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ラーヤ遺跡出士のガラス製品について
真道洋子
 
1. 城塞区出土ガラス(図版12-7〜13、34-18〜21)
 1〜6次調査までの城塞区の発掘で、1万点を超すガラス器が出土した。装飾ガラスを中心にこれらの出土品を検討した結果、出土ガラスの年代は9〜10世紀が中心であることが明らかとなった1。この時期は、エジプトからシリア・パレスティナにかけての地域で、ガラス器が前時代のローマ・ガラスの技術伝統から脱却し、新しいイスラーム・ガラスへの展開を遂げていく画期にあたる。ラーヤ遺跡出土の遺物は、組成、技法、装飾などの点で、この時期の変容の状況をよく示している。
 後章で論じられるように、組成に関しては、ナトロンを使用した旧来のローマ・ガラス成分に該当するグループAが存続している一方で、植物灰利用によるイスラーム・ガラス成分も登場している。これらは、層位的に見ても、下層からグループA、上層からグループBが出土することで、時代的変遷が確認できる2
 組成に基づく分類と装飾技法との関連を見ると、刻線装飾、褐色単色ラスター・ステイン装飾、ピンサー装飾、型装飾の大部分がグループA、ホイール・カット、オレンジおよび多彩ラスター・ステイン装飾の大部分がグループBの組成を持つことが、これまでの研究で明らかとなっている3。これは、各装飾ガラスの年代差を示すと同時に、港湾都市ラーヤに搬入された製品の製造地の相違とも関連している。すなわち、無装飾ガラスを含むラーヤのマジョリティーを占める淡青緑色ガラスは、この都市から遠くない地域のローカル品であると推定される。着色ガラス素地の刻線装飾を除くグループAの装飾ガラスでは、この素材が主流を占めている。これに対し、マンガンで完全に消色された無色のホイール・カット装飾ガラスは、エジプトやイラクなどで製造され、輸入された高級ガラスと位置づけられる。高級な無色のホイール・カット装飾ガラスが城塞区から出土する背景には、高級ガラスが都市の最も富を誇る人および場所に持ち込まれていたことがあると考えられる。しかし、同じカット装飾ガラスでも、淡緑あるいは淡青緑などの品質が劣る淡色系の製品に関しては、高級ガラスを模倣したローカル品である可能性が考えられる。
 今次調査では、城塞区から486点のガラスが出土した。出土品を見ると、グループAの組成を持つラスター・ステイン装飾、ピンサー装飾、刻線装飾(図版12-7、34-18)などの装飾ガラスの出土点数が少ないことが指摘できる。一方、部屋3-1からは、良質のホイール・カット装飾片が出土している(図版12-8〜11、34-9)。8は、ある円筒形ビーカーの円形口縁部で、色調は無色である。縦方向にやや浅めの線カット装飾がある。9と10は、平底の円筒小瓶もしくはコップの一部である。ともに、彫りも深く、複雑な幾何文で構成された良品である。ただし、9は無色であるが、10はやや青緑がかっている。11は、口縁部が外側に折れる長い首部をもつ瓶で、胴部は円筒形であると想定される。色調は無色で、首部には縦方向に長方形の面カット装飾が施されている。
 無装飾ガラスでは、完形およびほぼ完形の小瓶が2点出土した。1点は、高さ3.5cmの無色の小瓶で、口縁部が内側に折り返され、胴部は自然な丸みをもつ(図版12-12、34-20)。もう1点は、9〜10世紀に特徴的な高さが5.2cmの方形小瓶である(図版12-13、34-21)。胴部が長方体、首部が円筒形で、やや歪みが見られる。口縁部は焼き直しを行った円形口縁で、底部は平底である。色調は無色で、化学分析の結果では、グループBの組成を持つことが明らかとなっている。
 
