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阿部正弘とペリー
―和親条約をめぐる日米の背景―
西村直城
一 異国船浦賀に現る
 嘉永六年六月三日(一八五三年七月八日)早朝、伊豆下田の漁船が異国船四隻を目撃した。漁船は急いで下田へ引き返し、下田在勤の浦賀奉行所同心に報告した。彼らが目撃したのは、マシュー・カルブレイス・ペリー提督(以下「ペリー」と記す。)が率いるアメリカ合衆国東インド艦隊の汽走軍艦二隻と帆走軍艦二隻、計四隻であった。通報を受けた同心は浦賀奉行所へ書状を送ったが、その報告が届く以前にペリー艦隊は浦賀沖に到達、午後五時頃富士の高嶺をながめながら錨を降ろした。
 この日、浦賀奉行・戸田氏栄は久里浜で大砲の操練を行っていたが、午後二時頃に異国船来航の報を受けた。戸田は以前からペリー来航情報を得ており、その際には浦賀奉行所が異国船対応の最前線になると認識していた。かねてからの手筈通り、戸田の本家である美濃大垣藩に増援が要請され、奉行所からは与力・中島三郎助がオランダ通詞を伴って、相手の国籍と目的を確かめるべく艦隊へ向けて船を漕ぎ出していった。
 奉行所の副奉行と称する中島に対して、ペリーは自ら会見せず副官のコンティ大尉に交渉に当たらせた。コンティは中島に対して、友好使節として大統領から日本皇帝に宛てた国書を渡す目的で来航したことを伝え、それにふさわしい人物の派遣を要求した。ペリーは自分の地位にふさわしい幕府高官を交渉の場に引き出すまでは、日本人の前には姿を現さない考えであった。長崎廻航の要求を拒否された中島は、明朝上司から指示があるだろうと言って引き返した。
 戸田からの異国船来航の第一報は、深夜に江戸在勤の浦賀奉行・井戸弘道の許へ届いた。井戸は直ちに江戸城辰口の福山藩上屋敷へ向かい、老中・阿部正弘へ報せた。この急報は正弘にとっても不意のものではなく、彼は艦隊の規模や艦名、そしてペリーの名を一年前から知っていたのである。
 同じ頃、ペリーは当直指揮官から流星を観測したとの報告を受けた。「古代人ならば、この驚くべき天界の現象を、明るい前途を約束する吉兆と解しただろう。特異かつ半野蛮の国を文明諸国の仲間に迎え入れようというわれわれの企てが、流血を見ることなく成功するよう神の加護を祈りたい。」(「ペリー提督日本遠征日記」)とペリーは記している。
 この日から、日本の歴史の転換点となる、阿部正弘とペリーの九か月に及ぶ駆け引きが始まったのである。
 
二 ペリーとアメリカ海軍
 ペリーは一七九四年四月一〇日、ロードアイランド州の港町ニューポートで、クリストファー・レイモンド・ペリーの三男として生まれた。ペリー家の歴史はアメリカ海軍の歴史でもある。クリストファーは独立戦争にも参加した海軍軍人で、その息子たちもすべて海軍軍人となった。特に長男のオリバー・ハザード・ペリーは、米英戦争(一八一二〜一五年)におけるエリー湖の湖戦(一八一三年九月一〇日)で、イギリス軍を破った英雄である。
 ペリー自身は、アメリカ海軍における「蒸気海軍の父」と呼ばれている。一八三七年当時、イギリス・フランスが二〇隻以上の蒸気軍艦を保有し、スウェーデンやエジプトでさえすでに蒸気軍艦を持つ中、アメリカ海軍は一隻も保有していなかった。ペリーは蒸気艦隊の整備を推進し、その有効性をメキシコ戦争(一八四六〜四八)で自ら艦隊司令長官として証明した。この戦争の結果、カルフォルニアがメキシコから割譲され、アメリカは太平洋側に広大な領土を得た。それは、ペリーを新たな運命へ導くことになった。
