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1990/11/12 朝日新聞朝刊
即位の礼を迎えて(社説)
天皇、皇后両陛下が今年2月、久しぶりに音楽会に出かけられた時のことだ。東京・渋谷の会場を出たお2人の周りに、人垣ができた。数人が遠慮がちに手を伸ばすと、両陛下はきわめて自然に握手に応じられた。
天皇になられてからの人垣のなかでの握手は、このときが初めてだったのではあるまいか。海外ご旅行中は別として、昭和天皇にはなかったことである。この夏、軽井沢のテニスコートの近くで握手に応じられた光景も、テレビを通して茶の間に流れた。皇太子時代と変わらない親しみやすさ――多くの人がそれを感じている。
○国際社会の祝福と責任
きょう、即位の式典が行われる。
心からお祝い申しあげたい。両陛下のご健康とご一家の幸福を改めて願わずにはいられない。この式典に160の国・国際機関の代表が参列する。たいへんな数である。
国際社会で、かりに日本が独善的で頼りにならない国だったらどうだろう。また、天皇制が軍国主義時代にそうであったように、他国から不信と警戒の目でみられるものであったらどうだろう。
いくらわが国が経済協力大国であってもおそらく、こんなさかんな祝福は期待できなかっただろう。国際社会での責任の大きさを自覚しつつ、世界中から寄せられた祝福を率直に喜びたい。
陛下は、去年1月の即位後朝見の儀で、新しい天皇が「国民とともにある」ことを明言された。上から伝えるような調子を避け「皆さんとともに」と述べられたところに、陛下の決意がうかがえた。
陛下が暦の順に、沖縄戦終結の日、広島、長崎の原爆の日、終戦記念日の4つを忘れてはならない日と位置づけてこられたことは、よく知られている。8・15の戦没者追悼式で陛下は、去年も今年も「さきの大戦において、尊い命を失った数多くの人々」に言及された。戦陣、戦禍に倒れた日本国民だけでなく、日本軍が加害者となった海外の人びとへの追悼の気持ちを、この言葉に託されたものと推察される。
身障者への激励も、天皇が皇后とともに格別に重視されてきたことだ。重度の障害者を見舞われる時、陛下は目を同じ高さに合わせるためにひざを床に着けることがある。
天皇は、意見や感想を自由にお述べになる立場にはない。そうした制約のなかで陛下が強い関心をお示しになるのは、いわば人類の普遍的な価値に対してである。陛下がめざす象徴制のもとでの天皇像は、まさに時代にふさわしいというべきだろう。
○象徴天皇制考える機会
象徴天皇制は制度として一応定着しているものの、国民の生活実感のなかで明確な輪郭を持っているかといえば、まだそう断言できないように思われる。天皇の活動の範囲をめぐって疑問が提出されたり、ごく一部の間からとはいえ「天皇の存在が軽くなる」という心配の声が出たりするのは、1つにはこうした背景があるためだろう。
主権在民のもとでの象徴天皇制は、わが国の長い歴史と比較するとき、生まれてまだ日が浅いというべきだろう。すでに完成した制度とみるよりも、成熟への過程にあるとみる方が適切ではあるまいか。成熟への努力が求められるのである。
一層の成熟に向けて大きな役割を担わねばならないのは、内閣や宮内庁であろう。新聞やテレビなどマスコミも、これに加えるべきかもしれない。
即位の礼や大嘗祭(だいじょうさい)のあり方をめぐって今回、いろいろの論議が起きた。皇室の伝統的な儀式と、主権在民や信教の自由との間に、どう折り合いをつけるべきか。なにしろ、新しい憲法のもとでの最初の経験である。国民一人ひとりが象徴天皇制を身近に考える機会となった。
1つ、残念なことがある。内閣、宮内庁の担当者たちの作業の多くが、世間の論議と離れたところで、内々に進められたことだ。国民の共感をよぶ方法とは、言えなかった。
自由な論議を恐れず、むしろ情報を提供し論議の深まりを歓迎する。こうした姿勢を政府に求めたい。豊かな論議こそ、成熟の土台である。こんごの課題といえるだろう。
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