1985/04/19 朝日新聞朝刊
調停者の苦難 動けば大国と摩擦(国連・40年の光と影:6)
(1)ハマーショルド(9点)(2)デクエヤル(8点)(3)ワルトハイム(7点)(4)ウ・タント(6点)(5)リー(5点)――国連通による歴代事務総長に対する勤務評定を総合すると、大体こういう順序になる。カッコ内は10点満点に対する評価だ。
しかし、最高点を集めるハマーショルド氏に対して、ソ連をはじめ共産圏の採点は極端に低い。米国はウ・タント氏に辛く、非同盟はワルトハイム氏にきびしい。見方が社会体制や国の置かれる立場によってまちまちなのである。
○総長に大きな裁量
事務総長の存在価値は、安保理と総会の機能が十分発揮されていない現在、ますます大きくなっているといっていい。「師団なき師団長」ともいわれ、「国連の“真空地帯”を埋められるのは総長しかない」との期待もかかる。
ところが、事務総長の職務については、憲章十五章九七、九八、九九条で短く規定されているだけで、紛争解決にあたってとるべき行動に具体的に言及されていない。
つまり、事務総長自身の見識と裁量にゆだねられる部分が極めて大きい。このことが物議をかもす原因にもなる。
五人の事務総長は三つの型に分けられる。初代のリー、二代目ハマーショルド両氏は「活動家」であり、三代、四代のウ・タント、ワルトハイム両氏は「まとめ役」といおうか「調停者」といおうか。五代目で現職のデクエヤル氏はその中間。
大国との摩擦が大きかったのは「活動家」の二人である。
一九五〇年六月に始まった朝鮮戦争は、国際機構が初めて軍事的強制行動に出たことで知られるが、北朝鮮軍を「侵略者」と非難し、国連軍の派遣に動いたのがリー氏だった。これ以来、ソ連はリー氏を敵とみなし、総会と安保理で同氏をいっさい無視する作戦に出た。
○遂行不可能と辞任
朝鮮戦争でソ連を怒らせる一方でリー氏は、国連内部の「赤狩り」に加担したとして、米国の良識派を敵に回し、「(事務総長は)世界で最も遂行不可能な仕事」と言い残して五三年に辞任した。
二代目のハマーショルド氏が直面した最大の課題はコンゴ問題だった。六〇年六月、ベルギーから独立したばかりのコンゴで欧州人殺害事件が発生すると、ベルギー政府は自国民保護を名目に軍隊を送り込み、この緊急事態に対処するため、事務総長は安保理の勧告を受けて国連軍を送った。しかし、国内はソ連の支持するルムンバ首相派と反対派が流血を繰り返し、カタンガ州の分離運動が火に油を注いだ。
こうした混乱の中で窮地に陥った国連軍とカタンガ軍との停戦交渉を行うため北ローデシアに飛んだハマーショルド氏は事故死。「ここで、スエズやレバノンの経験から得られた国連の危機対応能力と自信が大きな試練に当面させられることになった」(明石康事務次長)
しかし、彼はマッカーシズムのために低下した国連事務局員の士気を再興、行政改革も断行し、いまでも事務局内部には信奉者が多い。
一方、ソ連はハマーショルド氏の仕事は米国寄りだったとして非難し、三代目からの総長選では「“強い”事務総長を敬遠するようになった」(ニューヨーク・タイムズ紙)。事務総長を三人とするトロイカ方式を提唱したりもした。
三代目のウ・タント氏はハマーショルド氏が残したコンゴ問題をなんとか収拾し、六二年のキューバ危機での米ソ衝突回避に尽力したが、ベトナム戦争でジョンソン大統領(当時)とぶつかり、対米関係を悪くした。
○紛争時の役割確立
ともあれ、事務総長は代を重ねるごとに国際紛争の調停者としての地位を確立し、仕事の量も急増している。四代目・ワルトハイム氏は最も忙しく世界をかけ回った。しかし、手を出し過ぎて失敗も繰り返した。イランの米大使館人質事件ではテヘランで暴徒に囲まれ、イラン・イラク、カンボジア、キプロス、ナミビア、西サハラなどでもこれといった成果は収められずじまいだった。
デクエヤル現総長には、前任者四人の成功と失敗を踏まえて、量とともに上質の仕事が求められている。
国連本部三十八階の事務総長室でデクエヤル氏にこの点をただすと、「難しいが、やりがいのある仕事」とひと言。本国ペルーの大統領に立候補しないかとの要請をきっぱり断って「不可能な仕事」にかけている。
(ニューヨーク=久保田特派員)
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