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関連人物略伝
※この人物略伝は、春の企画展「阿部正弘と日米和親条約」に関連して作成した。
※この略伝は五〇音順に人物を配列した。
※本図録の解説で紹介した人物は、名前をゴシック体で表記した。
※この略伝に所収した以外にも遺漏した人物が多くいることを了解されたい。
井伊直弼(いいなおすけ) 一八一五〜六〇
 一八五〇年、長兄の死により彦根藩主となる。幕府内の保守派からは、阿部正弘に対抗する存在として、期待を集めていた。将軍継嗣問題では、紀州藩主徳川慶福(のち家茂)を推す南紀派の中心となり、徳川斉昭の七男・一橋慶喜を推す一橋派と激しく争った。五八年、直弼は大老に就任し、朝廷の承認を得られないまま日米修好通商条約に調印、慶福を将軍継嗣と定めた。その後安政の大獄を行い、反対派に徹底した弾圧を加えた。六〇年、江戸城桜田門外で水戸浪士らに殺害された。
 
岩瀬忠震(いわせただなり) 一八一八〜六一
 旗本の三男で、旗本岩瀬家の養子となる。一八五一年、昌平坂学問所教授となる。五四年、阿部正弘に抜擢されて海防掛目付となり、品川台場築造や講武所、蕃書調所の設立などに当った。外交面では、日露和親条約や日米修好通商条約調印を行った。積極的な自由貿易論者で、その思想は正弘にも影響を与えた。将軍継嗣問題では一橋派であったため、井伊直弼により作事奉行に左遷され、さらに官職、禄を奪われ永蟄居となった。
 
江川英龍(えがわひでたつ) 一八〇一〜五五
 伊豆(静岡県)韮山の世襲代官の家に生まれ「太郎左衛門」を襲名、号は坦庵、英龍は名。一八四一年、高島秋帆に砲術を学び、自らも塾を開き人材を育成、反射炉の建設や鉄砲の鋳造を行った。
 ペリー来航後、阿部正弘に認められて勘定吟味役となり、海防に参画する場を与えられたが、二年で病没した。
 
江木鰐水(えぎがくすい) 一八一〇〜八一
 名は、字は晋戈、鰐水と号した。安芸豊田郡戸野村(河内町)の出身で、福山藩医・五十川義路の娘と結婚し、同家の先祖である江木姓を名乗った。京都で頼山陽に学ぶ。一八三七年福山藩校弘道館の講書を命ぜられ、四年後、福山藩儒として江戸在勤となった。阿部正弘の藩校改革に積極的に献言している。長州戦争や箱館戦争では参謀として福山藩兵を率いた。
 
大久保忠寛(おおくぼただひろ) 一八一七〜八八
 号は一翁。一八五四年、阿部正弘の人材登用で徒土頭から目付となった。五七年長崎奉行となり、駿府町奉行禁裏付、京都町奉行、西丸留守居を歴任したが、安政の大獄で罷免された。六一年許されて蕃書調所頭取となり、以後、外国奉行、大目付、側衆、講武所奉行、勘定奉行、会計総裁、若年寄をつとめた。勝海舟とともに江戸城無血開城の実現に努力した。
 
勝海舟(かつかいしゅう) 一八二三〜九九
 咸臨丸での日本人初の太平洋横断航海や西郷隆盛と会見し江戸城の無血開城を実現したことで知られる勝海舟も、阿部正弘の人材登用で頭角を現した人物である。通称は麟太郎、名は義邦、のち安芳。海舟と号した。幕臣で小普請組の長男として生まれる。永井青崖に蘭学を学び、蘭学塾を開く。ペリー来航時に提出した意見書が大久保忠寛に認められ、一八五五年、長崎海軍伝習所の伝習生となったことが人生の転機となった。
 
川路聖謨(かわじとしあきら) 一八〇一〜六八
 父は豊後(大分県)日田代官所の属吏で、小普請組川路家の養子となる。勘定所の筆算吟味に合格して勘定方勤務となり、能吏として評価された。勘定吟味役、佐渡奉行、小普請奉行、奈良奉行、大坂町奉行を経て、一八五二年勘定奉行に昇進する。安政の改革以前では異例の登用である。プチャーチン長崎来航に際し応接掛を命じられ、翌年下田で日露和親条約を結んだ。阿部正弘、堀田正睦につらなる開明派とみなされて安政の大獄で左遷された。江戸開城に際してピストルで自殺を遂げた。
 
