日本財団 図書館

共通ヘッダを読みとばす


Top > 社会科学 > 政治 > 成果物情報

私はこう考える【天皇制について】

 事業名 組織運営と事業開発に関する調査研究
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


1989/01/07 朝日新聞夕刊
昭和の明暗、刻むご生涯 天皇陛下ご逝去
 
 君主として象徴として 「立憲精神追求」にご苦心
 尾を引いた戦争責任論
 亡くなられた天皇陛下は、日本という国家が体験した最も特異な時代の国家元首であり、象徴であった。
 明治34年(1901)4月29日、当時まだ皇太子であった大正天皇の第1皇男子として、青山御所でお生まれになった。称号「迪宮(みちのみや)」。名「裕仁(ひろひと)」。将来「天皇」の地位につくことを運命づけられてのご誕生であった。
 長い天皇家の歴史の中で、同じ立場を運命づけられて生まれた人は多いが、この皇男子の場合、そのことの意味はきわだって重かった。明治憲法によってつくられた近代天皇制は、まだ始まったばかりであり、これから完成させてゆこうという途上にあった。天皇家にとっても、また、天皇制を柱として新興国日本を強大にしてゆこうとしていた当時の指導層にとっても、この皇男子は大きな期待の対象だった。父大正天皇が病弱だったこともあって、この皇男子こそは、当時考えられた意味での「理想の天皇」になってもらわねばならなかった。しかし、激動の時代は「象徴天皇」という名で終わらせたのである。
 いま、その人が亡くなられ、「昭和時代」が名実ともに「歴史」となる時、多くの人びとが、その人と共有した自分自身の時間を思わずにはいられないだろう。陛下の一生を、正確につかみきることはむずかしいが、「木戸幸一日記」「西園寺公と政局」「本庄日記」をはじめ、側近にあった人たちから伝えられ、公にされた記録などを手がかりとして、たどってみる。
○強大国家へ、期待担って
 生まれて2カ月後、川村純義伯爵(海軍中将、枢密顧問官)が養育主任となって、麻布の邸に預かる。明治41年春、学習院初等科に入学後は、乃木希典大将が院長として教育にあたる。初等科5年で明治天皇が亡くなり、大正天皇即位に伴い皇太子となった。乃木は、このとき明治天皇のあとを追って殉死するが、初等科卒業とともに東宮御学問所が設けられ、その総裁となったのは東郷平八郎元帥であった。ここで「理想の天皇」を育て上げるための“帝王教育”が7年間つづけられる。
 東宮御学問所では、杉浦重剛が「倫理」を、白鳥庫吉が「歴史」を担当するなど、当時1級とされた学者を動員して、人文、社会、自然科学にわたる幅広い教育がおこなわれた。明治憲法の定める日本陸海軍の統帥者としての教育も、むろん重視はされていたが、少なくとも、のちに出現する軍国ファッショ時代を予定し、その推進者を育てあげようとした形跡はない。儒教的な「君主の徳」をそなえつつ、科学的な認識力、抑制のきいた平衡感覚も身につけた立憲君主、というのが、“帝王教育”の目標だったかと思われる。
 大正10年の春、御学問所の課程を終わったあと、半年間にわたるヨーロッパ5カ国訪問の旅行に出かけられたことも、昭和の天皇の人間形成に大きな影響をおよぼした。
 20歳の青年はこのとき、英国王・ジョージ5世から親しく立憲君主のあり方を学ばれた。第1次世界大戦の戦火の跡も生々しいベルダンやイープルを見て、「戦争とはこんなにひどいものか」ともらされた。のちに、弟の秩父宮に「ロンドンに来て初めて人としての自由を知った」とも書き送られた。
 昭和45年夏、那須での記者会見で天皇は「カゴの鳥だった私にとって、はじめて自由な生活を体験したものだった。あの旅行の体験は、その後の私に非常に役立っている」と話されていた。
○国情は騒然、進む神格化
 大正10年9月3日、ヨーロッパ訪問から帰国し、11月25日に摂政となる。事実上、このときをもって昭和の天皇の時代が始まったともいえる。
 だが、帰国から摂政就任までの短い間に、安田財閥の創始者安田善次郎、そして原敬首相が相次いで右翼テロに倒れた。国内は経済不況の進む中で、思想の左右対立が深刻化し、外からは米国がワシントン会議を提唱して日本は軍事力の縮小を迫られようとしていた。まっしぐらに富国強兵をはかり、世界列強の間に割って入ろうと突き進んだ明治国家の行動は、国内的にも国際的にも壁にぶつかり、さまざまなひずみが露呈していたのである。その明治国家が「理想の天皇」と期待した人が登場したとき、その前提であった「理想の国家」の方が破綻(はたん)しかかっていた。
 大正12年9月1日、関東大震災。暗たんたる年の暮れ、議会開会式に向かう摂政の車をめがけて難波大助がステッキ銃を発砲した。いわゆる「虎ノ門事件」である。弾丸が窓ガラスを貫いたが、摂政は無事だった。
