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第23次ラーヤ・トゥール地域の考古学的調査
川床睦夫
 われわれは、1978年以来、「東西海上交流史の実証的研究」、「エジプト・紅海地域の物質文化研究」、「イスラームの都市生活史研究」を主要課題とし、フスタート遺跡、キーラーニー遺跡、ラーヤ遺跡、アイザーブ遺跡、バーディゥ遺跡などの発掘調査を実施してきた。
 2003年度の調査は、2002年度に引き続き、「海のネットワーク」と「陸のネットワーク」の有機的関係、港機能移動のメカニズムを実証的に研究するための資料を蓄積することを目的とした。
 この目的を達成するために、2003年7月19日から9月16日まで、12月29日から2004年1月10日まで、第23次ラーヤ・トゥール地域の考古学的調査を実施した。港市ラーヤ遺跡の発掘調査(第7次)、ワーディー・アットゥール修道院遺跡の細部発掘調査および形質人類学的調査(第4次)、両遺跡の保存補修作業、第16次調査終了後、中断しているトゥール・キーラーニー遺跡の上に残る近現代家屋の応急保存処理と2004年度の発掘地選定、ナークース山岩壁碑文群調査(第4、5次)、そして出土遺物の整理・研究、モスク壁面の復元作業を実施した。また、調査期間中にポータブル蛍光X線分析装置を用いて、ガラス、コイン、陶器、壁画顔料の組成分析を行った。さらに、出土した木製品、木材の分析、同定、研究を行った。
 港市ラーヤ遺跡の発掘調査では、城塞区の発掘調査を継続すると同時に、居住区の発掘に着手した。城塞区では、中央街路に面する建造物ブロック3と10の発掘に集中し、モスクを中心とする中央街路の様相を明らかにするための資料を収集することを目的とした。居住区では625m2を発掘した。港市ラーヤの全体像を明らかにするためである。
 なお、1987年以降、われわれはトータル・ステーションとコンピューターを用いて層位、出土遺物、出土状況、そして遺構を3次元座標上に記録する方法を採用し、さらに写真測量による遺構平面図、立面図、発掘状況図の作成を実施している。掘りあがった遺構と出土品のみならず、発掘過程をも後世への資料として保存するためである。
 
調査隊員会議記念写真
(2003年6月21日)
前列左から3人目 イスラーム・エジプト調査委員会
名誉委員長 三笠宮崇仁親王殿下
前列左から2人目 同委員長 櫻井清彦
前列左から1人目 調査隊長 川床睦夫
 
 
 ラーヤ遺跡では、城塞区と居住区の発掘調査を実施した(カラー図版1-1、2)。前者は1997年の第1次調査以来、継続して発掘調査を実施してきた約85m四方の発掘区である。2002年の第6次調査までに城塞の概要が明らかとなり、出土する遺物の様相が明らかとなった。これまでの調査研究によると、城塞自体は6世紀頃に建設されたものであると考えられるが、出土品は9世紀以降のものが中心である。
 そこで、ラーヤ遺跡西部の海沿いに広がる居住区の発掘調査を開始した。城塞区はイスラーム化された段階で、それ以前の遺留品が排除された可能性が高いと考えられるが、居住区ではイスラーム化以前の遺物が残されている可能性が高く、上記の年代の差異とラーヤ遺跡全体の性格を明らかにするために重要だからである(図版1〜3)。
 
 城塞区では、1999年の調査におけるモスクの発見以来、モスクの建立時期、モスクが建立された空間の歴史と意味を明らかにすることを調査の目的のひとつとしている。2000年にはモスクの倒壊したミフラーブ(図版6-1、3)を破壊することなく取り上げると同時に、北東壁と南東壁に接する建造物ブロック20を精査した。2001年には、モスクが面する中央街路の性格を明らかにするために、中央街路最奥部(北東端)に位置する建造物ブロック12と南西端に位置する正門部を精査した。さらに、2002年にはモスクを含む街区を確定するために、正門から中央街路、そして建造物ブロック15と18および街路1、4、5を精査した(図版4、24-1)。
 そして、2003年には、中央街路を挟んでモスクと相対する建造物ブロック3と10の一部(図版7、24-2)を精査した。2002年の調査で中央街路を狭めるように張り出したかたちで検出された4つのポーチ状遺構の意味を明らかにし、モスク前面の空間の様相を明らかにすることを目的とした。さらに、城塞の外壁の高さを想定するために、すでに発掘されている北東城壁外の倒壊壁の再実測を行った。
 
