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IV章 十和田湖におけるヒメマスの移殖・放流の歴史と現状
1)移殖
 十和田湖に初めてヒメマスが放流されたのは明治36年(1903年)1)である。その前年の明治35年に支笏湖で採卵したヒメマス卵3万粒1)、2)を和井内貞行が十和田湖で人工ふ化して放流したものである。この魚が明治38年(1905年)の秋に産卵回帰したことでヒメマスの移殖の成功が広く世間に知られることになった1)、3)。このことは明治39年度秋田県水産試験場報告の十和田湖鱒ふ化に関する調査の中に「三十八年ニ至リ魚トシテ捕獲スルニ至レリ秋期ノ如キハ先ニ放流セルモノ親魚トナリ産卵ノタメ湖ニ注入スル小河ノ近傍ニ陸続群ヲナシ回遊ス」と記載されている。「われ幻の魚を見たり」の言葉で世に知られることになった和井内貞行の感動的な場面を彷彿とさせる記録でもある。
 それ以降今日までに十和田湖にはヒメマスが20回、ベニザケが4回2)移殖されている。一方、十和田湖のヒメマス卵は外の湖にも多数移殖されていて、移殖が行われた年だけでも水産庁十和田湖ふ化場が発足した昭和27年(1952年)以降の51年間に19年もあり、支笏湖や中禅寺湖と共に全国各地へのヒメマス卵の供給基地の役割を果たしてきた。その中禅寺湖も、明治39年に十和田湖から移殖したヒメマス卵40万粒によってヒメマスが生息するようになった2)
 
 十和田湖ふ化場は明治37年(1904年)に和井内貞行によって設立されたが、昭和27年(1952年)水産庁がその施設を借り受けて水産庁十和田湖ふ化場として発足した。昭和35年(1960年)に水産庁十和田湖ふ化場が廃止になって、同ふ化場は秋田・青森両県による十和田湖ふ化場協議会に移管されたが、昭和61年(1986年)には十和田湖増殖漁業協同組合に移管されて今日に至っている。
 昭和27年以降のヒメマスの漁獲量、親魚採捕尾数、採卵数、放流尾数についてはいろいろな形で記録が残されているが、これをまとめたものが付表2、3、4である。しかし、十和田湖の漁業権が個人免許であった昭和26年以前については公的な記録は残っていない。関連したものとして、昭和25年の中央漁業審議会の提出された資料に添付された「十和田湖和井内養魚場における姫鱒養殖実績」3)があるが、不明部分が多い3)、4)こともあり、ここでは資料の存在を示すにとどめる。図4-2-1は昭和27年以降の回帰親魚数の推移を示したものである。
 
 
 ヒメマスの人工ふ化放流が始まって100年も経過しているというのに親魚の回帰尾数は不安定で年によって大きく変動していることが判る。最も多いのが平成10年(1998年)の85,000尾だが、この年は9月下旬からふ化場の排水路に大量に遡上し、蓄養池に収容しきれない親魚が水路に真っ黒になって群がっていたという。採卵に使用した魚は雌1,506尾、雄14,556尾で、残りの6万尾については採卵に使用しないまま販売している5)。この外に湖内各所にある沢に集まった多数の親魚が遊漁者に捕獲されているので実際の尾数はさらに多いと思われる。一方、最少記録は昭和43年(1968年)の106尾で、この時は雌が59尾、雄が47尾だった。この年の親魚数と比較すると平成10年(1998年)の85,000尾は800倍にあたり、年による変動がいかに大きいかが判る。変動が大きいだけに平均親魚数を計算してもあまり参考にならないが、記録のある51年間の年平均は7,800尾である。
 平成12年(2000年)に産卵親魚が極度の不漁になり前年の1/9の1,312尾にまで激減したが、親魚の不漁はその後も続いて、平成13年(2001年)2,346尾、平成14年(2002年)1,132尾になった。
 十和田湖という限られた環境の中に生息するヒメマスであるが、明らかになっていないことが意外に多いのである。
 その一つが産卵親魚の捕獲記録に雌が多いということである。昭和27年(1952年)から平成14年(2002年)までの51年間で雌が多い年が80%以上の42回あり、そのうち雌が雄の尾数の1.5倍以上の年が30回もある。稚魚では雌雄の割合が1:1なので、何が原因でその様な結果になっているのか極めて興味深い現象である。このような産卵親魚に雌が多い現象は中禅寺湖や支笏湖のヒメマスでも観察されていて興味深い。
 親魚が少ないと総採卵数も少なくなる。つまり、回帰親魚数の変動が問題なのは翌年春の稚魚の放流尾数に影響するためである。図4-2-2は十和田湖の毎年の採卵数を示したものであるが、回帰親魚数が変動するので採卵数も年によって大きく変動している。最も多いのが昭和58年(1983年)の567万粒で、次いで昭和59年(1984年)563万粒、昭和37年(1962年)558万粒、昭和38年(1963年)の554万粒、昭和36年(1961年)の525万粒の順になる。一方最少は昭和43年(1968年)の2万粒である。51年間の平均176万粒と比べても極端に少ないことが判る。この昭和43年には中禅寺湖から50万粒を移殖して補充している。しかし、これまで全国に多数のヒメマス卵を供給してきた中禅寺湖や支笏湖も、十和田湖と同じように毎年の回帰親魚数はかなり変動しているので、外に卵を供給できない年も多い。
 
 
 このような回帰親魚の不漁の時に備えて始まったのが池産親魚による種苗生産である。十和田湖ふ化場では昭和42年(1967年)から実施しているが、当初は生残率が著しく低く、飼育魚が全滅することも珍しくなかった。しかし、池中飼育で生き残った親魚の子を親に育てることに成功して以来生残率が飛躍的に向上し、昭和50年(1975年)に生後3年目の親魚35尾から2万5千粒を採卵することに成功した。そして翌年の6月にその稚魚が初めて十和田湖に放流された。8年間に亘る努力が実った画期的な成果も、回帰親魚の豊漁が続いていたこともあって華やかなデビューにはならなかったが、昭和61年(1986年)に257万粒、昭和62年(1987年)には池産の種苗としては最多記録の371万粒、昭和63年(1988年)273万粒、平成元年(1989年)126万粒を生産して、池産親魚による種苗生産を軌道に載せることに成功した。特に昭和62年と63年は湖産魚の卵がそれぞれ18万粒と15万粒しか採卵できないという状況下にあったので、池産親魚による種苗生産の重要性を強く印象づけることが出来た。その後平成6年(1994年)94万粒、平成7年(1995年)96万粒を生産したが、湖産親魚の卵だけで間に合う状態が続いたために、十和田湖増殖漁協は平成9年限りで養殖親魚の飼育を中止した。平成12年(2000年)になって回帰親魚が激減して平成12年の採卵数がわずか31万粒になり、その後も平成13年(2001年)27万粒、平成14年(2002年)26万粒と少ない状態が続いたが、既に池産親魚の飼育を中止していたので池産の稚魚で補うことは出来なかった。







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