菅自牧斎(かんじぼくさい) 一八一〇〜六〇
 通称は菅三・三郎、名は惟縄、字は昭叔、号は自牧斎など。漢詩人として一世を風靡した菅茶山の甥・萬年の子で、茶山の没後その私塾・廉塾を嗣いだ。頼杏平・近藤篤山・頼山陽・篠崎小竹らに儒学を学び、一八三七年に福山藩儒者、のち侍講となった。
 
関藤藤陰(せきとうとういん) 一八〇七〜七六
 通称は和介など、藤陰と号した。備中吉浜(岡山県笠岡市)の生まれで、幼くして吉井村(同吉井町)の石川家の養子となり、石川和介と名乗った時期もある。笠岡の小寺清先、京都の頼山陽に学び、特に山陽から厚い信頼を受けた。一八四三年福山藩儒として登用され、阿部正弘の補佐役となった。藩校誠之館の創設、ペリー来航時の浦賀・下田探索、蝦夷地探査などを行なった。正弘没後も藩主の侍講や側用役として幕末動乱期の福山藩を支えた。
 
島津斉彬(しまづなりあきら) 一八〇九〜五八
 薩摩藩主。世子時代から政治的見識を評価され、徳川斉昭・松平慶永や老中・阿部正弘らと親交を結んだ。一八五一年襲封し、殖産興業策や西洋式軍備拡張を進めた。将軍継嗣運動では一橋派であったが挫折、鹿児島で軍事演習中に急死した。西郷隆盛・大久保利通らを育て、薩摩藩勤王運動の原点を作った。
 
杉純道(すぎじゅんどう) 一八二八〜一九一七
 のちに亨二と名乗る。長崎生まれで、緒方洪庵に蘭学を学び、勝海舟の食客になった縁で阿部正弘に招聘され、一九五五年より福山藩江戸藩邸で蘭学を講じた。のちに開成所教授となり、明治政府では日本の統計学の基礎を築いた。
 
筒井政憲(つついまさのり) 一七七八〜一八五九
 旗本久世家で生まれ、旗本筒井家の養子となる。昌平坂学問所に学んで頭角を現わし、一八一七年長崎奉行、二一年には江戸町奉行に昇進、名奉行と称された。天保の改革期には冷遇されたが、老中阿部正弘から厚い信任をうけた。プチャーチンとの交渉に川路聖謨とともにあたり、日露和親条約の締結にこぎつけた。その後も高齢をおして海防・外交・軍制改革などに奔走した。
 
寺地舟里(てらちしゅうり) 一八〇九〜七五
 福山藩士。通称は強平、舟里は号。京都・長崎で医学を学び、蘭学に目覚めて江戸の坪井信道の塾に入り、緒方洪庵らと出会う。蘭方医として福山で最初に種痘を行った。阿部正弘に認められ、誠之館教授となり、関藤藤陰らと共に蝦夷地の探検を行った。明治初年に、福山藩医学校兼病院を設立してその院長となった。
 
徳川斉昭(とくがわなりあき) 一八〇〇〜六〇
 水戸藩主で諡は烈公。一八二九年に藩主となり、幕府や諸藩に先駆け天保の藩政改革を実施したが、幕府から謹慎を命じられ、藩主の座を退いた。四九年藩政関与が許され、ペリーの来航直後の五三年に阿部正弘の推挙で幕政に参画した。正弘没後に将軍継嗣問題や日米修好通商条約の締結をめぐって大老・井伊直弼と対立、安政の大獄で水戸に永蟄居となった。
 
戸田氏栄(とだうじよし) 一七九三〜一八五八
 駿府町奉行、日光奉行を経て、一八四七年から浦賀奉行となる。ペリー初来航時に同僚の井戸弘道と共にアメリカ大統領親書を受領した。戸田の上申がきっかけで大船建造が解禁され、浦賀奉行所は初の国産洋式軍艦・鳳凰丸を一八五四年に完成させた。戸田自身はその完成を待たず西丸留守居役に転出、さらに大坂町奉行となり大坂で生涯を終えた。
 
永井尚志(ながいなおむね) 一八一六〜九一
 「なおゆき」とも言う。通称岩之丞。三河国(愛知県)奥殿藩主の子として生まれ、旗本永井家の養子となる。阿部正弘の抜擢で海防掛目付となり、勘定奉行、初代外国奉行、初代軍艦奉行となる。一橋派の一員として安政の大獄に連坐したが、慶喜政権下で大目付、若年寄に進み、幕府最後の近代的改革に尽力した。
 
