸は低い機関音をたてながら岸壁との距離を徐々に離した。被爆を免れた函館港の全景が一枚の写真になった。港湾も一望できた。キラつく三角形の鋭い波が、宗谷丸をとり巻いていた。
 外海のうねりが高い。
 吹き付ける強風に煽られた(あおられた)波しぶきが疾走してくる。沖合、二千メートルの西防波堤灯台(赤堤(あかてい))も天辺を残して見え隠れしている。
 突堤内に船影はない。漁船は既に身を潜めて(ひそめて)いるのだ。
 港湾にもうねりが生じてきた。外海の波が防波堤に打ち付けて舞い上がる。そこに大波が覆い被さる。更に、次のうねりが押し寄せて、巨大な波柱となって赤灯台を包みこむ。余剰の波はうねりとなって船にも打ち寄せる。
 黒い雲塊が、東南の空から、疾走してくる。その凄まじさは、並の時化とは思えなかった。
 雲は見る見る広がって、全天を墨色に覆い尽くしてしまった。
 小学生のころ母につれられて幾度か往還したあの穏やかな、凪ぎ(なぎ)のターコイズブルーに輝く青函航路の片鱗もない。
 視界の果てから、迸る(ほとばしる)デービスグレーの色合いに、僅か一筋、燻し銀(いぶしぎん)に光って見えるのが水平線だとしたら、海原はたしかに異様な迫り(せり)上がりを見せていた。
 甲板を巡回中の一等運転士(現=航海士)が、水手長(現=甲板長)を従えて声高に話しながら船首甲板の方からやって来た。
 照日と、朝日は、船室外壁と、長持ち大の木箱との隙間に身を潜めていた。甲板のほぼ中央あたりだ。犇めき(ひしめき)あった船室入り口から逃れた兄弟には、誂え向きの空間だった。
 照日は兄に頭を押さえ付けられて蹲る(うずくまる)と息を殺した。朝日も這いつくばった。
 木箱は頑丈な作りで、躯体を屈め、蹲ると見つかることはない。木箱は甲板と同じ色で、背負ったリュックサックも似た色だ。木箱は、誘導索先端、砂袋予備収納箱と記されていた。
 彼らは気付かずに通り過ぎた。
 強風が吹き飛ばすが、怒鳴るように交わす言葉ははっきり聞こえた。
「うねりは甲板を洗う程度でしょう」
「そうだな、波頭は赤堤より低いが飛沫はめっぽう高い。だが、本船なら充分凌げるだろう。船長に出航を急ぐよう報告する。そのあと俺は船首に急がねばならん」
 やはり彼らは外海の波高を目睹(もくと)で観測していたのだ。うねりの頂点を測定するには、高さ七〜八メートルの赤灯台を基準に推算するのが彼には最善だった。
 なぜそうまでして、入念な波高観測を行ったかを説明しなければならない。







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