 大正13年1月、震災のため繰りのべられていた婚約者、久迩宮良子(くにのみや・ながこ)女王とのご結婚式がおこなわれる。久迩宮家に「色盲の血統がある」と元老山県有朋が反対に回り、「宮中某重大事件」として騒がれるといういきさつのあった結婚だった。しかし、昭和の天皇にとって皇后は、「良宮(ながみや)、良宮」と呼んで終生を円満にすごされた無二の伴りょであった。
 この間に大正天皇の病状はいよいよ重く、大正15年(1926)暮れ、ついに亡くなられる。摂政から、ただちに天皇に即位し、名実ともに「昭和」が始まった。
 内には金融恐慌による銀行破産の続出、ロシア革命の成功がおよぼした社会主義運動のうねりと、その弾圧。外には中国大陸における蒋介石政府と奉天軍閥の間の緊張、排日運動の高まり、そしてわが国の権益保護のための山東出兵。天皇即位直後の状況は、騒然としていた。
 昭和7年1月には、陸軍観兵式の帰途、桜田門付近で李奉昌が手投げ弾を投げ、2度目の暗殺未遂事件に遭われた。
 天皇を補佐する内閣は政党政治の未成熟さを次第に色濃く見せつけながら、しきりに変わった。藤田尚徳元侍従長の回想記などによると、天皇は、新しい首相が決まるたびに「憲法を尊重すること」「外交上に無理をせぬこと」「経済に急激な変化を与えぬこと」の3つを、言い渡すのが常だったという。
 だから、憲法によって天皇の統帥下にあるべき軍隊の一部、大陸駐留の関東軍の将校たちが独断で仕組んだ張作霖謀殺の真相を知って、天皇は立腹した。田中義一首相が、将校たちの処分をいったん約束しながら、軍部の抵抗にあってあいまいにすませようとしたとき、「最初にいったことと違うではないか」と面詰、これがもとで田中内閣は総辞職した。
 昭和6年の満州事変、7年の5・15事件。10年には、美濃部達吉博士の天皇機関説を問題にする動きが高まって、天皇を非現実的な「現人神(あらひとがみ)」の座にまつり上げる大きなきっかけとなった。
 このとき天皇は、本庄繁侍従武官長に「自分の位はもちろん別だが、肉体的には武官長と何ら変わらぬ。従って機関説を排撃せんがため、自分をして動きのとれないものとすることは、精神的にも肉体的にも迷惑」「もし思想信念で科学を抑圧し去ろうとするときは、世界の進歩は遅れる」ともらした、とされている。
 こうした天皇の気持ちが怒りの形をとって爆発したのが11年の2・26事件であった。知らせを聞いた天皇は「とうとうやったか」と、はっきり憤りの色を見せ、いち早く青年将校たちを「暴徒」ときめつけ、「すみやかに暴徒を鎮圧せよ」と命じられた。にもかかわらず、陸軍当局が鎮圧をためらっていると、「朕(ちん)みずから近衛師団をひきいて、現地に臨まん」と言い放たれた。この天皇のきびしい態度に、陸軍当局も従わざるをえなくなり、クーデターは失敗に終わった。
○軍に押され開戦の裁可
 盧溝橋で日中両軍が衝突して、全面的な日中戦争が始まったのは、それからまもない昭和12年7月7日のことだった。広大な大陸を舞台として、日本軍は泥沼の長期戦に、ずるずるとのめり込んでいったのである。
 米英両国との関係も悪化してゆく。ヨーロッパには、ヒトラーのドイツ、ムソリーニのイタリアが出現して、次つぎと軍事活動を起こしていた。そして、15年9月、第2次近衛内閣は、そのドイツ、イタリアとの3国同盟を結び米英側との対立は決定的なものとなった。
 天皇は、3国同盟について、「万一、情勢の推移によっては、重大な危局に直面するのではないか」と、側近の木戸幸一内大臣らに心配をもらされたといわれる。案の定、16年6月、独ソ戦が始まると、日本軍はこれに呼応して南部仏印へ進出するという行動に出た。米国は英国、オランダなどと連合して、日本人資産を凍結、米国は石油の対日輸出を全面的に禁止した。軍部を中心に、「対米英戦もやむをえない」との激情が国内に広がった。
 こうして同年9月6日、天皇が出席して開かれた御前会議は、「対米(英、蘭)戦争も辞せざる決意」の下に「おおむね10月下旬を目途に戦争準備を完整する」、それと並行して「外交的手段で米英にわが国の要求を承認させる」、という「帝国国策遂行要領」を決定した。
 御前会議の席上、慎重派の原嘉道枢密院議長が「この案は、外交よりも戦争に重点が置かれているように思うが、政府、統帥部の趣旨を聞きたい」と問うたのに対して、政府側から及川古志郎海相が答弁しただけで、統帥部の杉山元参謀総長、永野修身軍令部総長は沈黙していた。
 これを見て天皇は「事が重大だから質問する」と切り出した。そして、「原がこんこんと述べたのに対し、両統帥部長は一言も答弁しなかったがどうか。きわめて重大なことなのに、統帥部長の意思表示がなかったのは、自分は遺憾に思う」と述べ、ポケットからメモを出すと「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」という明治天皇の御製を、声高く読み上げた。そのうえで「自分は常にこの御製を拝誦(はいしょう)して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せむと努めている」と、ご自分の意思がどこにあるかを示されたのだった。