城塞外壁
 1998年度に城塞の規模を確認するためのトレンチを設定して精査したところ、城塞北東壁(タワー4と6の間)の外側で倒壊した城塞外壁を検出した。中でも、タワー5とタワー6の間に位置する部屋17-3と17-4の外壁外側の倒壊壁は(図版24-3)、タワー4で検出されたもの(図版24-4)と同様に保存状態が良好なので、例としてあげることとする。検出面では日干レンガを敷き詰めた状況であるが、その下からは厚いサンゴ・ブロックの層が検出される。城塞の外壁は、下部構造はサンゴ・ブロック積、上部構造は内部が日干レンガ積で、外部がサンゴ・ブロック積という構造を持つことが残存する外壁で確認されている。よって、検出された倒壊壁が城塞の外壁であることは明らかである。
 図版5は、部屋17-3、4の外壁外側の倒壊壁の平面図である。これによると、検出された壁の高さは約4.5mである。建造物ブロック17は未発掘なので、発掘を完了したタワー4と5の間の外壁内側に接する部屋7-7の床面から残存する外壁上面までの高さを計測したところ約2.1mであった。すなわち、城塞北東面には6.5m以上の高い壁が立っていたことになる(図版24-5)。城塞は7m台の高まりの上に立っているので、海から見ると、壮観であったと考えられる(図版24-6)。
 なお、この作業はモスクの壁の文字文、植物文、幾何文からなる装飾を含むキブラ面(図版6)の復元研究の一環として着手したが、未完である。因みに、ミフラーブの幅は48.7cm、奥行きは31.8cm、残存するレンガ積は15段で、高さは86.5cmである。ミフラーブが示す方位は東西軸から南に41度18分49秒である(図版25-1〜3)。なお、2004年度もこの作業を継続し、モスクを中心とする復元図を作成するつもりである。
 
中央街路と広場状空間(図版7、8)
 中央街路は、正門第二門扉を出た部分、すなわち起点で2.18mの幅を持ち、モスクの部分では4.47mに広がる。さらに、建造物ブロック20と18の部分では、広場の様相を呈することが、2002年の調査で明らかとなった。また、部屋3-10、3-12、10-1の前ではポーチ状遺構が、それぞれ1.12m、0.99m、そして1.51m、中央街路第3面(図版13)上に張り出しており、部屋3-9では未完成のポーチ状遺構が1.08m張り出していることが明らかとなった(図版25-4)。
 2003年に精査を続行した結果、部屋3-9のポーチ状遺構の南西部が検出され、完成されたポーチ状構築物であったことが分かった。ただし、南西部のレンガは数cmの厚さに磨り減っており、部分的には欠損していた(図版25-5)。
 また、中央街路を挟んで建造物ブロック20および18に相対する部分の発掘を行った。この結果、部屋10-1の北東に砂を主体とする層に覆われた建造物のない空間が確認された(図版25-6)。空間は広大で、12.4m×5.7mであった。この空間と中央街路および建造物ブロック18と20の前の空間、すなわち、建造物ブロック10、1、22、18、20に囲まれる空間を計測すると、12.4m×11.5mの空間となった(図版25-7)。すなわち、モスクに隣接して、広場が形成されていたことが明らかとなった。
 この空間の覆土の状況は中央街路の層序(図版13、25-8)とほぼ同じで、第1層が厚い砂層で、第3層から下が水平堆積している(図版8-3、図版26-1)。また、第3層以下では、ヤギの糞と地床炉の集中が確認された。この広場に多数の人々が集まった状況が想定される(図版26-2)。
 
