2004/06/27 朝日新聞朝刊
君が代と皇室 千代に八千代に続くには
若宮啓文(風考計)
3月28日の当コラムで「君が代に2番を加えていたなら」と書いたら、何人もの方から指摘があった。君が代にはもともと2番があったのだ、と。
調べると、1881(明治14)年発行の音楽教科書『小学唱歌集初編』に載った「君が代」には、なるほど2番がある。「きみがよは 千尋の底の さざれいしの 鵜(う)のゐる磯と あらはるるまで・・・」。歌詞はまだ続くのだが、何と1番にも「こけのむすまで」の続きがあるではないか。曲も違う。似て非なる君が代だった。
ミステリーじみているが、これは実際には余り歌われなかった。同じ頃にできたもう一つの君が代が天皇をたたえる歌として広まり、事実上の国歌になっていく。そこに2番はなかった。
天皇が「現人神(あらひとがみ)」とされた時代は敗戦で終わったが、君が代はそのまま残った。そこに違和感があったのだろう、例えば読売新聞は社説で「われわれは、この新生日本にふさわしい新しい国歌を要望している」「歌わされるものでなく、歌いたくなるものが作られなければならない」と書いた(1948年1月25日)。
しかし、新国歌はできなかった。ならばこのとき、せめて君が代に新たな発想の2番を加え、戦後的なメッセージを盛り込めなかったか。私が言いたかったのは、そういうことだ。
多くの方から共感のお便りをいただいたが、うかつにも、すでに同様の提唱者がいたのを知らなかった。
例えば朝日新聞の先輩でもあるジャーナリスト伊波新之助さんは、国旗・国歌法ができた99年、月刊『戦略経営者』9月号で「君が代に2番、3番をつくろう」と唱えていた。2番は「国民(くにたみ)われら」で始め、国民の繁栄や幸福を願う。3番は「集えるわれら」などとして、日本に住む人々の共生をたたえる。そんな案だ。
そのころ「人類の理想を掲げた2番を」と、朝日新聞に投書した読者もいた。載らなかったのは残念だが、もしこんな発想が実っていれば、いまどき国旗国歌をめぐって強制だの処分だのという騒ぎはなかっただろう。
さて、政府によれば、君が代の歌詞はいま、天皇を象徴とする我が国の末永い繁栄や平和を祈る意味だ、とされている。ともあれ君が代を国歌に定めたことは、将来にわたって天皇制を続けるという宣言でもあった。
確かに多くの国民はいまの天皇制を支持し、その継続を疑ってはいない。ただし、それは昭和天皇の人間宣言以来、国民を大切にしよう、外国とは仲良くしようと、皇室も心がけてきたからに違いない。現在の天皇陛下が即位に際し、「皆さんとともに日本国憲法を守り・・・」と述べられたことも記憶に残る。
同じ意味で、皇室が美智子皇后に続いて雅子妃を民間から迎えたことは、大きなできごとだった。君が代に2番はなくとも、いわば皇室が2番の精神をもってきたと言えまいか。
だが、果たしてこの延長で天皇制は安泰だといえるのか。いささか疑問に思えてきたのは、言うまでもなく、かねての「お世継ぎ」問題に加え、雅子妃の体調不良と、皇太子殿下の「人格否定」発言がきっかけだ。
国民に祝福されてプリンセスとなった元キャリア外交官が、皇室のしきたりや世継ぎ問題に悩み、生きがいだった外国訪問の機会も奪われて、健康すぐれぬ日々である。それを必死にかばう皇太子殿下・・・そんな悲劇と愛情のストーリーが、世の関心を集めないはずはない。週刊誌は毎号のように競って「内幕」を報じている。
正確な事実はよく分からないが、確かなのは現代社会における皇室の存在がいかに難しいかということだろう。君が代が生まれた時代とは、社会が全く違ってしまっている。
例えば、戦前は皇位を継承できる皇族の範囲がずっと広かったし、大正天皇のように皇后以外の女性を母とする天皇もいた。男系の男子継承による「万世一系」を可能にした仕組みである。いまでは考えられないことだ。
一方、これほど自由な社会も、高度情報化時代の到来も、君が代ができたころには想像もできなかったろう。
皇族はいつもカメラの放列にさらされ、メディアの関心事だ。スターの有名税に似てはいるが、喜怒哀楽をぶつける自由はない。それどころか、言論、宗教から住居や仕事まで、国民が享受する自由をほとんどもたないのだ。とくに民間から入った身には、このギャップがどれだけこたえることか。
伝統の重みをもつ皇室は、世俗と隔たりをもたなければならない。そんな声も分かるが、この時代、果たしてそれだけで皇族方が楽しく、幸せを感じて生きられるだろうか。
少なくとも欧州の国々の王室のように、もっとオープンで人間らしい生き方が許されなければ、皇室はどこかで行き詰まる。女帝を認めてお世継ぎ問題をしのいでも、婿さまのなり手は簡単に出てこまい。
君が代は千代に八千代に・・・と続くには、一体どうすればよいのか。国歌の歌わせ方などよりも、その方がよほど大事な国の課題だろう。
(論説主幹)
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