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解剖学実習を終えて
奥羽大学歯学部 細谷 尚史
 
 「今日も我々の歯科医療の理解と習熟のためにこのご遺体を観察する機会を与えてくださった個人並びにご遺族の方々に限りない感謝を捧げます」。
 この一文は私が解剖学実習を始める前に行なう黙祷の時に必ず心の中で呟く一文です。そして、限られた時間の中で、効率よく確実にこの機会を生かそうと心に誓い実習を始めるのです。解剖学の実習に先立って、2学年の前期から解剖学の講義が始まり、後期において前期から前回までの講義で習った知識を生かして実際に遺体に対してメスを入れるのです。これにより必要な知識を体に覚えさせ、後の歯科医師となるための学習に役立てていくことをこの実習は意図としています。だから、この実習で実際に人体を観察できる事は大変重要な経験であり、毎回の実習で確実に知識の習得を行なう事はもはや義務であるとも思いました。
 しかし、実際に実習を開始してみると、今まで人の体について、教科書や参考書、講義を通して頭で理解していたつもりが、実際に解剖を行なってみると、特定の器官の存在を確認できなかったり、脈管、神経の剖出時に、それらが思ったより細かったなど実際に解剖しなければ分からない物事がかなり多いことに驚きを覚えずにはいられませんでした。
 この遺体の解剖を通して、実際と机上との差異を改めて痛感させられると共に、人の体の構造という物がどんなに複雑な物であるかを知り、これからなるであろう歯科医師としての臨床がいかに難しい物であるかを痛感させられました。
 最後に、このような貴重な体験をさせていただくためにご遺体を提供していただいた故人と家族の皆様方に改めて心からの感謝の意を表すると共に、献体となられた故人のご冥福を心から御祷り申し上げます。
 
岩手医科大学 洞口 潔
 
 二年に進級し、教養部の一年の時とは違い医学的な講義がほとんどでその中に解剖学というものが入ってきました。初め『解剖』ときいただけで抵抗感がありましたが、それに加え好奇心というものも芽生えてきました。しかし、いざご遺体を目の前にすると、やはり抵抗感があり、ご遺体に触れるまで時間がかかりました。しかし、徐々に触れることにも慣れていき、抵抗感も少なくなっていきました。そして初めて解剖をしたときに感じた事は、まず脂肪がほんとうに様々な所に存在しているという事です。普段何気なく『脂肪』という言葉を使っていたが、こんなにも至る所に存在しているとは驚きでした。それと神経と繊維の見分け方が初めは全然出来ず、しばしば誤って切ってしまう事もありました。それともう一つ実感した事は、解剖するのに非常に神経を使い、正直、初めは疲れがたまって解剖には自分の技術の向上も考えなければならないが、体力をつけるのも重要なことなのかなと思いました。そして解剖にも慣れていき、神経、動脈、静脈をやっと見分けられるようになってきたころ、改めて、「人間の身体ってこんな風になっているのか」と実感しました。初めはただやみくもに神経を探し、動脈を探し「どこになにがあるか」などとしか考えていなかったのが、慣れていくにつれ「神経がどの筋にいっているのか」、また「この血管はどこからきてどこにいくのか」ということまで考えるようになっていき、そしてそれが本当に大切なことである事を実感しました。それに初めは生理学・第二解剖・生化学と別々に考えていたのが、すべて解剖とつながっているのだということも実感しました。また、腋窩や腎臓のスケッチの課題が与えられ、最初は「何で、こんな事しなければならないのか」「今まで通り解剖だけしててはだめなのか」と思いました。そして、提出期限に追われ、休みの日も学校にきて、スケッチをしては先生に直され、本当に嫌になっていました。しかし終えてみると、苦労したのと比例してものすごく知識がいつのまにか身に付いていました。スケッチをしているうちに「どの神経がどの筋へいき、どこに入っているのか」、また「どの静脈がどの動脈の上を通っているか」など様々な知識がスケッチをすることにより、理解できるようになり、普段ただ解剖しているだけでは絶対見落とすような事も身に付き、スケッチをすることの重要性を感じました。
 最後に、解剖学実習を終えて感じたことは、今まで自分が人体で考えていた知識と実際解剖をしてみてわかった事に相当違いが存在したことです。そして自分たちにこのような知識を与えて下さったご遺体、またその遺族の方々、そして見守って様々な指導をして下さった先生方に改めて感謝し、これからの勉学に役立てるようがんばっていきたいと思います。人を解剖するという行為は、おそらく我々医学部学生など特別な人にしかできない事であり、人生一度の非常に貴重な経験をさせていただき本当にこの経験をいかしていきたいと思います。前期の間ではありましたが、本当にありがとうございました。
 