街路6と街路7
 中央街路とそれに付随する広場状空間の発掘によって、新たに街路6と7が検出された。図版7に見られるように、部屋3-10の南西に街路6、部屋10-6と部屋1-1の間に街路7を検出した。
 中央街路の精査の過程で、部屋3-10と3-7の南西壁に沿って、2m×2.5mのトレンチを設定した。すでに、部屋3-10の南東壁、すなわち中央街路側の外壁が南西方向に伸びていないことは確認済なので、上記2部屋を隔てる壁が南西に向かって続いているか否かを確認するための精査であった。その結果、トレンチの南西端に上記2部屋の南西壁と並行する壁が確認されただけで、北東から南西に走る壁は確認されなかった。部屋3-10と3-7の南西壁とトレンチ内で確認された壁の間隔は2.03mであった。この間隔と第1次調査時に表土を除去して確認された壁の配置を考慮に入れて判断すると、これは中央街路と直交する街路であろうと考え、街路6と命名した(図版26-3)。
 また、中央街路の精査の過程で、部屋10-1の北東に厚い砂の堆積が確認された。これは中央街路の縦断面で確認されていた砂層であるが、予想以上の広がりを持ち、12.4m×5.7mの建造物のない空間を形成した。この空間を精査した結果、北西断面(図版8-1、26-4)で、部屋10-6の北東壁と部屋1-1の南東壁がサンゴ・ブロックで建造されており、2部屋の間に1.76mの間隔が確認された。また、この部分の堆積層が比較的間隔の狭い水平堆積であることが確認された。これらの事実を根拠に、これを中央街路と直交する街路と認定し、街路7と命名した(図版26-5)。
 この結果、中央街路と、街路4と6および街路5と7が若干のずれを持つ十字路を形成していることがわかった。
 
