1991/03/02 朝日新聞朝刊
国連能力の限界 明確に主張すべき日本の考え 湾岸戦争(透視鏡)
昨年8月にイラクのクウェート侵略が始まってから国連安全保障理事会は、イラクに対する経済制裁や武力容認など12の決議を次々に成立させた。世界の注目が集まり、国連の紛争解決能力への期待が大きくふくらんだ。
だが、国連の使命へのあまりに大きな、美しい期待は、この組織の現実と能力の限界を超えているように見える。
それは、国連が1つの国家のように主権を持つ組織ではなく、加盟国の寄り合い所帯であること、安保理の常任理事国5カ国だけが特別な権限を持っていることに関連する。
1月17日の米国主導軍による開戦後は、安保理に実のある和平活動は見られなかった。それはある意味で道理と言える。武力行使を認めておいて、ひとたび武力が使われるとすぐ「やめよう」と言うのは矛盾するし、根本的には安保理(国連といってもよいが)の構造や性格、能力に由来することである。
武力行使容認に至る一連の決議はすべて米国の主導で成立した。米国以外の常任理事国の英、仏、ソ、中国が(それぞれ自国の利害に従って)米国の意向にあえて異を唱えなかったからである。
その米国が戦争を始めたのだ。よく知られているように、常任理事国のうち1国でも拒否権を使って反対すれば、決議は成立しない。米国が停戦するつもりにならなければ、安保理の動きが停戦に向かわないのは当然である。
それと、戦争は国連がしていたわけではない。国連決議に従って遂行されていたわけでさえない。国連の「容認」を得たとはいえ、米国をはじめ参戦国の個々の政府が自国の利害と判断に基づいて戦っていたのである。
「言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い」「善良な隣人として互いに平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するために力を合わせ」――と国連憲章は高らかにうたいあげる。
だが、現実の国連は世界政府ではないし、世界議会でもない。安保理は、メンバー国が自国の国益に基づいて主張し、交渉する場であり、各国の利益が赤裸々に交錯する場である。
一連の対イラク決議で終始、米国に批判票を投じてきたキューバのリカルド・アラルコン国連代表は「われわれは米国に警察官の役目を頼んだ覚えはない。安保理は米国に操られている偽善の場だ」と痛烈に批判した。
東西対立の解消で、常任理事国5カ国の意見が一致する機会が増えよう。今回の対イラク問題がそれを示している。すべてがこの5カ国のペースで進む恐れは十分にある。
もともと国連は、第2次大戦の戦勝国がつくった組織だ。憲章の前文は「われら連合国の人民は」という書き出しで始まっているし、憲章にはいまだにドイツや日本を指す「敵国条項」が残存している。
拒否権という絶大な特権を持つ常任理事国5カ国を戦勝国で占めているのはそのためだ。
安保理の機能は国連創設後の大部分の期間、米ソ対立でマヒしていたとされるが、対立解消は、もともと国連の抱える矛盾を新たに浮かび上がらせた。
こうした矛盾をはらんだ国連の機能と能力を考えると、日本で論議されている「国連中心主義」とはなんだろう。
日本の国益に照らして日本の主張を繰り広げる場が国連のはずだ。なのに、「国連がなにか決めたら、それに従いましょう」というだけではなんとも心もとない。
自国の方針と政策と主張がはっきりしないままの「国連中心主義」は、よく言っても「大勢順応主義」、悪くすると「なんにもしない主義」になりはしないだろうか。
(ニューヨーク 川上洋一)
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