1985/02/10 朝日新聞朝刊
2月11日と歴史の重み(社説)
いまの四十歳代後半以上の世代にとって、「二月十一日」はさまざまな感慨を呼ぶ日に違いない。現在、建国記念の日として祝日になっているこの日は、かつての紀元節であり、天皇を神格化した戦前、戦中の日本を思い起こさざるを得ないからである。
戦後、国論を大きく分ける中で建国記念の日がスタートしてからすでに十八年。社会の多数派となりつつある戦後世代の多くは、奉祝、反対二色の運動をひとごとのように、単なる休日としてこの日を過ごしている。とくに今年は連休なので、家族や仲間たちとレジャーを楽しむ人が多いことだろう。
こうした一見「定着」を思わせる状況の中で、中曽根首相が歴代の首相として初めて、民間団体主催の「建国記念の日を祝う国民式典」に出席することになった。戦後政治の総決算を旗印とする首相の決断だけに、不安感を抱く人は少なくあるまい。
出席を決めるにあたって、首相は(1)神式に基づく拝礼はやめる(2)「天皇陛下万歳」の表現は変更する、などの条件をつけ、宗教色、政治色を薄めるよう配慮した。このため、主催団体の一部からは強い不満も出たというが、象徴天皇制、政教分離の憲法の原則からいって当然の配慮に過ぎない。
首相は、こうした気くばりによって「国民がこぞって祝う環境がととのった」と判断しているようだが、かつてのような幅広い反対運動が起きないからといって、国民の同意のしるしと錯覚しないでほしい。
率直にいって、建国記念の日に対する国民意識の最大公約数は無関心とシラケであって、積極的な同意にはほど遠いのではないか。現に、坂田衆院議長は「今しばらく世論の動向を見守りたい」として出席を見合わせた。その慎重な態度は評価できる。
世界各国の例をみても、独立記念日、解放記念日、革命記念日など何らかの形で建国の日を祝うのが普通である。だのに日本の場合、建国記念の日が無関心とシラケの中に埋没しつつあるのは、なぜだろうか。
最大の原因は、記念日を強引に二月十一日に設定したことにある。自民党や復古的右派勢力は、野党や歴史学者などの反対を押し切って旧紀元節と建国記念日を重ね合わせた。それが国民の違和感を呼び、やがて無関心とシラケに転化したのである。戦前、戦中の歴史を軽視した選択は誤算だった、というべきだろう。
いまひとつ見逃せないのは、戦後四十年の歴史の重みである。昨年九月、その重さを実感させた場面があった。韓国の全斗煥大統領が訪日した際の宮中晩さん会における天皇陛下の「お言葉」である。
天皇は「紀元六、七世紀のわが国の国家形成の時代には、多数の貴国人が渡来し、わが国人に対し学問、文化、技術等を教えたという重要な事実があります」と述べられた。
このご発言は、日本の国家が二千六百余年前神武天皇により創建されたという建国神話を否定し、天皇家自体がかつての皇国史観から解放されていることを示していよう。
紀元六、七世紀のころ日本の国家が形成されたということ自体は、とっくに常識になっていることだ。しかし、歴史学や考古学の成果に基づく科学的認識がご発言に採り入れられ、大多数の国民が素直に受け入れているところに戦後の年輪が読み取れる。
今回、首相の式典出席を実現させた奉祝派は、次に式典の政府主催、さらには学校行事化をもくろんでいるのかもしれない。だが、歴史の流れを無視した運動は国民とのズレを拡大するだけではないか。
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