2. 居住区出土ガラス(図版18-1〜13、36-14〜19)
 今期から発掘を開始した居住区からは、1,111点のガラス器が出土した。後章で論じられるように、これらのガラス組成の大半は9世紀以前のグループAであり、城塞区上層から出土するグループB組成が少ないことが大きな特徴として指摘できる。したがって、出土した装飾ガラスも、グループB組成に特徴的なホイール・カット装飾やオレンジ・ラスター装飾ガラスなどは出土していない。また、グループAの中でも単色ラスター・ステイン装飾は3点に過ぎない4
 紐装飾(図版18-1、2、36-14、15)は、後期ローマ・ガラスで多用された数少ない装飾技法のひとつであるが、イスラーム期に入ってからも継続使用されている。居住区から出土した2点はいずれも薄手で、球体の胴部を持つ小瓶と想定される。1の小瓶は、胴部中央まで残っていた複数の破片を接合し、類例とも比較し、全体形状を想定復元した図である。口縁部は内側にわずかに折り返され、首部は短い円筒状で、胴部は球体である。底部は、やや盛り上がった凸底であると類推される。器体と同色の細い紐装飾が、首部のつけね部分を一周し、そのまま続けて、胴部上部にジグザグ状に巡らされている。本体には、白い筋が流れているが、これはもともと装飾的に施された練り込み装飾ではなく、不純物の作用による現象のようであるが、現在、組成の面から検討中である。2は、滑らかなカーブを描いて外に広がっていく口縁部を持つ小瓶の首部で、細いガラス紐にくわえ、褐色のガラスで波状に太いガラス紐を巻いている。この波状の太い紐装飾はローマ・ガラスにも見られる装飾である。図版18-3は、つまみ装飾と突起装飾を併せ持つ小片であり、これも、後期ローマに特徴的な様式である。したがって、これらの3点は、前時代の影響を残す、イスラーム時代初期の製品であると考えられる。
 図版18-4〜8(図版36-16、17)は、ピンサー装飾と呼ばれる装飾ガラスである。ピンサー装飾とは、ガラスの成形および整形に使用する大型のピンセットのような道具で器壁を挟んでガラス表面に文様を付けたことからこう呼ばれたが、施文に際してはピンサー以外の器具も使用されたようである。器壁に両面から器具を押し当てて挟むため、内面、外面とも文様部分が凹んでいるのがこの装飾の特徴であり、ラーヤ遺跡から最も多く出土するタイプである。居住区からも、逆三角および縦破線文(図版18-4)、楕円文(図版18-5、36-16)、三重楕円文(図版18-6)、二重逆滴文(図版18-7)、二重菱形文(図版18-8、36-17)などの単純な文様が組み合わされた製品が出土しており、器形はいずれも円筒形のビーカーである。色調は、4のみ淡褐色であるが、その他は、ラーヤで最も一般的な素材である淡青緑色である。
 刻線装飾ガラスでは、複雑な文様が彫られた製品が見られる。図版18-9は、濃緑色のビーカー口縁部で、直線的な線を縦、横、斜めに様々に組み合わせている。10は淡紫色の碗であるが、表面は厚く銀化で覆われている。口縁部下に、半円の連続文があり、半円はひとつおきに斜線で埋められている。その下に縄状の組紐文があり、その周囲を塗りつぶすように細い斜線で埋めている。このような精緻なパターンは、法門寺およびニーシャープール出土の盤にも見られ、技術的水準の高い良質な製品のグループに含まれる。
 また、不透明素材のモザイク・ガラスも発見された(図版18-11、36-18)。モザイク技法は、ヘレニズム期に隆盛を見た後、高度な技法ゆえに衰退していたが、9世紀のイスラーム・ガラスで復活した。出土品は、その希少な容器の破片であり、黄色の素地に線と花の文様が見られる。花文は、中央の小円部分が赤で、その周囲に白、黒を交互に配し、さらに縁取りするように黒い円で囲んでいる。これは、色ガラスを組み合わせて断面が花状となるようなガラス棒を作り、これをスライスして型に並べて製作したもので、この技法による容器の製作はイスラームでは例が少ない。しかし、この構成要素をもつ花文は13世紀以降のガラス製ブレスレットに多用されており、この技法が容器に使用されなくなった以降も、ビーズやブレスレットなどの小型の装身具類に引き継がれていったことを示している。
 無装飾ガラスでは、城塞区同様、ビーカーの比率が高い(図版18-13、36-19)。この他、内側に折り返された口縁を持つ瓶(図版18-12)などの残存状態の良い出土品がある。
 
 
2 沢田貴史、保倉明子、中井 泉、真道洋子、本書、pp.63-67.
3 真道洋子「紅海地域におけるイスラーム・ガラスの展開と変容」『オリエント』第46巻第2号(印刷中).
4 9〜10世紀の遺物が集中する城塞区では、10世紀後半以降の様式をもつグループB組成の無色ガラスが1点に過ぎず、9世紀以前の組成と考えられてきたグループA組成をもつ単色ラスター・ステイン装飾ガラスが大半を占めていた。このグループAの単色ラスターは、9〜10世紀の遺物と共伴することも多く、10世紀まで使用されていたと考えられる。一方、9世紀以前の遺物が集中する居住区では、ガラス器が多量に出土する中でラスター装飾ガラスが3点しか出土しなかった。今後、9世紀以前に属すると考えられていたグループAが10世紀まで使用されたという点も視野に入れて、ラスター・ステイン装飾ガラスの編年を組み直す必要がある。
 