宮崎大学医学部 真部 建郎
 
 火葬の日、ぼくは班員の人と会話をしながら、祖父の葬式のことをぼんやりと思い出していた。
 もう、何年前のことになるかわからないが、祖父は死んだ。
 祖父は教員をしていて、厳格で、たまにしか会うことはなかった。でも、ぼくが遊びに行くと、とてもうれしそうな顔をしてお小遣いをくれたり囲碁を教えてくれたりした。囲碁を教える祖父はやっぱり厳格で少し怖かったがそれでも、やっぱりうれしそうで、子供心にぼくもうれしくなったりしていた。
 その祖父が闘病の末に死んだ、
 祖父はびっくりするほど痩せていて、鼻に綿を詰め体を曲げて窮屈そうに御棺に体を納めていた。その祖父の御棺の横で一晩を過ごし、翌日に火葬場にいった。そして御棺が火葬する場所に納められたとき、初めて、とても強く、祖父がもう帰ってこないということを感じた。父もそうだったらしくそのとき初めて、そして現在に至るまでで唯一、父が泣いているのを見た。火葬が終わり、お骨を拾うときもその感情はとまらず、なにかすごく小さくなってしまった祖父の骨を見て茫然となっていた。
 火葬というのは祖父の死を受け入れるためにすごく重要な儀式だった。家族が集まり、本当の意味で最後のお別れをする場所だった。それを、ぼくたち班員が行っている。
 最後に御遺体を送り出すものとしてぼくはふさわしいのだろうか。
 班員の人と会話しながら、御遺体と向かいあってきたこの約四ヶ月のことを一つ一つ頭に思い浮かべていた。ぼくは御遺体にメスを入れ、他では見ることのできないものを見、他では経験することのできないことを学ばせてもらった。
 今までどうしてもわからなかった臓器の位置関係、神経の走行、それが実物をみることで、すっと納得するところがたくさんあった。それはまるで故人の方に教えていただいているようだった。この解剖は故人の御意志、それから御遺族の方の御協力をいただいてはじめてできたことである。医学教育のため、献体という選択をされた故人の御意志。その御厚意にこたえるほどの努力をしてきただろうか。
 御遺族の方の気持ち、そして故人の方の気持ち、それに思いをはせるたびにぼくは重い重い気持ちになる。本当にぼくはこの気持ちにこたえられているのか。
 今のぼくは本当に無力である。医師として患者さんの病気を治すお手伝いをできるようになるまでは程遠い。そのぼくにこのような機会を与えてくれた故人の方、そして大切な最後の別れを先送りして、ぼくたちにこのような機会を与えてくれた御遺族の方。今ぼく自身はその気持ちにこたえられているとは言えない。
 ぼくにできることはこれからも、その気持ちを忘れずに努力することだと思う。そうすれば、いつか、御遺族の方の御厚意をそして故人の方の御遺志にこたえてきちんとがんばってますよと言える日が来るかもしれない。その日が来るように、一つ一つ、努力を積み重ねていきたいと思う。
 