 アメリカが日本に開国を迫った理由としては、次の二点がよく知られている。(1)遭難したアメリカ船員の生命・財産の保護。(2)アメリカ西海岸と中国を結ぶ蒸気船航路における石炭補給港の確保。(1)は、一八四〇年、五〇年代がアメリカ捕鯨業の隆盛期で、北太平洋がその漁場の中心となったことが背景である。それに伴い日本沿岸での捕鯨船の遭難が多発し、鎖国体制下の日本における漂着アメリカ船員の待遇がアメリカ国内で大きな問題となっていた。(2)は、太平洋横断蒸気船航路開設の機運が盛り上がったことが背景にある。アヘン戦争(一八四〇〜四二年)後の巨大な中国市場の欧米への開放とカリフォルニアの領有及びその開発、そして蒸気船の発達は、従来の大西洋・インド洋廻り航路より短距離ですむ太平洋航路開設の可能性を生んだが、当時の蒸気機関の能力では石炭を補給する寄港地が不可欠であった。さらに、アメリカ海軍としては、メキシコ戦争後の軍縮の動きの中で、アジアにおける海軍の必要性をアピールする絶好の機会であった(加藤祐三「黒船前後の世界」)。
 一八五一年、アメリカは日本に開国を迫る決断をした。当初その任務を委ねられたオーリックが中国着任後間もなく解任されたため、その後任としてペリーが選ばれた。ペリーは地中海艦隊の勤務を希望し当初東インド艦隊勤務には乗り気でなかったが、太平洋航路の必要性は彼も認めていた。
 一八五二年一一月二四日、東インド艦隊司令長官として、ペリーは蒸気フリゲート艦ミシシッピに座乗しヴァージニア州ノーフォークを出港した。ミシシッピは一九三九年就役のアメリカ海軍初の外洋蒸気軍艦で、ペリーが建造に尽力しメキシコ戦争では旗艦とした愛着のある艦である。
 ペリーは海軍長官から東インド艦隊増強の約束をとりつけ、十二隻の大艦隊で日本に開国を迫ろうと考えていたが、本国での艦船の整備が遅れ、単艦での出発となった。香港で東インド艦隊と合流したが、上海では太平天国の動乱の拡大を理由に日本遠征よりもアメリカの権益保護優先を主張する在中国公使マーシャルと対立した。予想外のトラブルに見舞われながら、ペリーは琉球を経て日本へと向った。
 
三 阿部正弘の海防政策
 阿部正弘が老中に就任したのは天保十四年(一八四三)閏九月一一日、二五歳での老中就任は異例のことである。この二日後、天保の改革を主導した水野忠邦が老中罷免(翌年一時復帰)、改革を担った他の老中も次々に辞任し、二年後には正弘が最先任者として老中首座となっていた。
 この時期の幕政は、水野の強引な改革が厳しい批判を受けて失敗した影響で、消極的なものであった。正弘に対する民衆の評判は、水野と比較してという条件付であるが、悪くなかったようである。また、正弘に対して批判的であった井伊直弼が「当時評判之一人」(彦根藩井伊家文書)と述べており、江戸城中での評判も良かったことがわかる。
 正弘の政治姿勢は、徳川斉昭が「水越(水野忠邦)などと違ひ、憤激などは不致性にて、申さば瓢にてなまづをおさえ侯と申風の人と被察侯」(「遠近橋」)と述べているように、自分の真意を表に出さず、周囲に気を配りまとめて行くものであった。このような調整能力こそが、水野退陣後の政局に必要なものだったのであろうが、「優柔不断」「八方美人」との批判を後世に受ける原因ともなった。天保の改革の要因となった諸問題が解決した訳ではなかったが、ペリー来航までの幕政は比較的安定していた。
 アヘン戦争以後の幕府の最重要課題は海防政策であった。特に正弘が老中となってからは、対外関係は緊張の連続であった。天保十五年(一八四四)、オランダ国王の開国勧告を携えた使節が長崎に来航、翌年幕府は返書を送り勧告を拒否する。弘化三年(一八四六)にはアメリカ・ビッドル艦隊が浦賀に来航、一方でイギリス・フランス軍艦が薩摩藩支配下にあった琉球に度々来航していた。
 水野政権は異国船打払令を契機に海防体制の強化を図り、オランダからの蒸気船購入さえも検討していたが、水野の退陣により頓挫した。正弘も海防強化を図ったが、水野とは逆に異国船打払令復活で実現しようとした。正弘は少なくとも弘化三年(一八四六)、嘉永元年(一八四八)、嘉永二年の三回にわたり、異国船打払令の復活を海防掛に諮問している。海防掛は弘化二年に定置の職務として設けられ、正弘・牧野忠雅の老中以下、若年寄、大小目付、勘定奉行、勘定吟味役から選抜されていた。しかし、海防掛は三回共復活に反対した。その理由は、打払令復活に必要な海防強化が財政的に困難であるというものであった。
