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2003/09/25 産経新聞朝刊
【国連再考】(24)第3部(4)米のユネスコ脱退 腐敗や欧米敵視を理由に
 
 国連の光と影、虚と実を劇的に示したのは一九八〇年代のユネスコ(国連教育科学文化機関)と米国のロナルド・レーガン政権の激突だろう。
 ユネスコは国連大学の母体でもあり、国連の専門機関の一つである。国連専門機関はユネスコはじめ国際労働機関(ILO)、国連食糧農業機関(FAO)、世界保健機関(WHO)など計二十近くを数える。
 国連には国際的な平和と安全を保つという目的についで、経済的、社会的、文化的、人道的な国際問題の解決のために国際協力をするという目的がある。そのために存在するのが国連経済社会理事会である。同理事会が国連本体とユネスコのような専門機関との連携にあたるのだ。
 そのユネスコが一九八〇年代に米国と深刻な対立を引き起こした。そのエピソードはいまも米国側で国連との関係のあり方を語るときによく言及される。
 ユネスコの活動目的は組織の名称どおり、教育、文化、科学を通じて各国民の協力を促進し、世界の平和と安全に貢献することだとされる。八〇年代当時は世界の計百六十一カ国が加わっていた。
 このユネスコの最高責任者である事務局長に一九七四年に選ばれたのがセネガル人の教員出身のアマドゥ・マハタル・ムボウ氏だった。頭の回転が速く、押しの強いムボウ氏はアフリカ人としては初の国連関連機関のトップとなった。そして独特のリーダーシップを発揮して、ユネスコを牛耳っていく。
 ムボウ事務局長は六年の任期を終え、八〇年には再選される。二期目になると、まずアフリカの政治的立場をことさら強調し、欧米諸国に反抗的な態度を露骨にとるようになった。とくに米国への敵視の姿勢が目立った。そして八〇年代はじめには「新世界情報秩序」という構想をユネスコのプロジェクトとして実施することを宣言していた。
 「新世界情報秩序」はそれまでの世界の情報が欧米諸国のマスコミに独占されてきたのを排し、第三世界が主役となり、情報・報道の国際秩序を再編するという構想だった。そのためには政府が記者を個別に審査して、記者資格を与えるか否かを決める、という案も入っていた。ムボウ氏のこうした反欧米の動きは、そのころユネスコのような国連関連機関では最大数を占めた旧植民地の第三世界新興諸国に支持されていた。
 ムボウ氏はユネスコの運営でも独裁者と呼ばれた。個人の威光を徹底させ、事務局員の雇用にも縁故を遠慮なく利用して登用し、経理にまでずかずかと介入するようになった。やがてパリの高級アパートの豪壮なペントハウスに住む生活様式のために、「ユネスコの資金を不当に私用にあてている」という非難をあびるようにもなった。
 そのムボウ氏の言動に米国のレーガン政権が激しく反発した。そのころの米国は国連でも国際社会でもソ連の脅威への対応に忙殺されていた。東西冷戦のそんな最中に中立に近いはずの第三世界が自陣営に敵対的な態度をとることにはユネスコの全経費の四分の一を一国だけで負担してきた米国として怒りを爆発させたようだった。
 一九八四年には米国議会も乗り出して、米国の会計検査院がユネスコの経理など監査することになる。ユネスコ側はその受け入れを認めたのだが、パリ市内のユネスコ本部ビルではその監査が始まる一週間前に突然、書類保管室で火事が起きて、書類の一部が焼けてしまった。パリの警察は放火と断定する。
 だが米側では監査を実施し、ユネスコには使途不明金が少なくとも一千四百万ドルあること、ムボウ事務局長が中心となりメキシコで開いた会議は書類上の経費は約五万五千ドルとされたが、実際には六十万ドルもの支出があったこと、全世界で仕事をするはずの職員三千三百人のうち七割もがパリ在住であること、などを明らかにした。
 米国政府はムボウ氏が腐敗や反欧米偏向を正す改革を一年以内に実行しなければ、ユネスコから脱退するという方針を決める。米国のユネスコ駐在大使のジーン・ジェラード女史がその旨を通告すると、ムボウ氏は「マダム、ミシシッピ州あたりのニグロと話をしている気にならないように」と、冷笑したという。
 米国は結局、八四年末にユネスコを脱退した。イギリスとシンガポールもあとに続いた。国連機関の特殊なあり方を示す出来事だった。
(ワシントン 古森義久)
 
 
 
 
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