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1991/01/03 毎日新聞朝刊
[社説]新しい国連と紛争予防外交
◇湾岸危機が残した教訓
 毎年十月二十四日は、国連の創設記念日「国連デー」である。四十五周年目にあたった昨年のこの日、デクエヤル国連事務総長が世界にあてて発表したメッセージは、きわめて示唆に富んでいた。
 「国連が生まれて以来、おそらく最も歴史的な一年」とデクエヤル氏は、九〇年を振り返った。「長年にわたり平和の創造を不可能としてきた機能マヒとの決別」とも、新しい国連の姿を表現した。
 波乱の九〇年、国際政治の舞台にさまざまな主役が登場した。悪役の顔もあった。いずれも脱冷戦後、世界が新たな国際秩序を模索している過程で登場してきた。
 国際社会のそうした展開のなかで、国連が欠かせない主役のひとりだったことに、疑問をさしはさむ人はいない。デクエヤル氏の言葉には、そんな意味がこめられている。
 デクエヤル氏が強調する「機能マヒとの決別」は、イラクのクウェート侵攻・併合をめぐって、国連の平和維持機能の中枢である安全保障理事会が、ほぼ一致した行動をとったことに大きくよっている。
 イラクに対する共同経済制裁から始まって、軍事力行使容認にいたるまで、十を超える決議案が五常任理事国の拒否権なしに通った。「第二次大戦後、創設者の掲げた理想がやっと日の目を見た」と叫んだ、ある西側国連代表の言葉はかならずしも誇張ではない。
 だが理想は、よみがえったかもしれないが、実現はしていない。国連の真価が問われるのは、湾岸危機をはらんだまま新しい十年に入ったこれからである、と私たちは考える。
 新年早々の懸念は、その湾岸情勢が「一月十五日」をはさんでどう推移するかにある。が、いずれにせよ、今回の危機が国際社会に残した最大の教訓のひとつは、国連のもうひとつの主要な機能である「紛争の未然防止」だったのではないか。
 六〇年代のコンゴ動乱の調停活動の最中、飛行機事故で犠牲となったハマーショルド第二代国連事務総長の遺志である「予防外交」への転換の必要である。
 東西対決を軸にしたこれまでの冷戦構造のもとで、抑え込まれてきた民族、宗教、文化、さらには経済格差をめぐる紛争は、いっそう表面化してくるおそれが強い。
 「鉄のカーテンは消え去ったかもしれぬが、世界は依然として貧困のカーテンで分割されている」というデクエヤル事務総長の言葉も、それを危ぐしたものと受けとれる。
 予防外交へのシフトは、安保理中心の国連の機構と機能を多角化することを意味する。すでに一部の国連問題専門家が提唱しているように、相互依存の世界における安全保障の考え方を広くとらえ、食糧安保、環境安保など、複数の安保理事会を設置することも検討されていい時にきているのではないか。
◇平和維持活動への参加
 それは同時に、安保理常任理事国の五大国のみに今後の国際的な危機管理を任せることからくる弊害の減殺にもつながる。
 国連の生みの親のひとり、F・ルーズベルト米大統領は、憲章制定会議の直前、「戦争を終わらせること以上に大切なのは、戦争が始まるのを終わらせることだ」と書いた。半世紀近くを経た今、国連憲章に再度、光があてられていい。
 新しい国連の役割への期待は、日本とも密接なかかわりを持つ。
 一九五六年十二月、日本の国連加盟が認められた第十一回国連総会で、当時の重光外相は、「日本国民は平和を愛する世界の諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を維持しようと決意している」と日本国憲法の前文を引用して、国連への協力を誓約した。
 以来、「国連中心主義」は日本の外交方針の柱の一本となってきた。だが、経済を中心に日本の国際社会に占める地位の向上は、国連協力についても再検討を迫っている。
 中東貢献策に関連して、政府は「国連平和協力法案」の名のもとに、自衛隊の海外派遣も含めた構想をうち出したが、結局つぶれた。
 世論の反対もあったが、日本国憲法の枠を踏まえたうえで、国連が日本に求めているのは、そうした形での協力ではなかったことを示しているのではないか。重光外相の初心の演説ともそれは矛盾している。
 国連の舞台でも、統一ドイツとならび日本の役割はますます大きくなることが予想される。カネだけではない貢献を求める声も内外で高まることは避けられない。
 その際貫くべきは、国連平和維持活動(PKO)への参加など、非軍事、非武装に軸をおいた紛争予防外交への貢献、という鉄則である。
 
 
 
 
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