 正弘の打払令復活の諮問については、それが彼の真意ではなかったという見方が多く、薪水給与令に対する幅広い不満の緩和や海防意識の向上などが目的としてあげられている。確かに、正弘は頻繁に意見書を送り打払令復活を主張する徳川斉昭に対して、消極的な返書を送っている。このような斉昭の圧力に抗し切れなかったとの見方もある。
 一方、正弘は本気で打払令復活を考えていたという見方もある(濱屋雅軌「開国期日本外交の断面」)。確かに諮問を何度も行った点、ペリー来航後に斉昭の海防参画を実現した点を考えると、正弘が彼の意見に賛同していた可能性が高い。同じく斉昭の持論である大船建造解禁を弘化二年に正弘が評定所に諮問したことからも、それは明らかである。斉昭に対する慎重な回答は、前述の正弘の政治姿勢によるものであり、実際には海防論の先覚者である斉昭の影響を受けていたのであろう。
 その一方で、諮問に賛同が得られない以上実行しない点も、正弘らしい政治姿勢である。当時の幕政は、中堅官僚ともいえる幕臣たちが実質的に担っており、彼らの協力を得ずして政策決定が難しかったといわれる(守屋嘉美「阿部政権論」)。そして彼らは、財政的な理由から海防政策には総じて消極的であった。
 嘉永五年(一八五二)にオランダからもたらされたペリー来航予告情報についても、幕府が有効な対策を講じられなかった原因は、正弘の諮問に対して海防掛がこの情報を軽視したためである。危機感を深めた正弘は、幕府の枠を超えて島津斉彬ら有識大名に対し情報を開示し、有事に対応するための連携を深めていった(岩下哲典「幕末日本の海外情報」)。その対象は、正弘と対立的であったとされる譜代有力大名にまで及び、ペリー来航が近づく嘉永六年三月二六日には井伊直弼に秘密会談を申し入れている(「彦根藩井伊家文書」)。
 
四 アメリカ大統領国書の受領
 嘉永六年(一八五三)の日本初来航におけるペリーの目標は、従来の日本の対外窓口である長崎ではなく、江戸の近くで大統領の国書を幕府高官に受け取らせることにあった。一方、阿部正弘以下幕府の方針は、幕府の面目を失わなずかつ穏便に退去させようというものであった。しかし、六月六日(七月一一日)、ミシシッピに護衛された数隻の測量隊が江戸湾を北上し始めたことで、正弘は国書受領を決意した。ペリーとしては、大統領から自衛以外の戦闘禁止命令が出された中で、精一杯の示威行動であった。
 この間の交渉にあたったのは、「奉行」と自称した浦賀奉行所与力・香山栄左衛門で、浦賀奉行・戸田氏栄はあらかじめ彼を交渉役に予定していたとみられる(土居良三「開国への布石」)。香山が座乗して来た船がヨーロッパ型の船体であることに、アメリカ側は驚いた。この船は浦賀奉行所が正弘の承認を得て建造した蒼準丸で、大船建造が解禁できない中で行った最大限の努力であった。
 六月九日(七月一四日)、久里浜で国書の受け渡しが行われ、ペリーは初めて日本人の前にその姿を現した。日本側の代表は、戸田と井戸弘道の両浦賀奉行である。幕府高官の国書受領を望んでいたペリーは、昨日まで副官と交渉していたはずの「浦賀奉行」に国書を渡す結果となった。
 ペリーは国書への回答を待たず、翌年再来航することを告げて退去した。艦船がそろわず補給体制が十分でない中での長期滞在を避けたのである。一旦日本を去るといっても、アメリカヘ帰る必要はない。香港に行けば、アメリカから定期的に郵便物が届き、世界の情報や新聞が飛びかっている(園田英弘「西洋化の構造」)。アヘン戦争の日本史におけるかかわりは、日本人が対外的危機感を強めただけでなく、欧米が日本に進出する拠点を確保したことにもある。
 正弘は受領したアメリカ大統領国書を三奉行、大小目付、海防掛に開示し、その取り扱いについて諮問した。ここまでは従来通りの彼の手法だが、七月には諸大名・有司などにも広く意見を求めた。また、朝廷にもペリー来航を奏上し国書の訳文を提出した。
 これらの処置が幕府の権威低下の原因となったという見方が一般的である。しかし、正弘は単に朝廷や世論に頼ろうとしたのではなく、危機に際して広く情報を開示することで、幕府に対する信任を集め、威信の強化をはかることが狙いだったのではないか。事実、和親条約締結の際には、その内容はしばらく秘匿され、朝廷に対しても事後報告のみであった。
