1992/10/30 朝日新聞朝刊
舞台裏で浮上し消えたオワダ事務総長構想(国連物語:26)
「ミスターオワダを国連事務総長にどうか」。総長選が間近に迫っていた91年9月、英国外務省が日本外務省に、ひそかに打診してきた。
「オワダ」は、小和田恒外務事務次官を指す。事務次官になる前の2年間、外務審議官を務め、世界を駆け巡った。主要先進国首脳会議(サミット)の根回し役、種々の国際会議の日本政府代表を務めただけではない。湾岸危機についての日本の対応方針を各国に理解してもらおうと、積極的に出かけていった。
2年間の海外出張日数は336日。延べ114カ国を訪ね、地球22周分を飛んだ。各国に名前と顔と精力的な仕事ぶりが知れ渡った。
91年秋の事務総長選には、このとき、すでに20人以上の名前が浮上していた。「アフリカ勢が(アフリカから事務総長をと)躍起だが、候補を一本化できない可能性がある。そのときはオワダで」。英国からの打診に外務省は「先進国から国連事務総長が出た例はない。実現するのか」と戸惑った。反発もあった。「英国は日本が安保理の常任理事国になるのに反対だろう。この打診は、その代わり、のつもりか」
が、損する話ではないと判断し、英外務省には「日本が自分から手を挙げるわけにはいかないけれど・・・」と回答した。
「日本は乗り気」とみた英国は工作を始めたようだった。91年10月下旬、カンボジア和平協議でパリを訪れた中山太郎外相にベーカー米国務長官が語りかけた。「オワダを事務総長に、という案がある。いい案だ」
日本が自ら動かなかったのは、10月に安保理非常任理事国の改選が予定されていて、ここでの当選が当面の最優先課題だったからだ。アフリカ勢は国連加盟国の3分の1近くを占める大票田である。「アフリカ勢を刺激しないよう、候補者調整の行方をじっと見守るだけだった」と当時の関係者は振り返る。
事務総長選は混戦となった。11月の予備選でガリ・エジプト副首相、チゼロ・ジンバブエ蔵相のアフリカ勢同士が激しく競り合った。「このままでは決まらない。オワダを含めて仕切り直しだ」。米政府当局者は瀬崎克己国連大使にそう耳打ちしていたが、土壇場でガリ氏に決まった。アフリカに影響力をもつフランスが動いたようだった。
小和田事務総長構想のてん末は、国際政治の舞台で主導権を握るには至ってない日本の姿を示している。
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