 後年、木戸幸一が語ったところによると、この一幕は、軍部の暴走をなんとか抑えようとして、事前に準備した演出だったらしい。
 しかし、ここまでくれば形ばかりの外交交渉が成功するはずもなく、12月1日、ついに開戦決定の御前会議となる。昭和の天皇の生涯を考えるとき、それは最も重く、運命的な日であった。この日の御前会議では、戦争回避を言い出す者もなく、政府、統帥部とも、一致して「対米英蘭開戦」を承認した。東条英機首相が「本日の議題につき、ご異議なきものと認めます」という言葉で締めくくったとき、天皇は最高統治者として、太平洋戦争の火ぶたを切ることを裁可したのである。
 12月8日、宣戦布告の詔書が発布された。「大日本帝国天皇裕仁」の名によって。
○和戦半ばし、終戦ご決断
 しょせん無理な戦争であった。緒戦のつかのまの勝利のあと、日本軍は連合国の巨大な軍事力の前に敗退を重ねた。前線での敗北はもとより、本土の主要都市が空襲で焼き払われ、昭和20年5月26日には皇居の宮殿も炎上した。
 敗北は必至である。6月22日、天皇は「このさい、従来の観念にとらわれることなく、戦争終結について速やかに具体的研究をとげ、これが実現に努力せよ」と鈴木貫太郎首相らに指示する。中立条約国のソ連を介して和平の道をさぐろうとしていた7月26日、連合国は無条件降伏を要求する「ポツダム宣言」を発した。むろん「本土決戦」を主張する軍部の態度は硬く、まとまらないまま広島に原爆を落とされ、ソ連の参戦を招き、長崎にも原爆を落とされた。
 長崎への原爆投下の日、皇居吹上御苑の地下防空壕(ごう)で最高戦争指導会議が開かれたが、東郷茂徳外相、米内光政海相、平沼騏一郎枢密院議長は「ポツダム宣言受諾」を主張したのに対し、阿南惟幾陸相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長はなお「本土決戦」を譲らない。3対3である。本来なら議長の鈴木首相がどちらかに意思表示するところだが、鈴木首相はそれをせず、「まことに異例で、恐れ多いことながら、聖断を拝し結論を出したい」と、天皇の決断を求めた。
 天皇は「外相の意見に賛成である」とし、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍ぼう」と述べられた。いわゆる「終戦のご聖断」である。天皇が御前会議で明確にみずからの意思表示をされたのは前例のないことだった。抗戦を主張してやまない軍部を抑えるには、この道しかなかったのである。
 もっとも、この日の天皇の意思表示にもかかわらず、天皇制という「国体」をめぐって、連合国側の意向が「日本国民の自由に表明する意思によって決定せられるべきものとす」というものであることを知った抗戦派は、再びいきり立った。このため14日、あらためて最後の御前会議が開かれ、鈴木首相が「重ねて、ご聖断を」と請うた。天皇は「世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を続けることは無理と考える。自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい」と再び断を下し、終戦が決まった。
 天皇はみずから録音機のマイクの前で、ポツダム宣言受諾を告げる終戦の詔勅を読みあげられた。8月15日正午、ラジオを通じて全国に流れた「玉音放送」を、泣きながら聞いたときの夏の日差しを記憶にとどめている人は、まだ多いはずである。
 日中戦争以来の軍、民間の死者あわせて300万人。アジアの、さらには世界の戦争被害者を考えれば、無数の人間を苦しめて、ようやく戦火はやんだ。
 日本はアメリカを中心とする連合国軍の占領下にはいり、天皇の身がどうなるのかも、定かではなかった。敗北ドイツに対してと同じように「戦争犯罪人」の逮捕、追及が開始された。時代の状況と戦犯追及の論理からいって、天皇がその中に入れられることは十分ありうることだった。
 天皇が、占領軍の最高司令官マッカーサー元帥を米国大使館に訪問したのは、終戦の翌月だった。マッカーサーは、のちに回想記を書き、このときのことを次のように書いた。
 「私は天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴えはじめるのではないか、という不安を感じた。・・・しかし、この私の不安は根拠のないものだった。天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。『私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした』」
 マッカーサーは「この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした」とし、「天皇が、日本の最上の紳士であることを感じとった」と述べている。