 正弘はこの機会に、徳川斉昭を海防参与に任命して幕政に参画させている。斉昭の起用は幕閣間で危惧されていたようで、正弘を長年補佐してきた老中・牧野忠雅でさえ反対している。政権分裂の危機さえも承知しながらの斉昭起用は、従来の正弘の姿勢からは考えられないが、正弘には斉昭という推進力を得て海防強化をはかる意図があったのであろう。なおも慎重論がある中、九月に大船建造が解禁され、浦賀奉行所や薩摩藩、水戸藩で洋式帆船の建造が開始された。オランダからの蒸気船購入さえも決断している。しかし、この時点で正弘は開国という選択肢は考えていなかった。幕府の方針は、斉昭が提唱した、時を稼いで海防強化をはかるというもので、十一月一日に諸大名に表明されている。
 一方ペリーは、香港に到着した早々、本国で大統領がフィルモアからピアスに代わったことを知らされた。政権交代に伴う対日政策変更を心配するペリーに、新海軍長官から「提督に対する必要な援助をすべて惜しむことなく与える」との書簡が送られた。
 一方、マーシャル公使との対立は依然続き、結局マーシャル解任で落着したが、間もなくペリーと同様の目的で長崎に来航したロシアのプチャーチンが、交渉を一時中断して香港に入港した。ロシア艦隊に先を越されることを恐れたペリーは、春を待たず日本へ向かうことを決意、九隻になった艦隊を率いて琉球を経て日本へ向った。
 
五 阿部正弘の決断
 ペリーが日本を去った直後、十二代将軍・徳川家慶が死去した。幕府はこれを理由に、翌年の来航を見合わせる通知をペリーに伝えるように、オランダ商館に依頼した。この通知は実際にペリーの許に届いており、浦賀奉行所はペリー再来航の際に通知が届いたかについてアメリカ側に確認している。幕府は外交的手段も使い、ペリーの再来航を遅らせようとしたのである。
 嘉永七年一月一六日(一八五四年二月一三日)の第二回来航時の日米の交渉は二つの局面に分けることができる。第一の局面は、交渉場所(幕府は「応接所」、アメリカは「条約館」と呼んだ)をどこにするかの駆け引きで、難行するやペリー艦隊は江戸に接近し示威行動を行った。幕府は前回の交渉の功績がありながら遠ざけていた香山栄左衛門を再び起用し、香山が提案した横浜が交渉場所に決定した。
 第二の局面は、二月一〇日(三月八日)から横浜で始まった条約交渉である。正弘は五日前に、漂流アメリカ船員の保護とアメリカ船への補給を容認することを既に決意していた。幕府側は林復斉以下五人の応接掛が交渉に臨んだが、その多くが昌平坂学問所の出身者である。林は人道(漂流民保護・物資補給)と利益(通商)両方を主張するのは矛盾すると、整然とした理論を展開した。結局ペリーは通商の要求を断念した。武力を背景にしているとはいえ、日本との交渉はアメリカ側としても難しいものであった。
 これ以後の交渉は、開港時期と開港地の決定にしぼられた。香山は再び遠ざけられ、長崎から赴任したオランダ通詞の森山栄助が、実質的な交渉を進める。森山は漂流アメリカ船員から英語を習った経験があった。二月二五日(三月二三日)、日本側が函館開港を提案、三日後には下田開港も決定、条約の骨子は固まった。アメリカ側は五港の開港を要求し、その中には下田より江戸に近い浦賀が含まれていた。この点でも、幕府側はペリーを譲歩させることができた。こうして三月三日(三月三一日)に日米和親条約が締結された。
 日米和親条約には漂流民の保護と開港地における物資補給が認められているが、通商は除外されている。ペリーにすれば最優先すべき課題は解決できたとはいえ、幕府側にすれば国内で最も反対が強かった通商を阻止したことになる。漂流民保護と物資補給のための二港開港という意味では天保の薪水給与令の継承で、むしろ開港地を限定した点は成果といえた(羽賀祥二「和親条約期の幕府外交」)。孝明天皇も後の通商条約の時とは異なり、和親条約に「御安心」した(「孝明天皇紀」)。
