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1985/04/24 朝日新聞朝刊
生き証人 「戦後平和へ情熱」(国連・40年の光と影:9)
○戦火続くなか開催
「この会議の目的はただ1つ、世界の国々が平和という人類共通の希望実現のため協力し合う国際機構の憲章を起草することであった」
米国務省が1945年6月26日に作成した「大統領への報告書」にこう記されている。
会議とは、45年4月25日から6月26日までサンフランシスコのオペラハウスで開催された国連憲章制定会議である。
6月26日に参加50国によって調印された憲章は、10月24日、米英仏ソ中(当時は台湾)の5大国と24国の批准によって正式に発効する。第2次大戦のぼっ発を阻止できぬまま組織としての機能を失っていた国際連盟がジュネーブで26年間の苦難の生涯に幕を閉じた半年後のことだ。
「サンフランシスコ会議は欧州と太平洋と中国でまだ戦火が燃えさかっている時に開催されたことに意義がある。当時の世界の指導者たちが戦後の平和建設にいかに情熱を持っていたかがうかがえるでしょう」
アルジャー・ヒス氏(80)は細い声でいった。ヒス氏は米代表団の一員として一連の会議に携わった数少ない生き証人。1950年、ソ連のスパイとの容疑で逮捕され、無実を主張しながらも、以後、公の場には顔を出していない。
14カ国共同宣言(1941年6月)、大西洋憲章(同年8月)、モスクワ宣言(43年10月)などを踏まえて、米英中ソの4国が44年8月から10月までワシントン郊外のダンバートン・オークスで会議を持った。
○中ソ、同席好まず
ルーズベルト米大統領がまとめたたたき台を基に、四国代表が12章からなる「国際平和機構の設立に関する提案」をまとめたのである。ヒス氏はこの会議では事務長を務めている。
――会議の雰囲気はどうでした。
「中ソが同席を好まず、夏は米英ソ、秋は米英華と、2つの会期に分けられた。戦争中とあって会場周辺の警備は厳重を極めたが、中のムードはよかった。ただ安保理の拒否権、植民地問題、経済社会理事会の3件は話がまとまらず、ヤルタ会談へ持ち越した」
――拒否権の構想を考え出したのは。
「ハル国務長官(米国)の補佐官だったパスウォルスキー氏じゃないかと思う。彼はロシア系の移民で、国際連盟の専門家。経済学者でもあった」
――米ソの関係は。
「米国は1933年までソ連の共産主義政権を認知していなかったわけだが、この会議のころにはしこりは消えて、ソ連代表団には資料や情報を提供して感謝された」
○スターリン勘違い
――45年2月、クリミア半島のヤルタに、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの3巨頭が顔をそろえた。
「3人は毎日、午後にルーズベルトの宿舎に集まってパーティーを続けていた。ここで懸案はことごとく片づいたが、ひとつもめたのはソ連邦の加盟国の問題だった。スターリンはウクライナ、白ロシアなど合わせて16共和国の加盟を要求してきた。ルーズベルトは“ナンセンス”と色をなした。その後の交渉で、ソ連プラスの3つの共和国、つまり4つで合意ができた。そこでハプニングが起きた」
「ルーズベルトが“午前中の会談で、すべて合意に達しましたよ”というと、スターリンが“ソ連邦からの3議席も”といった。彼のカン違いでソ連側の議席は4でなく3に決まった」(笑い)
――チャーチルはソ連側が3議席を持つなら、米国も3つにしたらと提案したそうですね。
「ルーズベルトが側近につき上げられ、スターリンに“うちも3つにしたい”といった。彼は“かまいませんよ”と答えたので、米代表団はアラスカとハワイを加える準備をした。だが、国内の孤立主義風潮を考慮して、こちらから取り下げた」
――サンフランシスコでは大国と小国の意見がぶつかった。
「拒否権をめぐって小国の突き上げがあったが、米国にとって一番深刻だったのはポーランドの代表権問題。米国が共産政権の承認を渋ったことにモロトフ・ソ連代表が激怒し、会議をボイコットしかねない剣幕だった。それ以外はヤルタ会談の筋で大体まとまった」
(ニューヨーク=久保田特派員)
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