建造物ブロック3と10
 2003年には、中央街路を挟んでモスクに相対する部屋3-8、3-9、3-10、3-12、10-1、そしてこれらの奥にある部屋3-1、3-2、3-7を精査し、詳細に観察した。
 部屋3-10は中央街路に向かってポーチ状遺構のある出入り口を持つ。1.51m幅の出入り口の南西部にはアラバスター製礎石が置かれ、直径23cmのアラバスター製円柱が立てられていた(図版26-6)。北東側にも同じ礎石が置かれていたことが石灰岩小塊を用いて作った基礎部の存在から明らかであるが、発掘時には失われてしまっていた。部屋の南西壁は破壊されており、北東壁南東部には部屋3-9への出入り口が作られ、後に塞がれた痕跡が明瞭である。また、部屋の奥には0.81/0.82m×0.90/1.00mの小部屋が設けられていた(図版26-7、8)。
 部屋3-9は中央街路に向かってポーチ状遺構のある出入り口を持つ。2.55/2.54m×3.27/3.21mの部屋の南東壁北東部には1.00m幅の出入り口があり、3.28m×1.08mのポーチ状遺構がある。壁の積み方は概して粗雑であるが、特に北東壁と南東壁が粗悪である(図版27-1)。
 部屋3-8はA(3.55/3.56m×1.65/1.69m)とB(2.16/2.15m×3.30m)に分けられる。Aは南東壁南西部に、Bは南東壁北東部に、それぞれ1.00m、1.07mの出入り口(敷居板が設置されている)を持つが、共にポーチ状遺構は確認されなかった(図版27-2)。2部屋の間仕切り壁と南東壁は極めて劣悪な積み方であった(図版27-3、4)。部屋3-8Bの南コーナーでは2連のかまどであろうと考えられる遺構が発見された(図版27-5)。なお、部屋3-8Bからは多数の彩色プラスターが発見された(図版27-6)。モスクのキブラ面(南東壁)復元作業の過程で、部屋3-8Bのプラスターとモスク内部出土のプラスターが接合され得ることが分かった。すなわち、モスク壁面のブラスターが剥がされてこの部屋に捨てられたことが明らかとなった。
 部屋3-12は4.26/4.17m×2.13/2.23mの部屋で、奥の方でレンガ半枚幅の壁でAとBに仕切られている。出入り口は粗悪な積み方の南東壁北東部に設けられ、外には2.29m×1.51/1.42mのポーチ状遺構が確認された(図版27-7)。この部屋の南西壁と北東壁は共に後付けの壁である。なお、この部屋の出入り口近くでも多数のプラスター片が発見された(図版27-8)。
 部屋10-1は3.40/3.34m×2.55/2.47mで、南東壁の北東部に敷居板が設置された出入り口がある(図版28-1)。外には2.19m×1.51/1.42mのポーチ状遺構があり、その北端には直径22cmのナツメヤシ製門柱が立っている(図版28-2、3)。この部屋のレンガの積み方は、中央街路に面する他の部屋(部屋3-8〜10、3-12)に比べると良好であるが、南西壁と北東壁は後付けである。なお、この部屋からも多数のプラスター片が発見された(図版28-4)。この部屋の奥には奥行き90cmの日干レンガ積遺構がある(図版28-5)。ただし、2003年度は、この遺構を精査しなかった。
 部屋3-2は部屋3-12の北西に続く部屋である。部屋3-12との間に間仕切り壁のない3.84/3.43m×3.57/3.40mの歪な部屋である(図版28-6)。この部屋の出入り口は南東面にあるが、この部屋は改築の結果、歪な空間になったものと考えられる。この部屋からは、天井の梁と梁の上に敷き詰められたナツメヤシの枝や葉を編んで作ったムシロなどの屋根材が崩落した状態(図版28-7)で発掘された。また、北西壁北東部や南西壁南東部では壁の上塗りと下塗りが確認された。下塗りは荒々しいヘラの圧痕を付けたものである(図版28-8)。上塗り剤が下塗りにより密着するように工夫されている。
 部屋3-1は、部屋3-8の北西に位置する部屋で、3.33/3.36m×3.71/4.28mという歪な部屋である(図版29-1)。部屋の東側3分の1ほどのところにレンガ半枚幅の間仕切り(図版29-2)があり、この間仕切り部のほぼ中央でさらに2つの部分に仕切られている。北西部の1.12m×1.74/1.67mの空間の南東間仕切り壁に接するところには奥行き39cmのベンチ状遺構が確認された(図版29-3)。この部屋からは登録遺物808点が出土した(図版29-4)。城塞区総登録遺物の33%に相当する。
 この部屋のレンガ積は良好で、南西壁北西部に出入り口がある。この部屋では、北コーナー部分(3-1C)の基礎部にサンゴ・ブロックが用いられている。また、北東壁と南東壁北東部に屋根材が確認された。この屋根材は日よけ程度のもので、壁に等間隔にナツメヤシの枝を差し込み、その上にナツメヤシの葉で編んだムシロをかけている。高さは北(1.69m)から南(1.50m)に傾斜している。この高さから判断すると、屋根であると考えるより、間仕切り部の庇と考える方が妥当かもしれない(図版9-1〜4)。
 部屋3-7は4.05/4.06m×2.31/2.26mの細長い部屋である(図版29-5)。南西壁南東部に0.95m幅の出入り口がある。そのすぐ北西側には約1.20m×1.35mの仕切られた空間があり、その中の西コーナーに直径約75cmの4分の1半球状の遺構がある。タンドール型かまの可能性が高い(図版29-6)。また、北東部には奥行き0.83/0.98mの間仕切り部がある。間仕切り壁はレンガ半枚の幅で、中央部は欠損している。この部屋のレンガの積み方も良好で、南東壁には物置用の壁龕が設けられている。これは床面上52cmが最下部で、間口20cm、高さ25cm、奥行き23cmである。壁龕の上部はアーチ状に仕上げられている(図版29-7)。
 この部屋では、ほぼ全面的に壁面の仕上げ面が残っている。セメント・モルタルを下塗りにし、その上に泥モルタルを塗っている。
 ここで、発掘データを整理・検討すると、中央街路側の部屋のレンガ積が粗悪で、その北西側の部屋ではレンガ積が良好であることが明らかとなった。また、ポーチ状の遺構が中央街路の第3面の上に構築されていることも明らかである。さらに、中央街路に面する部屋の粗悪な壁が部屋3-2、3-1、3-7の南東壁に後付けされている状況が明瞭となった。
 上記の観察から判断すると、中央街路に面するこれらの部屋はモスク建立当初には存在せず、モスク前面に約9mの広場があり、その先に約12.5m×11.5mの広場が続いていたと考えられる(図版29-8、30-1)。その後、モスクが破壊される以前に粗悪な建造物がモスクの前の広い空間を潰して建造され、モスク破壊の時期、またはそれ以降まで使われたことが明らかとなった(図版30-2)。
 なお、保存処理作業は東門を含む城塞外壁南東面、部屋3-10門柱基礎部および出入り口敷居板、部屋10-1門柱などに施された。







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