1989/12/13 朝日新聞朝刊
即位式典は国民合意を基盤に(社説)
「朕(ちん)ト爾等(なんじら)国民トノ間ノ紐帯(ちゅうたい)ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依(よ)リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非(あら)ズ」――亡くなられた昭和天皇が「人間宣言」を発表されたのは終戦翌年の年頭だ。
以来40余年。憲法に基づく「国民統合の象徴」としての天皇の初めての即位を、私たちはどうお祝いしたらいいのだろうか。
来年秋に予定される式典をめぐり、その性格づけなどを検討してきた「即位の礼準備委員会」(委員長・森山官房長官)の論議が大詰めを迎えた。
即位式典として実施が検討されているのは、天皇の即位を内外に宣言する「即位の礼」と、即位にともなう祭祀(さいし)である大嘗祭(だいじょうさい)だ。政府はこの2つの行事を来年秋、皇居で行う方向で検討を重ね、「憲法の趣旨」と「皇室の伝統」の両面を考えつつ具体化する、と言明してきた。
私たちがまず望むのは、象徴天皇制にふさわしい新しい式典だ。人間宣言に示された皇室と国民の関係そのままに「信頼と敬愛で結ぶ」式典を。何よりも、そう求めたい。
そのためには、天皇が「統治権の総攬(らん)者」であった旧憲法下の即位式典をそのまま踏襲してはなるまい。「ご大典」と呼ばれ、神がかり的な皇国論で脚色された大正、昭和両天皇の時のような式典は、今の憲法にそぐわないばかりか、政治権力と距離を置いてきた「皇室の伝統」にも反している。
最も大きな問題は、国の宗教的活動を禁じた憲法の政教分離原則との調和だろう。比較的宗教色が薄いとされる「即位の礼」も、大正、昭和の式典では一部に宗教儀式が盛り込まれた。今回これを国家行事として行うならば、宗教色の強い部分を省くなど、具体的な式の進行には、相当工夫を要する。
一方大嘗祭は、大嘗宮と呼ばれるお宮を建て、特別に指定された田で収穫された新米を新天皇が皇祖神と共食する儀式を中心とした皇室伝統のお祭りだ。全体が神事というべきものだから、国家行事として実施できないのはいうまでもない。あくまでも皇室内部の儀式として行うべきである。
このお祭りについては、「皇位継承に不可欠の重い儀式」といった評価がある。しかし、憲法によって即位する今の天皇制の中にこうした評価を持ち込むのは、妥当とはいえまい。戦後、大嘗祭を皇室典範から削除したことについて、当時の金森国務相は「皇室内部のご儀式として続行せられていくだろう」と説明している。
かつての神権天皇制は、軍国主義の強力な後ろだてとして利用された。即位儀式のあり方が、国民だけでなくアジアの人々にも注目されるのは、こうした暗い歴史が繰り返されはしないか、という警戒心からだろう。
留意すべきは、できるだけ多くの国民の合意を基盤にしたものでなければならない、という点だ。政府の準備委は、有識者とされる一部の人たちからのヒアリングをもとに、即位の礼は国の行事として総理府予算で、大嘗祭は皇室行事として宮内庁予算の宮廷費でまかなう方向を固めたとされる。
しかし、伝えられるような経過、論議で、多くの国民の意向をつかんだ、合意の道筋が得られた、といえるのだろうか。
最終的な合意の場は、やはり国会であろう。どう性格づけ、どんな内容の儀式にするか。どのくらいの費用をかけるのか。「聖域」視することなく、十分な論議を尽くしてこそ、時代にふさわしい式典の姿が見えてくるはずだ。
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