西本真一・遠藤孝治
 
 今次の調査においては、彩画プラスター片の接合をさらに進めることによって、これまで報告してきたいくつかのモティーフの相互の関係をより明らかにすることができた。彩画プラスター片の多くはキブラ壁に沿った床上から出土しており、このために装飾画はキブラ壁のみに施されていたとみなすのが妥当であると考察をおこなってきたが、今回は特にキブラ壁の全体に描かれていたと思われるその装飾の構成を、大まかではあるが把握できた点が大きな成果である。また天井板に接していたと推定されるプラスターの断片に関する考察を進め、このモスクの建築構法の一部についても判明した。
 さらに今次の発掘調査で、モスク正面前の通りを隔てて並ぶ部屋3-8B、3-12A、10-1の床下から、多数の彩画プラスター小片が新たに出土したが、分析の結果、これらのうちの数点は、すでにモスク内から発見された断片と接合することが分かった。モスク内に当初崩落していた彩画プラスター片が、人為的に室外へ持ち出されたことが明らかになった点は、今後もモスク近辺における発掘調査の進展によって再びプラスター片が出土する可能性を示唆している。だが今回見つかった分については塩害による損傷を夥しく被っており、モティーフさえ定かではないものが少なくなかった。
 以下、モティーフごとに接合作業の進捗を示し、最後にこれらを概括して、想定されるキブラ壁全体の装飾モティーフを考察したい。
 
クーファ書体アラビア語文字列
 「アーラミーン」を構成する単語のうち、これまで不明であった最後の文字「ヌーン」の完全な形が、今回ようやく明らかとなった(図1)。小さな玉飾りが先端に付加されている点が特徴的である。しかしこの単語の前後に続くと思われる文字列に関しては、未だ接合が成功していない。わずかに「ラー」と思われるものが新たに得られたにとどまっている(図2)。
 
植物文様
 今次調査においてモスク外から新たに見つかった黄色の断片が、上述の文字「アーラミーン」の上部でうかがわれる黄色の茎と接合し、この茎全体の姿を組み立てることができた。「アーラミーン」を含むクーファ書体文字列のすぐ上には赤帯が水平に描かれ、この帯の上から一本の茎が垂直に立ち上がるものの、双方の茎はやがて緩やかに湾曲して接することとなる。この接した場所から大きな木の葉型をなす植物文様が上方に向けて描かれていたことが判明した。推定される木の葉型の植物文様の高さは、文字列の上の赤帯から約1.4mである。
 この植物文様とは別に、異なったタイプの植物文様が木の葉型の植物文様の左下に描写されていたことが分かっている。おそらくは木の葉型の植物文様の右側にも、別の植物文様が描かれていたであろう点が、未だ充分に接合が成功していない植物文様の出土彩画片の存在から推測される(図3)。
 「アーラミーン」を含む文字列と、以上に述べた植物文様による一群のプラスター片を、ここでは便宜上「Aグループ」と仮称する。「Aグループ」はモスクの東隅部から出土した遺物番号RB289、RB291、そしてRB299の断片から主に構成されており、ここからはジグザグ文の大型片もまた出土した。
 
ジグザグ文・ローゼット文
 並行して描かれた2本の赤帯の間に、黒色の波線と直線を斜めに描き込んだ文様が通称ジグザグ文である。このジグザグ文がミフラーブの窪みに沿って垂直に描かれていた点はすでに明らかであった(RB172、RB246)。同時にモスクの南隅からは、入隅を有するジグザグ文が出土している(RB188)ので、ミフラーブを中心としたキブラ壁装飾画の左右の対称性を考慮に含めるならば、この文様が少なくともキブラ壁の両端部とミフラーブの両脇、合計4箇所に描かれていたことが推定されよう。
 今次調査の接合作業において注目されたのは、「アーラミーン」を含む文字列とは繋がらないままにあった別のクーファ書体文字列の断片が、ジグザグ文、およびローゼット文と接合することが導かれた点である(図4)。これらの一群を仮に「Bグループ」と呼ぶこととする。「Bグループ」もまた「Aグループ」と同様にモスクの東隅部から出土しており(RB166、RB169、RB183)、ほとんど同じ場所から見つかっているように一見思われるが、出土場所の深さが異なっており、「Bグループ」は「Aグループ」よりも約14cm上の層から発見されている。従って、同じ東隅部から出土したにも関わらず、水平方向に連続して直接モティーフを繋げることのできない「Aグループ」と「Bグループ」は、この場所のキブラ壁の端部の上下に当初、描き分けられていたと推論される。ただし、「Aグループ」と「Bグループ」のどちらが上に描かれていたかについては、モティーフそのものからは容易に判断することができない。ここで着目されるのは、「Bグループ」と同じ出土場所から見つかっているコーナー片である。
 
