1985/04/23 朝日新聞朝刊
小国の抵抗 欧米に屈せず主張(国連・40年の光と影:8)
○アジアは他者扱い
「国連憲章は、広島と長崎に原爆が投下される前にできたもので、核兵器がはんらんし、宇宙時代を迎えた現在の国際情勢にそぐわぬ部分が多い」
「第2次大戦の戦勝国5国が安保理の常任理事国として優遇されているが、これらの中にはあの当時の力を失った国がある。現時点の経済力から見れば、日本と西独が彼らに取って代わるべきだ」
カルロス・ロムロ・フィリピン外相はこう言い残して83年12月、国連総会場を去った。1945年のサンフランシスコ会議に出席し、国連憲章に署名した50カ国(ポーランドは後に署名)の首席代表のうち、この日まで国連を内側から見守り、批判し続けて来たのは彼だけである。84歳の高齢で足元はおぼつかなかったが、「小さな国の大きな声」といわれた張りのある声量は健在だった。
軍人からいきなり国連代表団長としてサンフランシスコに乗り込んだ彼は、冒頭から小国の悲哀を味わうことになった。欧州各国代表の多くは、国際連盟時代からの国際会議のベテランだった。米国の統治下にあったフィリピンの、見知らぬ男に関心を寄せるものはまれだった。アジアそのものが、よそもの扱いされていた時でもある。
○憲章に「独立」の語
しかし、負けず嫌いの彼はここで猛然とロビー外交を展開する。国連憲章草案では大国の利益が先行し、小国の立場は二義的に扱われていると感じ取ったからである。
「小国のことは米国よりもフィリピンの方がわかる」といって、ステチニアス米国務長官に情報交換を申し出る一方で、5大国の拒否権には断固反対のキャンペーンを展開した。
国連憲章76条bの信託統治地域住民の将来に触れた部分に「自治または独立に向かっての住民の漸進的発達を促進すること」とのくだりがあるが、草案では「独立」という文字が入っていなかった。
「“独立”を入れなければ、この条項の意義は半減する」との彼の主張に、英、仏、ベルギー、オランダの代表は「“自治”で言い足りているではないか」と、耳を貸そうとしない。
「アジアに支援を求めたが、インドと香港の代表は冷淡だった。“独立”という一語に疲労こんぱいし、あとは神の手にまかせた」――回顧録の中で、彼はこう述懐している。
ロムロ氏の努力が実って、「独立」が憲章に加えられ、この件で国連でのロムロ株は急騰し、49年には総会議長も務めた。
○ソ連もやり込める
この年、ギリシャ問題を扱うバルカン委員会の存廃をめぐって彼は、ソ連のビシンスキー代表と大激論を繰り広げた。廃止を叫ぶソ連の態度をこっぴどくやっつけたロムロ氏に対して、ソ連代表は「フィリピンのような、とるに足らない国の小男がソ連に向かってなにをぬかすか。“弾薬は1セント分しかないのに、野心だけは1ルーブル分だ”とのソ連のことわざはお前のことだ」と、こきおろす。
と、ロムロ代表は聖書に出てくる、羊飼いダビデに殺されたペリシテの巨人、ゴリアテを例に引き、「われわれダビデは真実という小石をゴリアテのみけんに投げつけるためにここにいる」とやり返した。口論では大国に一歩も引かなかった。
外相を辞任し、マニラでじん臓の加療を続けながら本の執筆を続けるロムロ氏は、高野マニラ特派員のインタビューで往時を次のように振り返る。
「サンフランシスコ会議の際、ステチニアス国務長官からホテルに朝食に招かれ、“きみは本心から米国が国連に入ってほしいと思うかね”と尋ねられた。“もちろんですよ。米国が抜けたら、国連は第2の国際連盟になってしまいますよ”と答えた。“米国は拒否権なしには国連には加わらない。私の言い分がウソだと思うなら・・・”といって、コナリー、バンデンバーグ両上院議員の名をあげた」
「会議場でこの2人に会うと、“若いお前さんが拒否権反対運動を続けているようだが、やめた方がいい”と、すごまれた」
「国連憲章を10年ごとに見直すことを明文化するよう主張したが、これも超大国に一蹴(いっしゅう)された」
40年の記念行事や記念総会のニュースを聞きながら、彼は創設当初からあった大国と小国のあつれきを、苦笑しながら思い出すに違いない。
(ニューヨーク=久保田特派員)
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