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64 蒸気機関車模型(じょうききかんしゃもけい)(復元(ふくげん)) 一両
長さ一八五・〇 神奈川県立歴史博物館
 ペリーの献上品の中には、実物の四分の一の蒸気機関車と炭水車・客車の模型も含まれていた。
 この模型については、松崎哲「ペリー将来の蒸気機関車模型」を参照されたい。
 
65 標準天秤(ひょうじゅんてんびん) 一台
一九世紀 高さ一一〇・〇 幅一一〇・〇
国立科学博物館
 一九世紀半ばに米国で製作された中型標準天秤で、その来歴が忘れられたまま、東京大学に保管されていた。明治期にペリー献上品として博覧会への出品記録もあり、ペリー献上品目録にある「機械秤 一箱」であるとみられている。
 
66 エンボッシング・モールス電信機(でんしんき)及び(および)外箱(そとばこ) 一台・一箱
一九世紀 幅一二五・〇
逓信総合博物館、重要文化財
 ペリーが献上した電信機二台のうち一台とその外箱。外箱の銘板には、「日本皇帝へ(FOR THE EMPEROR OF JAPAN)」と刻まれている。電信機は二月二四日に実演されたが、その後は使用されることなく、蕃書調所、大学南校/東京帝国大学を経て、明治四十三年(一九一〇)に逓信博物館(当時)に寄贈された。
 なお、本機は送受信が可能な状態に復元されている。
 
67 米軍(べいぐん)メキシコ政侵図説(せいしんずせつ) 十二枚の内六枚
一八五一年 石版画 二八・一×四二・〇
個人
THE WAR BETWEEN THE UNITED STATES AND MEXICO ILLUSTRATED
第3図 The Battle of BUENA VISTA
第4図 Bombardment of VERA CRUEZ
第5図 The Battle of CEROGORDO
第6図 The Battle of CONTERAS
第10図 The sioming of CHAPULTE PEC
第12図 General Scott, Entrance into the City of MEXICO
 ペリーは将軍のほか応接掛や老中にも贈り物をしている。この石版画は阿部正弘への贈り物の一つで、一八四六年〜四八年にアメリカとメキシコが戦った、メキシコ戦争の様子を描いている。ペリーはこの戦争で蒸気艦隊を率いて軍功をあげている。
 
68 ポーハタンでの正餐(せいさん) ハイネ画
(「ペリー提督日本遠征記(ていとくにほんえんせいき)」) 【写真パネル】
一八五六年 原資料:神奈川県立歴史博物館
DINNER GIVEN TO THE JAPANESE COMMISSIONERS ON BOARD U.S.S.F.POWHATAN
 二月二九日、ポーハタン上で応接掛を招いてひらかれたアメリカ主催の饗応の様子。日本側は大いに打ち解けたと伝えられている。条約交渉は二七日に日米双方が大筋で合意していた。
 
69 ペリー来航図(らいこうず) 一枚
江戸時代後期 紙本著色 一五七・〇×二四三・〇
吉備津神社
 この図は阿部正弘が吉備津(きびつ)神社(福山市)に奉納し、福山藩絵師・藤井松林画と伝えられる。左下には品川沖の台場が、右下にはアメリカ艦隊の短艇に米俵を積み込む力士の姿が見える。これは幕府のアメリカの献上品に対する返礼の贈答品で、二月二六日に引き渡されている。
 
70 亜・魯・英録(あろえいろく) 一冊
江戸時代後期 冊子写本 一六・〇×二一・七
当館
 日米和親条約(神奈川条約)は嘉永七年(一八五四)三月三日に締結され、翌年から下田(静岡県下田市)・箱館(北海道函館市)の二港をアメリカ船の補給のために開き、アメリカ漂流民の保護が定められた。幕府は通商拒否を貫いたが、ペリーはそれでも日本に鎖国政策を変更させる充分な成果を挙げたことを評価した。この資料は、同条約に続いて締結された日英和親条約と日露和親条約をあわせて写したものである。
 
71 下田之図(しもだのず) 一幅
江戸時代後期 軸装 紙本著色 一一四・〇×一五九・〇
神奈川県立歴史博物館(阿部家資料)
 日米和親条約によって開港場となった下田の様子を描いた図。ペリーは和親条約締結後、三月一八日に下田に入港、日米和親条約付録条約(下田条約)を締結した。安政三年(一八五六)には和親条約の取り決めに従い、タウンゼント・ハリスが在日領事として下田に赴任、通商条約締結に向けての交渉が始まった。
 
72 阿部正弘委任状草稿(あべまさひろいにんじょうそうこう) 【写真パネル】
安政元年(一八五四) 原資料:外務省外交資料館
重要文化財・日米和親条約批准交換証書附
 安政二年(一八五五)一月五日、下田において応接掛・井戸覚弘(いどさとひろ)(?〜一八五八)等とペリー艦隊参謀・アダムス中佐との間で、日米和親条約批准書の交換が行われた。この資料はそのための阿部正弘の委任状の草稿で、二通存在する。アダムス中佐は、和親条約締結直後に条約を携えて帰国、アメリカ上院の批准を得て再来航した。
 
73 幕末風俗図巻(ばくまつふうぞくずかん) 四巻の内二巻
江戸時代後期 巻子装 紙本著色
幕末の横浜 二五・四×五六五・〇
神奈川地方実写 二五・四×五一三・〇
神戸市立博物館
 嘉永七年(一八五四)のペリー再来航時の状況を描いた絵巻で、民衆の姿も一緒に描かれているのが特徴である。この絵巻の民衆はペリー来航にも平然とし、好奇心あふれた姿に描かれており、動揺する武士の姿と対照的である。なお、四巻のうち「日光実写」はペリー来航と関連がない内容である。
 「幕末の横浜」(三)には、アメリカの献上品を江戸城下辰口(たつのくち)の若年寄・森川俊民役宅前に荷揚げする様子が描かれている。辰口を入ると、福山藩上屋敷がある。
 