 しかし、幕府がアメリカの武力を背景とした要求に穏便に対処したことに対する不満は、儒学者や国学者などの間でくすぶり続けていた。その不満は、正弘の家臣の間から噴出した。正弘の待講であった門田朴斎は、攘夷を唱え正弘の改革にも批判的であったため、ペリー初来航後に罷免され帰国している。福山藩士・山岡八十郎は日米和親条約を屈辱的と捉え、正弘に意見を上申したが聞き入れられず、自害して果てた。
 日米和親条約の背景には、一九世紀の欧米の世界観がある。ペリーは初来航時に、「一文明国が他の文明国にたいして取る、然るべき儀礼を要求しよう、許可を得るような懇願は決してせず、権利として主張しよう」(「ペルリ提督日本遠征記」)と記している。近代国際法に則った国家間の平等を訴えるのは一見正統なものにみえる。
 しかし、当時の欧米にとって自分たちは「文明国」であり、中国・日本など「文明国」とは異なる価値観を持つ国々は、「半文明国」であった。「文明国」の価値観の受容を要求する一方、「半文明国」の価値観は受け入れがたかった。初来航時、艦隊の江戸湾内測量に対して幕府が日本の法律では認められないと抗議するのに対して、自国の法律では認められているというペリーの主張は、その典型であろう。
 ペリーが応接掛に提示した条約草案は、アメリカが清国と結んだ望厦条約で、これはアヘン戦争に敗れた清国がイギリスに強要された南京条約と同じ不平等条約であった。この条約を草案として提示したことに、当時のアメリカの日本に対する意識を見てとれる。それは近代に「文明国」への仲間入りをめざした日本が、周辺諸国に対して行った対応でもあった。
 
六 その後の阿部正弘とペリー
 ペリーは和親条約締結後、六月四日(六月二八日)日本を発ち、那覇で琉球と修好条約を締結、到着した香港で海軍省の承認を得て艦隊を離れた。日本との交渉は、ペリーに精神的・肉体的な疲労を与えていた。帰国後は議会報告書(いわゆる「ペリー提督日本遠征記」)の編集作業にかかわり、その完成後間もなく一八五八年三月四日に死去した。ペリーにとって日米和親条約は、人生の最後を飾る大仕事であった。
 阿部正弘にとっては、日米和親条約は新たな転換点であった。以後、正弘は「安政の改革」と呼ばれる積極的な幕政を推進する。諮問を重視する政治姿勢は変わらないが、従来の勘定所系海防掛に加え、新たな人材を海防目付として登用し、かれらの積極的な意見に基づき改革を進めたのである。和親条約締結時点では、正弘は開国について積極的な展望を持っていたとは言いがたく、条約締結で稼いだ時間で海防強化を図ることに力点が置かれていた。しかし、安政三年(一八五六)八月四日、正弘は富国強兵のための貿易開始について諮問を行い、外国との積極的通商を検討し始めた。正弘の政策の変更は、自らが登用した海防掛目付たちの意見と無関係ではない。正弘はペリー来航という危機を推進力として、日本の進むべき道を模索していた。
 改革を進める中で、正弘と徳川斉昭との距離が遠のいていったともいわれる。しかし、福山藩政に焦点をあてれば、正弘に対する斉昭の影響の強さは明らかである。水戸・弘道館の影響を受けた藩校改革で、福山弘道館は誠之館として再出発した。水戸藩と同じ校名であるのに遠慮して変更したと言われているが、水戸藩以外の「弘道館」五校で変更したのは、福山藩だけである。
 正弘自身にとって改革は、あくまで幕藩体制の維持・強化を図るものであったが、幕政を変革し近代国家への道筋をつくる可能性を秘めていたといえる。明治維新後、正弘が登用した幕府の遺臣たちは、正弘の改革が近代の礎となったと評価し、彼の早い死を惜しんだ。しかし、中国や朝鮮では体制内の近代化は大きな反動を招いており、正弘が存命したとしても、保守派との対立は免れ得なかったであろう。通商条約勅許問題や将軍継嗣問題はやはり対立激化の引き鉄になったであろうし、改革を進めるためには財政的課題も解決しなければならず、正弘の苦悩はペリー来航以前より深まったかもしれない。
 正弘は誠之館への蘭学導入を進めたが、自らは病床で蘭方医を最後まで拒んだという。阿部正弘が死去したのは安政四年六月一七日(一八五七年八月六日)、ペリー死去の前年である。







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