日本財団 図書館

共通ヘッダを読みとばす


Top > 社会科学 > 政治 > 成果物情報

私はこう考える【天皇制について】

 事業名 組織運営と事業開発に関する調査研究
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


1989/02/16 朝日新聞夕刊
近世:下(権威の構造 天皇制のいま:7)
 
 朝幕間の静かな変容 民衆からの解明も必要
 「はじめ、なんのことか? と思いました」と、学習院大学助教授の高埜利彦氏(日本近世史)は話す。
 江戸時代の宝永(1704―11)か享保(1716―36)のころ、霊元上皇が京都・下御霊神社に納めた願文を見たときのことだ。それは、関白近衛基煕ないし近衛家3代の存在を「私曲邪佞之悪臣」ときめつけ、神慮によって「朝廷復古」のために退けるよう、という内容だった。近衛家は五摂家の一であり、関白は天皇を補佐する最も信頼されてしかるべき人物のはずである。それがどうして?
○上皇が復古に意欲
 江戸時代に、長く中断されていた大嘗祭(だいじょうさい)を復活させるなど、霊元上皇は「朝廷復古」に意欲をもやした人だった。江戸幕府開創から100年あまり、幕府による朝廷「支配」は徹底していた。それは、たとえば後光明天皇が病気の父、後水尾院の見舞いに、隣接する仙洞御所にさえ行幸できなかったことからも想像されるだろう。天皇の行幸禁止は、この後光明天皇の時から数えても213年間つづいた。
 朝廷は幕府の意向をうかがい、その承諾をえなければ何もできなかった。だから、「朝廷の御為」に幕府の支配権を守ろうとする左大臣・近衛基煕らのやり方は、霊元天皇にとって、がまんならないものだった。天皇は譲位して院政をめざしたが、幕府に妨害されて果たせず、そのうえ、上皇にとっては不快な近衛基煕が関白に就任する。霊元上皇の下御霊神社への願文は幕府の徹底した締めつけに対する怒りが、幕府と自分との間に立っている関白とその一家に向けられたものだったのである。
 昨年秋、日本史研究会大会での高埜氏の報告「江戸幕府の朝廷支配」は、朝廷支配の枠組みと、そこに封じ込められた朝廷の権威が2回の変容を経て復活する過程を、公家の日記や手紙などを資料に、綿密に追跡したものである。
 江戸幕府による朝廷支配の基本的枠組みは、寛永期に確立してから幕末まで機能しつづけたが、その下で朝廷の存在はすこしずつ変容していった。その過程には2つの画期があった、と高埜氏はいう。1つ目は4代家綱から5代綱吉にかけての時代。2度目は、光格天皇が父の親王に太上天皇の尊号を宣下しようとして幕府から拒絶された「尊号一件」の起きた寛政期だ。
○研究の裾野広がる
 寛永11年(1634)の将軍家光による30万の軍勢をひきいての上洛は、幕府の圧倒的な力を見せつけた。だが、平和の時代がつづき、霊元上皇のはたらきかけによる大嘗祭の再興など、朝廷儀礼・朝儀が復活してくる。家光上洛を昔語りとするような「朝廷復古」の機運が盛り上がってくる。霊元上皇の挫折と失意もこうした時代のふんいきのなかで起こった。
 やがて公家の絶対数が著しく増加したこともあって、かれらの発言権もつよまり、「尊号一件」では、朝儀に加わることのなかった公家たちが、幕府・朝廷支配の枠組みを逸脱して群議をおこない、幕府の処罰をうける。将軍権力を補強するために朝廷の権威を協調させる時代は終わった。この後、文化・文政期以降、朝廷権威は自立の道を歩みはじめる。やがて幕府権威との並立、そして逆転。
 「このような天皇・朝廷権威を頂点にかざす勢力によって、幕藩制国家が政治的に解体させられようとは・・・幕初はもちろんのこと、第1の変容後も、だれ1人予想するものはなかったであろう。このような、実に目に見えにくい、ゆっくりとした静かな体制の変容を捉えることは、現代の一見『秩序』あるかに見える社会の中で、歴史学に問われた課題の1つとなるであろう」と、高埜氏は結論する。
 早大教授の深谷克己氏によれば、「近世史についての戦後の代表的な通史は、天皇ぬきの幕藩体制論のかたちで書かれるのがふつうであった」(「近世天皇論」)。天皇を幕藩体制論のなかに取り込む努力がはじまったのは、1970年代になってからだ。国家論がさかんになったこと、教科書検定訴訟で近世の天皇が「君主」であるかどうかが係争点の1つになったことも刺激になっていた。
 現在、天皇だけでなく、公家もふくめた朝廷勢力全体の研究、大名諸家との関係にも研究の裾野(すその)がひろがってきている。直接に天皇の研究ではなく、大名・宗教者・手工業者などの系図・官位にかんする願望と実際についての研究が、結局は近世における天皇・公家の研究であるというものもふえてきている、という。高埜氏の公家や寺社についての研究もそうした流れのなかに位置づけられるだろう。
○秀吉の革命的認識
 「天皇がなぜつづいてきたかという問題を考えるとき、民衆意識の面からのアプローチがもう少しあってもいいのではないか」と、京大教授・朝尾直弘氏は指摘する。近江堅田の一向宗本福寺の僧の記録に出てくる「諸国ノ百姓ミナ主ヲ持タジ〜トスルモノ多アリ」「百姓ハ王孫ノ故ナレバ也」という文のなかの「主ヲ持タジ〜」の意識、公民として支配してくれという意識、それをどう評価するか。「戦国時代の動きのなかで、見過ごすことのできない大きなポイントと思う」という。
 信長、秀吉、家康の時代は東アジア全体が動乱の波に洗われた時代だった。明が衰退して清が興り、そこへヨーロッパ勢力が進出してくる。世界秩序の大変動のなかで、彼らは新しい国家をつくらなければならなかった。自分たちの権力をどう正当化するかということだけではなく、日本国をどう組み立てていくかが3人の権力者の課題だった。その時に、秀吉は日本を「神国」ととらえた。仏教のインド、儒教の中国にたいする神道の日本という、中世の3国的世界観を引きつぎながら、その外側からきた「きりしたん国」との対比において日本をとらえた点で、「革命的な自国認識だった」と朝尾氏は考える。
 秀吉の「神国」を受け継いだのが、家康の「禁中並公家諸法度」の第1条「天子諸芸能之事、第1御学問也」だ、という。
 朝尾氏はこう説明する。「なんの学問かといえば、和歌です。綺語たりといえども、我が国の習俗なりと言っている。日本国をどういう形で自己認識するかという問題に直面したとき、家康は伝統的な和歌をもってきた。文化的なものもふくめた日本国家の構築、そのなかの天皇の位置づけ、を家康は考えたのだと思います」
(稲葉暁記者)
 