74 北亜墨利加合衆国(きたあめりかがっしゅうこく) 水師提督(すいしていとく)ペルリ之肖像(のしょうぞう)
【写真パネル】
江戸時代後期 原資料:神奈川県立歴史博物館(丹波コレクション)
 
75 北亜墨利加人物(きたあめりかじんぶつ) ペルリ像(ぞう) 【写真パネル】
江戸時代後期 原資料:神奈川県立歴史博物館(丹波コレクション)
 当時、さまざまなペリーの想像図が瓦版等で描かれた。そこには、民衆の強い好奇心が伺える。
 
76 黒船図絵馬(くろふねずえま) 【写真パネル】
安政二年(一八五五)
原資料:川角山八幡神社
(写真提供:安芸高田市吉田歴史民俗資料館)
 船尾が顔のようなユーモラスな黒船を描いた瓦版を原図とした絵馬で、安芸高田市の神社に奉納されている。和親条約締結の翌年に製作されており、地方の人々の関心の高さがうかがわれる。
 
77 万国山海通覧分図(ばんこくさんかいつうらんぶんず) 一枚
江戸時代後期 一紙 紙本墨摺 三〇・二×二三・三
当館(黄葉夕陽文庫)
 嘉永六年(一八五三)のアメリカ・ロシア艦隊来航を報じる瓦版。日本・アメリカ・ロシアの地図と、米露両国の人物、船を描き、国情と来航情報を記している。ロシアの情報には不正確な点が多い。また、長崎からアジア・ヨーロッパ各地までの里程や長崎の警備体制など、盛りだくさんな内容となっている。
 
78 海陸御固附(かいりくおかためつけ) 一枚
江戸時代後期 一紙 紙本墨摺 四一・二×六〇・〇
当館(黄葉夕陽文庫)
 御固(おかため)とは警備の意味で、この資料は嘉永七年(一八五四)ペリー艦隊再来航時の江戸湾周辺の諸藩の警備状況を記した瓦版である。陣屋の位置、諸藩の石高・家紋・馬験などが記されている。御固図の瓦版は当時数多く流布していた。
 
79 加奈川駅異国船之図(かながわえきいこくせんのず)
(「菅波信道一代記(すがなみのぶみちいちだいき)」前巻之三〇) 一冊
江戸時代後期 冊子 二七・三×一九・七
個人 広島県重要文化財
 描かれた異国船は明らかに想像に拠っているが、一方で本文の神奈川宿近辺に関する記述は具体的である。これは、ペリー再来航時の嘉永七年(一八五四)に人足として徴発された福山藩領民の体験情報に基づいているためである。
 
80 献金取計方(けんきんとりはからいかた)を申渡す(もうしわたす)順達写(じゅんたつうつし)
(「粟根村御用状附溜覚書(あわねそんごようじょうにつきとどめおぼえがき)」) 一冊
嘉永七年(一八五四) 横帳 三四・五×一二・六
当館(井伏家文書)
 嘉永七年三月二日、福山藩はペリー来航に伴い藩へ献金する際の書式を領内へ布達した。
 福山藩では二月二日にも銀札の両替が困難になった旨を布達しており、海防費の増大は藩財政を圧迫していた。一月二三日に出された人足の徴発に加え、ペリー来航の負担は民衆にもかかっていた。
 
81 海防不行き届き(かいぼうふゆきとどき)の件(けん)ニ付(つき) 一冊
嘉永七年(一八五四) 冊子 二四・六×一六・六
神奈川県立歴史博物館(阿部家資料)
 日米和親条約締結後の嘉永七年四月一〇日、阿部正弘は「御国法相崩レ御国辱ニ相成候」責任をとるため、老中辞意を表明した。この辞意は将軍以下の慰留により撤回したが、これ以後正弘は、「安政の改革」と称される幕政改革に着手する。
 
82 鍋島直正品川台場巡視之図(なべしまなおまさしながわだいばじゅんしのず) 陣内松齢(じんのうちしょうれい)画 【写真パネル】
近代 原資料:財団法人鍋島報效会 (佐賀県立博物館寄託)
 佐賀藩主・鍋島直正が品川台場(東京都港区)において同藩が鋳造した大砲の試射を見守る様子を描いた図。品川台場は、韮山代官・江川英龍(えがわひでたつ)が幕府の命を受けて嘉永六年(一八五三)八月に着工、翌安政元年一二月に完成した、砲台を設置する人工島。江川は台場による三重の防衛線を構想したが、実現したのは最終防衛線の品川沖一一台場の内六台場のみであった。
 現在は第三台場と第六台場が残っており、一帯は「御台場」としてショッピング・観光の一大スポットとなっている。
 
83 長崎海軍伝習所之図(ながさきかいぐんでんしょうしゅのず) 陣内松齢(じんのうちしょうれい)画 【写真パネル】
近代 原資料:財団法人鍋島報效会(佐賀県立博物館寄託)
 安政二年(一八五五)、オランダ国王は幕府に長崎に停泊中の蒸気軍艦スームビング(Soembing)を贈った。これを機会に、幕府は長崎に海軍伝習所を開設、幕臣の他、各藩からも伝習生を受け入れた。スームビングを観光丸と改名して練習艦とし、オランダから派遣された士官の教育を受けた。伝習所の背景には、出島のオランダ商館と観光丸がみえる。







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