 もっとも、米国政府が、天皇の名を戦犯リストからはずしたのは、より高度の政治的判断、つまり日本での占領政策を円滑に進めるには天皇の影響力を利用するのが一番よいという考えにもとづくものであった。だが、この時期、天皇が「全責任を負う」というお気持ちに強く傾いていたのは確かのようである。当時、最も天皇の近くにあった木戸幸一は、その日記にも書き、さらに後年、日記とは、また違う率直な口調で語っている。「陛下は、自分1人が代表して責任をとる。そうすれば、他の戦犯は許されるのではないか、といわれた。しかし、連合国の連中は、ああ、そうかと陛下を戦犯にするだけで、他の連中も許しはしないだろう。それでは損だから、おやめになった方がいい、と申し上げたんだ」
○現人神から人間天皇へ
 こうして、天皇は、連合国から戦犯に問われることもなく、また国内的にも、“戦争責任”をとって退位するといった形はとられなかった。21年元日の詔書で「天皇は現人神などではない」と、みずから“人間宣言”をされ、翌年5月、新憲法が施行されると、「国民統合の象徴」という新しい規定のわくの中に入っていった。
 “人間宣言”の直後からは、各地を回って国民とじかに接触する「戦後巡幸」が始められた。
 つい先ごろまで、口をきくことはおろか、顔を見ることもできない高みにあって全国民に君臨していた天皇が、小さな町の施設や工場まで姿を見せ、「しっかりやってね」と人びとに声をかけ続けたのだった。人びとは、ひたすらおそれ、かしこんでいたその人が示す、ぎごちない動作や言葉の中に誠実さを感じとって素朴に感動し、「おいたわしい」と泣いた。この「戦後巡幸」は29年の北海道まで、沖縄を除く全都道府県に及び、延べ165日、3万3000キロに達した。
 しかし、一方で、多くの人間を悲惨な戦争に追いやった最高責任者であった以上、その責任をなんらかの形で明らかにしてもらいたい、とする声もあった。21年暮れ、貴族院での演説で、南原繁東大総長が「おんみずから大義を明らかにし給わんことを・・・」と述べ、天皇の退位を求めたのは、その1つの代表的な例といえよう。こうした気持ちを抱いた国民の層にとって、戦後の天皇の姿が、「象徴」という名前で温存された天皇制の中に居座りつづけるもの、と映ったことも事実であった。
 晩年になって、天皇は記者会見の機会などを通じて「自分は立憲君主たろうと行動してきた。それに拘泥し過ぎて(開戦を)防止できなかったのかもしれない」と述べられた。間接的な表現ながら、これが「戦争責任」論に対する天皇の答えだったと思われる。
 また、46年秋、外人記者団に対して「自分は立憲君主たることを念願としてきたが、2回だけ非常に切迫した緊急事情のため直接行動をとった。その1つが2・26事件であり、もう1つが終戦の時である」といわれた。
 明治憲法は確かに天皇を「神聖にして侵すべからざる、統治権の総攬(そうらん)者」としてはいたが、その統治権の行使は「内閣の補弼(ほひつ)」、つまり政府の決定にもとづいておこなわれるものと定めていた。すべてを自分個人の意思で左右できる専制絶対君主ではなく、若くして天皇が受けた教育もまた、そうあってはならない、憲法の規定に従う君主であれ、というものだった。
 これに対して、憲法の運用論としてはそうであったとしても、終戦のとき、あれほどの決断を示した天皇が、なぜ開戦にあたって、同じ果断を示してくれなかったのか。当時、軍部を抑えることができる人がいたとすれば、それは統帥権を持つ天皇おひとりだったのに・・・という思いもまた、多くの国民の胸に残りつづけたことは否定できない。
○国際親善に大きな役割
 だが、戦後の天皇は、新憲法で政治的権能こそなくなったものの、「象徴」として国際親善に大きな役割を果たされたといえるだろう。
 46年に英国はじめヨーロッパの7カ国、50年にアメリカを、皇后とともに訪問。ヨーロッパの一部では、なお天皇の戦争責任を追及する動きがあったが、アメリカでは「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争・・・」と述べたスピーチが感動を呼んだ。また、来日した中国のとう小平副首相、韓国の全斗煥大統領にも過去の非を率直にわび、かつての敵国、植民地との和解は成った。経済成長とともに日本の国際的地位も高まり、外国首脳の来日がふえたが、誠実さにあふれた天皇の接遇ぶりは、どの国からも非常な好感をもって迎えられた。
 この世に生まれた日から自分の生き方を憲法によって規定されている、という特異な人生を、90年近くにわたって生き抜かれた天皇は、前例がない。その意味では、自分の負って生まれた宿命を、精いっぱい担ってやむことのなかったご生涯であったことは確かであろう。そして、いま昭和の天皇の負ってこられたものの終わりとともに、1つの時代が幕を閉じた。
 