 
 
 
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。








サイトに関するご意見・ご質問・お問合せ   サイトマップ   個人情報保護

日本財団会長笹川陽平ブログはこちら



ランキング
注目度とは?
成果物アクセスランキング
32位
(28,694成果物中)

成果物アクセス数
231,117

集計期間:成果物公開〜現在
更新日: 2017年4月22日

関連する他の成果物

1.私はこう考える【北朝鮮について】
2.私はこう考える【中国について】
3.私はこう考える【ダム建設について】
4.私はこう考える【死刑廃止について】
5.私はこう考える【公営競技・ギャンブル】
6.私はこう考える【国連について】
7.私はこう考える【自衛隊について】
8.私はこう考える【憲法改正について】
9.私はこう考える【教育問題について】
10.私はこう考える【イラク戦争について】
  [ 同じカテゴリの成果物 ]


アンケートにご協力
御願いします

この成果物は
お役に立ちましたか?


とても役に立った
まあまあ
普通
いまいち
全く役に立たなかった


この成果物をどのような
目的でご覧になりましたか?


レポート等の作成の
参考資料として
研究の一助として
関係者として参照した
興味があったので
間違って辿り着いただけ


ご意見・ご感想

ここで入力されたご質問・資料請求には、ご回答できません。






その他・お問い合わせ
ご質問は こちら から