1989/01/07 朝日新聞夕刊
天皇陛下、崩御 新元号は「平成」 激動の昭和終わる
87歳 歴代最長の在位 大喪の礼2月24日
天皇陛下は7日午前6時33分、十二指腸部の腺(せん)がんのため、皇居・吹上御所で崩御された。87歳だった。憲法と皇室典範に基づいて、皇太子明仁(あきひと)親王が直ちに皇位を継承し、即位された。政府は天皇崩御と新天皇即位を告示するとともに、新元号は「平成(へいせい)」と制定した。「大喪の礼(たいそうのれい)」は2月24日、国葬として行われることになった。戦争と平和、苦難と繁栄の歴史を刻んだ激動の昭和時代は、幕を閉じる。
宮内庁の藤森昭一長官が7日午前7時55分、宮内庁3階の講堂で、小渕官房長官が首相官邸で、同時に発表した。藤森長官は「天皇陛下におかせられましては本日午前6時33分、吹上御所において崩御あらせられました。誠に哀痛の極みに存ずる次第であります」と文書を読みあげ、ご病状の経過を説明した。それによると、昨年9月19日に吐血されて以来、上部消化管から出血が断続的に続き、胆道系炎症、閉塞(へいそく)性黄だんが認められ、尿毒症を併発。十二指腸乳頭周囲しゅよう(腺がん)で亡くなられた。
宮内庁によると、陛下は7日午前4時過ぎ、危篤になられた。大量吐血されてから111日目だった。
陛下は62年8月、那須御用邸でご滞在中、食べ物を吐かれ、腹部の張りを訴えられた。帰京後の精密検査で腸に通過障害のあることがわかり、同年9月22日に、宮内庁病院で森岡恭彦・東大医学部付属病院長(当時)の執刀で開腹手術を受けられた。病名は当時、「慢性すい炎」と発表された。
同年10月7日にご退院。12月15日から、それまで皇太子殿下に委任されていた国事行為の一部を再開されるまでにいったんは回復された。
しかし、陛下は昨年夏、ご静養中の栃木県・那須御用邸で発熱された。同年9月8日に帰京されたが、体調は思わしくなく、18日には予定していた大相撲秋場所中日のご観戦をとりやめた。翌19日深夜、吹上御所の寝室で点滴中に吐血され、24日には体温が39.2度、脈拍も117まで上がり、重体に陥られた。その後も十数度にわたって危機に見舞われたが、陛下は持ち前の気力と日ごろのご養生でつちかわれた体力などで、そのつど克服、闘病生活は3カ月半に及んだ。
亡くなられた陛下のご追号(おくり名)は、新天皇がお決めになるが、明治以降の例に従うと、元号を冠して「昭和天皇」と呼ばれるものとみられる。ご追号が決まるまでは、慣例で「大行天皇(たいこうてんのう)」とお呼びすることになる。
陛下のお名前は裕仁(ひろひと)。明治34年(1901)4月29日、大正天皇の第1皇男子としてご誕生。幼少時の称号は迪宮(みちのみや)。大正10年11月、大正天皇のご病気のため摂政となり、同15年(1926)12月25日、大正天皇の崩御によって25歳で天皇に即位された。在位期間は62年に及び、歴代の最長を記録。また、天皇として最もご長命だった。
この間、世界的な激動の時代に身を置かれ、第2次大戦では「大日本帝国」の元首としてご自身の名で米英両国に宣戦を布告、戦況悪化の中でやがて終戦の裁断を下されるなど、波乱に満ちた生涯を歩まれた。第2次大戦参加国の当時の元首としては、ただ1人の生存者だった。
敗戦後、新憲法の下で「日本国・日本国民統合の象徴」へと立場が変わり、「人間天皇」として常に国民との接触に努められてきた。また、天皇として初めて欧米諸国をご訪問になるなど国際親善に力を尽くされた。公務の合間には生物学の研究にいそしまれていた。
<崩御(ほうぎょ)>
「崩」とは「みまかる」「かくれる」の意味で、「御」はその敬語。
8世紀の『日本書紀』にも「天皇崩(ず)」と記述され、室町時代の用語辞典『下学集(かがくしゅう)』には「崩御とは天子の世を辞すを指す」と解説されている。
戦前の「皇室喪儀令」(大正15年制定、戦後は失効)には、天皇、皇后、皇太后、太皇太后までを「崩御」とすることが成文化されていた。戦後の「皇室典範」(昭和22年制定)では「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」(25条)と記されている。
<大行天皇(たいこうてんのう)>
ご追号が決まるまでの天皇の呼称。大行とは「行きてかえらぬ」の意。中国の古典『史記』にも見え、宮中では天武天皇のころ、すでにその言葉が使われたことが『日本書紀』にある。
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