聖マリアンナ医科大学 水越 慶
 
 一般教養を中心に学んだ一年次に比べ、二年次はとても充実した時間が駆け足で過ぎ去っていった。それは、本格的に基礎医学、臨床医学を学び始めたからであり、その基本となるのが解剖学と言えるだろう。
 「解剖学を通して、何を学ぶのであろうか」。解剖学を初めて受講した際に、ふと考えた。医学を学ぶ上で必要となる人体の形態や構造を理解することが全目的なのだろうか。次の瞬間、頭に浮かんだのが建学の精神であった。それは、キリスト教的人類愛に根ざす「生命の尊厳」を基調とする医師、人類社会に奉仕する医師、研究成果を福祉に活かす医師の育成といった内容である。また、医学とは人体のみでなく人間そのものを治すことであり、そのために、命ある者を思いやる人間性を培い、温かい人類愛に根ざした「医のこころ」を持てるように私たちは日々学習してるとも言えるだろう。ここで重要になるのが、自分で考え続けることだと私は思う。生物についての疑問は、最終的に「生死」についての疑問につながると最近思い始めた。このテーマに共通の結論は出ないだろうし、だからこそ自らの考えが重要になってくる。御遺体を前にして生命の尊厳や医の倫理について考えさせられる解剖学こそ、私達の目指す医師像の基盤であると確信したい。医師となるためには、この先数多くの学問を学んでいくが、実際に接する最初の患者さんは御遺体であるということに皆変わりない。時間が経つにつれ、このことを忘れていくのではなく、大切に思えるような人間でありたい。
 御遺体解剖実習の初日の講義において、平田教授が言われた一文に、それまで感じたことのない感情が体中に満ちあふれ、私の中の何かが醒めたような気になったのを今でも覚えている。
 ―御遺体こそ最上の教師である―
 この一文は、平田教授がそれまでに幾度となく繰り返した英語やラテン語よりも重たく私の心に響いた。もちろん、講義あっての実習であるが、実習を重ねるうちに御遺体が私達を学習に導くかのように様々な疑問が生じた。その疑問について考えたり調べたり、先生に聞くことで解決した、と思えた直後にまた新たな疑問が生じるといった流れで、知識が深まり、自学自習の精神にもつながっていた。
 文章では表せない程、深く、多くのことを教えていただいた最上の教師である御遺体に心から御礼と尊敬の思いを持ち続け、これからの学習に励みたいと思う。
 
獨協医科大学 水沼 寛代
 
 いつから私は人を疑うことを覚えてしまったのだろう。言葉の裏を読まなくては、読まなくてはと必死になり、決まってそのあとは、むなしい気持ちになるのだ。結局どうしたって人の気持ちは見えないのだから、私がどこまで信じることが出来るか、ということではないか、とも思いながら、それでも直らないこの疑い癖に自分自身で嫌気がさしていた時期に解剖実習は始まった。ある日ふと、実習中、このご遺体の方々は、私達が実習をさせていただいていることを見届けることはできないのだな・・・、と思った。それは仕方のないことだし、至極当然のように思える。けれど、自分の日常生活と照らし合わせた時、見届けることができないものを信じるということは強烈な不安感を伴うものだ。私が何か、ひとつの物事を信じようとするのは、うまく言えないが、今は答えがでなくても、いずれは出るからだ。決して見届けることが出来ないものを信じようと思った時、私達は、急速に信じる力を奪われてしまうのではないだろうか。しかし、今献体されているご遺体の方々はその力を持っていた。そして、私達はまさに信じられているのだ。そう思った時から、なんだか今までより周りの景色が明るく見えてしょうがない。わざとらしいと思われるかも知れないが、本当だから仕方がない。正直、実習がつらい時もあった。それでもやめたいとは思わなかったのは、この尊い心意気に気付く事ができたからだ。その思いに応えたいと思うのだ。そういうことか、と思った。自分が信じている事が伝わり、はじめて相手もその思いに応えようとしてくれるのだ。自分からは何も与えず、与えてもらう事ばかり考えていた自分に気付いた。だから、私にとって解剖実習は見えないものを、見えない気持ちを信じる事の意味を教えてくれた実習だ。
 今の私の口癖は、「人生って素晴らしいよ」である。







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