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私はこう考える【天皇制について】

 事業名 組織運営と事業開発に関する調査研究
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


1989/05/08 朝日新聞夕刊
王朝交替論:上(権威の構造 天皇論のいま・第2部:1)
 
 万世一系史観を否定 政権移動の仕方は多説
 昭和から平成へ。天皇の代替わりで、時代の目盛りは1つ動いた。日本人にとって、歴史的に天皇とはどういう存在なのか。2月に連載した「権威の構造―天皇論のいま」の続編で、この問題をさらに追ってみたい。
○学界に大きな影響
 古事記と日本書紀。日本古代史研究に欠かせぬ文献史料であるこの記紀を、どう読み、その中の伝承・仮構からどう史実を探り出すかは、今日においても、古代史家に課せられた大きな研究課題といえよう。
 戦前、記紀の文献批判に先駆的業績をあげた津田左右吉は、記紀が皇室の日本統治を正当化する政治的目的でつくられた著作、との見方を示し、後に有罪判決を受けた。天皇絶対体制下における学術研究受難の代表例とされるものである。
 戦後、天皇制のタブーが解かれ学問の自由が回復する中、水野祐・前早大教授が記紀批判に基づいた『日本古代王朝史論序説』を発表するのは、昭和27年のこと。これは、古事記記載の天皇の崩年干支、天皇の和風諡号(しごう=死後のおくり名)などの分析から、古代の日本では、互いに血統の異なる3つの王朝が交替していたとするもので、皇統の万世一系史観に根本的な改変を迫る大胆な仮説だった。
 水野氏は古事記に崩年干支がのっているのは、神武―推古までの33代の天皇中、15人だけなのに着目し、残りはほとんど後世造作された架空の天皇であるとして、15人を軸とする新たな天皇系譜をつくり直し、それをもとに考察を進めた。水野氏のいう3つの王朝とは、記紀の天皇代数に従えば第10代の崇神、第16代の仁徳、第26代の継体を始祖とする3王朝で、それぞれ崇神王朝―仁徳王朝―継体王朝と名付けた。そして各王朝間で、武力衝突などによる王権の交替があり、皇統は継体以降、今日に続いていると、水野氏は考えるのである。
 この水野学説は発表後しばらくは賛同者も少なかったが、故・井上光貞東大名誉教授の『日本国家の起源』(岩波新書・昭和35年)以後、直木孝次郎大阪市大名誉教授、岡田精司三重大教授、上田正昭京大教授ら、古代史学の中核をになう人々によって、水野説を批判的に摂取、発展させた著書、論文が次々に発表され、王朝交替論は学界に大きな影響力を持つに至った。『古代国家史研究の歩み』(新人物往来社)で学説史の整理を行った鈴木靖民国学院大学教授は、王朝交替論を「古代史研究で戦後最大の学説」と総括し、『古代王朝交替説批判』(吉川弘文館)で、王朝交替の諸学説に全面的批判を展開した前之園亮一共立女子短大助教授も、これが万世一系史観否定に果たした意義を高く評価している。批判も多いが、王朝交替論が民俗学、神話学、国文学など隣接科学にも波紋を広げ、賛否両論の応接の中で古代史像を掘り下げていった点、恵まれた展開をとげた学説といっていいだろう。
○仁徳王朝が焦点に
 王朝交替論は論点も多岐にわたり、論者それぞれによって立論の根拠やポイントの置き方も異なるから、要約は難しい。一時期、崇神王朝に先行する王朝の存在が提唱されたこともあったが、これは学界の支持するところとならず、大ワクは水野氏が設定した3つの王朝グループをめぐって論議されている、といえる。とくに、前後の2王朝をつなぐ、かなめの位置にある、仁徳王朝のとらえ方が問題だ。
 三輪王朝とも呼ばれる崇神王朝は、このグループにイリのつく人名が多く、ワケのつく人名の多い仁徳王朝グループとはっきり区別されるほか、三輪山ろくに勢力基盤の存在も認められる。しかし崇神王朝に属する崇神、垂仁天皇らの実在性についてはそれを裏付ける確実な資料がないとして、実在を疑問視する論者も少なくない。王朝自体の評価が定まっているとはいい難い。
 その点、河内王朝とも呼ばれる仁徳王朝は、5世紀、倭の5王が中国南朝の宋へ10回にわたり遣使したという宋書の記事が大きな傍証となっており、倭の5王は河内王朝の大王たちであることが間違いないものとされているため、個々の大王に関しては諸説あっても、グループ全体としての実在の可能性はきわめて高い。
 河内・和泉の大阪平野に、応神陵や仁徳陵にあてられている巨大な前方後円墳が現存することや、難波に宮都が設けられていることから、河内王朝時代、大阪に強力な政治権力の拠点があったことは明らかだ。
 この事実をどうとらえるかは、河内平野の開発などにともなう大和政権の進出とする見解と、新王権の樹立とする見解の2つに大きく分かれる。河内王朝批判論者の門脇禎二京都府立大学長らは前者の立場。一方、後者の王朝交替論者は、直木孝次郎、岡田精司氏らが、瀬戸内の水上権を握って勢力を強めたこの地の自生勢力がやがて大和へ入り初期大和政権を打倒すると考えるのに対し、水野祐、井上光貞氏らは、九州の勢力が応神または仁徳の時代に征服者として畿内に入った、と考えている。
○異例な「継体」即位
 王朝交替のもう1つの画期は6世紀初頭の継体天皇の時だ。
 兄弟相続が一般的だった河内王朝時代は、王位をめぐる争いが相次ぎ、武烈の代で男系の王統は断絶してしまう。日本書紀によると、そこで応神の5世の子孫にあたる継体を越前から迎え入れて即位させた、ということになっている。応神5世の子孫というのが事実なのか、あるいは後に系譜上造作されたものか見解が分かれるところだが、いずれにせよ実態としては地方豪族と見られる継体の即位が、かなり異常な形のものだったことは確かだろう。直木孝次郎氏や岡田精司氏らは、継体が即位後、宮都を北河内や南山城に転々とさせ、即位20年目にやっと本拠地大和に宮を営んでいることを重く見て、大和に継体の即位を認めぬ勢力があって、継体側との間に武力対立が続いたことを想定している。
 こういう見方に対して、平野邦雄東京女子大教授は、日本では王位をふくむ古代の族長権の継承は、男系・父系だけでなく、女系・母系を加えた“双系的”なものだったと考えるべきだという。平野氏によれば、当時は近江の息長氏など、大王家に反復して妃を入れる皇親的氏族が成立しており、継体はいわば大王家の“母族”というべき息長氏の胎内に育った王位継承の有資格者だったとして、ここにはさん奪型の王朝交替はなかった、と主張している。
 よるべき史料の絶対量が少ない古代史の分野では、確かな結論に結びつく決め手は容易には得られない。それはこの王朝交替論でも同様で、論者の見解はまちまちだ。ただ、多様な学説の提示を受けて、国民の間に、古代王権についてもとらわれのない目で考える力が育ってゆくのは、学問自由の確かな効能だろう。
(赤松俊輔記者)
 
 
 
 
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