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2004/10/20 朝日新聞朝刊
皇室・国民つないだ歳月 皇后さま、きょう古希 文書回答<全文>
20日、美智子さまが古希(70歳)を迎えた。皇太子妃としての昭和の30年弱と、皇后としての平成の16年間――半世紀近く皇室を支え、国民と向き合い続けた歳月は重い。皇室の伝統を受け継ぐ一方で、人々の苦楽に心を寄せ続ける日々。海外訪問など様々な公務の裏側で、計り知れない葛藤(かっとう)と苦悩を自らの内に封じ込め乗り越えてきた長い道のりでもあったようだ。誕生日にあわせて公表した文書回答に、風雪に耐え年輪を重ねてたたずむような静かな落ち着きを感じる人も多いだろう。
(編集委員・岩井克己)
○喜びや悲しみ、印象に残ったこと 子育ての日々、大切な思い出 社会で働く多くの人から教え
古希を迎え、両親に育てられ、守られていた頃が、はるかな日々のこととして思い出されます。
家を離れる日の朝、父は「陛下と東宮様のみ心にそって生きるように」と言い、母は黙って抱きしめてくれました。両親からは多くのことを学びました。
振り返りますと、子ども時代は本当によく戸外で遊び、少女時代というより少年時代に近い日々を過ごしました。小学生生活のほとんどが戦時下で、恐らく私どものクラスが「国民学校」の生徒として入学し卒業した、唯一の学年だったと思います。そのようなことから、還暦の時の回答にも記しましたように、私の中に、戦時と戦後、特に疎開を間にはさむ数年間が、とりわけ深い印象を残しており、その後、年を重ねるごとに、その時々の自分の年齢で、戦時下を過ごした人々はどんなであったろうと考えることが、よくあります。
結婚により私の生活は大きく変わりましたが、陛下がいつも寛い(ひろい)お心で私を受け容れて(いれて)くださり、また、三人の子どもたちからも多くの喜びを与えられました。私は男の子も大好きでしたが、三人目に、小さな清子が来てくれた時のうれしさも、忘れることができません。この子どもたちを、昭和天皇、香淳皇后のお見守りくださる中で育てた日々のことは、今も私の大切な思い出です。
陛下のお側(そば)でさせていただいた様々な公務は、私にとり、決して容易なものばかりではありませんでしたが、今振り返り、その一つ一つが私にとり必要な経験であったことが分かります。陛下がお優しい中にも、時に厳しく導いてくださり、職員たちも様々な部署にあって、地味に、静かに、私を支え続けてくれました。まだ若かった日々に、社会の各分野で高い志を持って働く多くの年長の人たちの姿を目のあたりにし、その人々から直接間接に教えを受けることができたことも、幸運でした。とりわけ、自らが深い悲しみや苦しみを経験し、むしろそのゆえに、弱く、悲しむ人々の傍らに終生よりそった何人かの人々を知る機会を持ったことは、私がその後の人生を生きる上の、指針の一つとなったと思います。
平成二年に礼宮が、五年に皇太子が結婚し、二人の妃が私どもの家族に加わってくれました。これから先、長く皇室で生きていく二人が、私のしてきた事ばかりでなく、なし得なかったたくさんの事も、しっかりと見、補っていってほしいと願っています。
至らぬことが多ございましたが、これからもこれまでと変わらず、陛下のお側で人々の幸せを祈るとともに、幼い者も含め、身近な人々の無事を祈りつつ、国や社会の要請にこたえていきたいと思います。
○皇太子妃、皇后としての心の内 皇室・庶民の歴史に傷残せぬ 伝統活かし時の要請応えたい
もう四十五年以前のことになりますが、私は今でも、昭和三十四年のご成婚の日のお馬車の列で、沿道の人々から受けた温かい祝福を、感謝とともに思い返すことがよくあります。東宮妃として、あの日、民間から私を受け入れた皇室と、その長い歴史に、傷をつけてはならないという重い責任感とともに、あの同じ日に、私の新しい旅立ちを祝福して見送ってくださった大勢の方々の期待を無にし、私もそこに生を得た庶民の歴史に傷を残してはならないという思いもまた、その後の歳月、私の中に、常にあったと思います。
陛下が東宮でいらした時は、昭和天皇をお助けし、昭和の時代を支えていくという、静かな、しかし強い陛下のご気迫を、常に身近に感じておりました。また、お若い頃より伝統を今に活かし(いかし)つつ、時代の要請に応えていこうとなさる陛下のお気持ちは、いつか私のものともなって、このお気持ちをともにしつつ、皇室での日々を過ごしてきたように思います。
皇太子始め次世代の若い人たちへの願いは、という質問ですが、それぞれの生き方を見守りつつ、必要と思われる時に、その都度伝えていくつもりです。今はただ、皆ができるだけ人生を静かな目で見、穏やかに、すこやかに、歩いていってほしいという願いを伝えたいと思います。