コーナー片
 今回、精査をおこなったのはモスク内から出土した内隅の断片で、これらの中には平坦面の圧痕を有するものがいくつか含まれる点が確認された。代表的な例を2点のみ示す。「Bグループ」に属するコーナー片(RB166、RB169)は、平坦面に繊維状の圧痕がうかがわれる断片(図5)で、木製の板に接していたことが明瞭である。おそらくは木製の天井板と接していたプラスター片であると考えて良いであろう。同様の平坦面を有し、しかも裏面には丸太の圧痕が見られる断片(RB259、RB306)も出土している(図6)が、この痕跡は形状から判断して、壁内に埋め込まれていたヤシ材の圧痕であると推測される。その曲率からヤシ材の直径を計測することができ、およそ17cmと見積もられ、この数値はこれまで城塞内で見つかっているヤシ材の大きさと大きく異ならない。
 城塞内で発見されているヤシ材の多くは半割に加工されたものである。それらの出土状況、また付随して出土している建材などから考えて、天井を支える梁材として用いられたと考察される。しかしモスク内で見つかった、ヤシ材の圧痕を持つ内隅のコーナー片は、ヤシ材が天井板近くの壁体の内部に埋め込まれていたことを伝えており、この場合は梁材と考えるよりもむしろ、天井板を水平に並べるために壁体内に設置された天井板の受け材とみなした方が自然であるように思われる。痕跡から推定される天井際の建築構法を図7に示す。
 
キブラ壁の装飾画全体の復元考察
 これまでの報告で指摘したように、キブラ壁の面積と比較するならば、出土した彩画プラスター片の総面積はわずかな量に過ぎない。装飾画全体の復元を考察する際には注意を要するが、これまで明らかになった諸点を踏まえて推測をおこなうならば、おおよその復元は可能であるように思われる。プラスター片の多くがキブラ壁に沿った場所から出土し、特に集中して出土したのがモスクの東隅部である。ここから見つかった断片を接合することによって、「Aグループ」と「Bグループ」の2つの装飾画を復元することができたが、「Bグループ」には天井板と接していたことを示す内隅のコーナー片が含まれていた。一方、「Aグループ」にはそのようなコーナー片は含まれず、この点はどちらがキブラ壁の上方に描かれていたかを示唆する重要な手がかりを与えていると考えられる。おそらく壁の上方に描かれていたのは天井際のコーナー片とともに出土した「Bグループ」であり、その下に、復元された木の葉型の植物文様が収まるようにいくらかの間隔をおいて「Aグループ」のモティーフが施されていたと現段階では想定することが可能である。「Bグループ」のモティーフで水平に描かれたローゼット文の上方では、白地が続いていたことが示されており、天井板との間は空白が帯状に残されていたと推察される。
 「Aグループ」と「Bグループ」の出土した深さの違いからはまた、当該部位の崩壊過程をうかがうことができ、「Aグループ」が下層から出土した点、また「Aグループ」と「Bグループ」の出土層の間に堆積が見られる点などから、装飾画は壁の下方から崩れて床上に落ち、ある程度の時間の経過の後に、次いで壁の上方の装飾画が崩落したと指摘することができる。
 さらに、モスクの東隅部から発見された彩画プラスター片は他のものよりも比較的、退色が進んでいないという特徴を持っているが、この点は東隅部の天井は部分的に長く残存したため、他の場所よりも風雨の当たらぬ状況下にあったためと考えることもできるかもしれない。
 以上の考察をもとに、現段階において提示がなされる復元図を図8、図9(カラー図版2)に掲げる。
 
 
図1. クーファ書体の「ヌーン」
 
図2. クーファ書体の「ラー」と推定されるプラスター片
 
図3. 球状を呈する植物文様
 
図4. 「Bグループ」の装飾モティーフ
 
図5. コーナー片
(RB166、RB169の接合による)







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