 
 
 
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。








サイトに関するご意見・ご質問・お問合せ   サイトマップ   個人情報保護

日本財団会長笹川陽平ブログはこちら



ランキング
注目度とは?
成果物アクセスランキング
32位
(28,756成果物中)

成果物アクセス数
231,155

集計期間:成果物公開〜現在
更新日: 2017年4月29日

関連する他の成果物

1.私はこう考える【北朝鮮について】
2.私はこう考える【中国について】
3.私はこう考える【ダム建設について】
4.私はこう考える【死刑廃止について】
5.私はこう考える【公営競技・ギャンブル】
6.私はこう考える【国連について】
7.私はこう考える【自衛隊について】
8.私はこう考える【憲法改正について】
9.私はこう考える【教育問題について】
10.私はこう考える【イラク戦争について】
  [ 同じカテゴリの成果物 ]


アンケートにご協力
御願いします

この成果物は
お役に立ちましたか?


とても役に立った
まあまあ
普通
いまいち
全く役に立たなかった


この成果物をどのような
目的でご覧になりましたか?


レポート等の作成の
参考資料として
研究の一助として
関係者として参照した
興味があったので
間違って辿り着いただけ


ご意見・ご感想

ここで入力されたご質問・資料請求には、ご回答できません。






その他・お問い合わせ
ご質問は こちら から