鍋島直正(なべしまなおまさ) 一八一四〜七一
 号は閑叟。一八三〇年に佐賀藩主を襲封、藩政改革に着手し、農商分離政策や殖産政策を遂行した。さらに佐賀藩が長崎警備を担当していたことから、洋式軍備の整備にとどまらず大砲製造体制まで整えた。教育にも力を入れ、藩校・弘道館からは近代を担う人材を多く輩出した。しかし根本的な体制の変革は望まず、倒幕路線にも積極的に関与しなかった。
 
浜野章吉(はまのしょうきち) 一八二五〜一九一六
 福山藩士。通称は章吉、号は箕山。一七歳のとき広島藩儒者・坂井虎山、津藩儒者・斎藤拙堂らに学ぶ。弘道館会読掛を経て一八五六年誠之館文章寮教授となり、明治以後、山野村(福山市)に誠之館分校を開く。以後、千葉県、内務省、第二高等学校、陸軍幼年学校などに勤務した。『懐旧紀事阿部伊勢守事蹟』の著者。
 
林復斎(はやしふくさい) 一八〇〇〜五九
 林述斎の第六子で諱は。一八五三年、本家を相続し大学頭を名乗り復斎と号した。五四年、応接掛の一人として日米和親条約を締結。江戸時代の対外関係の記録を分類整理した「通航一覧」は、復斎が中心になり編集した。
 
堀田正睦(ほったまさよし) 一八一〇〜六四
 初名は正篤。一八二五年佐倉(千葉県)藩主となる。奏者番、寺社奉行、大坂城代、西丸老中を経て、水野政権下で老中となったが、政権末期に辞した。藩医に蘭医方を学ばせ、洋式兵制を採用、世間からは「蘭癖」と呼ばれた。五五年再び老中に登用され老中首座となった。徳川斉昭が嫌う正睦の老中就任は、保守派の阿部正弘に対する巻き返しとも言われている。しかし、依然正弘が実権を握り、正睦が外交を専任することで内政改革に専念できたことも指摘されている。五七年にはハリスと日米修好通商条約案を議了し、条約調印の勅許を得るため五八年正月自ら上京したが失敗した。将軍継嗣問題で一橋派に接近したため、井伊直弼に老中を罷免された。
 
牧野忠雅(まきのただまさ) 一七九九〜一八五八
 一八三一年に長岡(新潟県)藩主を嗣ぎ、奏者番、寺社奉行兼帯、京都所司代を経て、一八四三年に老中となる。阿部正弘が死去するまでその政治を補佐した。
 
松平近直(まつだいらちかなお) 生没年未詳
 一八四四年に勘定奉行となり、このころより江川英龍の門に入り砲術や砲台築造を学び、海防掛も兼務した。阿部政権の勘定奉行として、阿部正弘から厚い信任を得た。正弘没後の経歴は未詳。
 
松平慶永(まつだいらよしなが) 一八二八〜九〇
 田安家に生まれ、一八三八年福井藩主を嗣ぐ。号は春嶽。阿部正弘とは縁戚で、ペリー来航後さかんに意見を上申した。当初は徳川斉昭の影響を受け攘夷論であったが、後に開国論に変わる。将軍継嗣問題では一橋派の中心となるが、安政の大獄で隠居謹慎の処分を受ける。六二年に政事総裁職(大老相当)として政界に復帰するが、尊王攘夷派の台頭に苦慮した。鳥羽・伏見の戦が起こると宗家徳川家存続のために周旋した。
 
水野忠徳(みずのただのり) 一八一五〜六八
 旗本諏訪家の次男で、水野家の養子となる。阿部正弘に抜擢されて一八五二年に浦賀奉行、翌年長崎奉行となり、日英和親条約などを結ぶ。のち公武合体策に反対して、左遷され隠居。
 
門田朴斎(もんでんぼくさい) 一七九七〜一八七三
 字は正堯佐、号は朴斎など。母の生家である西法成寺村(福山市)の門田家で養育された。菅茶山の廉塾に入り後に養子となったが、一八二七年茶山から離縁され、京都で頼山陽に学ぶ。二九年福山藩主阿部正寧に儒者として登用され、江戸藩邸で侍講となり正弘の教育にもあたった。ペリー来航に際して攘夷論を唱え、幕政批判も行なったため正弘に蟄居を命じられた。







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