○雅子さまの静養・皇太子さま発言・宮内庁の対応 東宮妃自身が一番辛い思い、家族みなで助けになりたい
東宮妃の長期の静養については、妃自身が一番に辛く(つらく)感じていることと思い、これからも大切に見守り続けていかなければと考えています。家族の中に苦しんでいる人があることは、家族全員の悲しみであり、私だけではなく、家族の皆が、東宮妃の回復を願い、助けになりたいと望んでいます。
宮内庁の人々にも心労をかけました。庁内の人々、とりわけ東宮職の人々が、これからもどうか東宮妃の回復にむけ、力となってくれることを望んでいます。宮内庁にも様々な課題があり、常に努力が求められますが、昨今のように、ただひたすらに誹られる(そしられる)べき所では決してないと思っています。
◆新旧の皇室観に苦悩、変わらぬ后の使命感 編集委員・岩井克己
軽井沢のテニスコートでの出会い、晴れやかな馬車パレード・・・。戦後のテレビも週刊誌も、この「シンデレラ物語」のお陰で普及したと言われ、「大衆天皇制」の言葉も生まれた。
歳月を振り返る皇后さまの文書回答は、穏やかな感謝の言葉で覆われている。しかし、「平民プリンセス」「新しい皇室」とはやされるほどに、新旧の皇室観のはざまで苦悩し、病に倒れ、やつれ果てたようにみえた時期もあった。流産の不運に見舞われ、皇室内の旧世代によるいじめも取りざたされた63年、子宮筋腫の手術を受けた86年、皇室批判の嵐のさ中に倒れ、言葉を失った93年だ。
とりわけ93年の雑誌などによる「皇后バッシング」は、前年の天皇の中国訪問をめぐる政治抗争などを背景に、古い「皇室尊崇派」の一部から天皇の身代わりに標的とされるという構図だった。天皇、皇室の足手まといになっているのではないか、だれにもわかってもらえないのではないかとの絶望感は深かったようだ。
半年近い失語から立ち直った時、美智子さまがもらしたと聞いたひと言は今も忘れられない。
「もう大丈夫。私はピュリファイ(purify)されました」
この英語には「純化される」「清められる」との意味のほかに、(金属が)精錬されるという意味もある。不純物を除かれ、練り上げられ、より強くなるという意味だ。
98年、国際児童図書評議会のためのビデオ講演で、読書体験という形で初めて自らの心の軌跡を語った時、冒頭で言及されたのは、だれもが多くの悲しみを抱えて生きているという寓話(ぐうわ)「でんでんむしのかなしみ」と、夫ヤマトタケルのため海をしずめようと身を投げた弟橘比売(おとたちばなひめ)の犠牲の物語だった。
心に深い傷を負った人ほど、傷ついた人々を癒やす力を持つといわれる。流産の後、内省的対話の相手となった精神科医神谷美恵子さんを通じて深めたハンセン病の人たちへの理解、戦争の犠牲者や遺族、災害被災者への慰め・・・。
98年に訪問した英国では、日本軍による虐待に抗議しこぶしを突き上げている元捕虜の人たちに、深く黙礼する皇后の姿が静かな感動の輪を広げた。一瞬のすれ違いにひとしい一期一会で心を通わせる力には、理屈を超えたものがある。
「平民プリンセス」から皇后への道のりの中で、楽章から楽章へと一貫して響き続けている通奏低音は、「天皇」への献身と、后(きさき)(妃)としての使命感だ。子宮筋腫の手術の際には、訪米とそれに続く韓国訪問が予定されていた。命にもかかわる事態だったが、「自分の病気が国のための殿下の務めの妨げになっては」と、ぎりぎりまで訪問延期に難色を示した。
婚約、新婚の時代に仕えた黒木従達・東宮侍従(故人)によると、求婚を受け入れた時の心境について美智子さまは「殿下はただの一度もご自身のお立場への苦情をお述べになったことはおありになりませんでした。またどんな時にも皇太子と遊ばしての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐものとはっきり仰せでした」と語ったという。97年、娘の紀宮さまも誕生日の回答で「皇后様を陛下との御結婚に踏み切らせた最終的なものが、陛下の皇太子としての立場に対する深い御自覚であった」と述べている。
皇后さまは還暦を迎えた94年、「陛下とお二人で新しい風を吹き込まれたという意見も聞かれますが?」と問われ、次のように答えている。
「皇室も時代と共に存在し、各時代、伝統を継承しつつも変化しつつ、今日に至っていると思います。この変化の尺度を量れるのは、皇位の継承に連なる方であり、配偶者や家族であってはならないと考えています」
●婚約当時からのお言葉集、本社刊行
皇后さまの古希を記念し、婚約から現在までの美智子さまの折々の言葉、歌、講演を選んで編んだ『皇后美智子さま お言葉を集めて』(朝日新聞社編)が近く刊行されます。言葉を大切にしてきた美智子さまの足跡を、味わい深い語録でたどることができます。
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