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解剖実習を終えて
―ご遺体と交わした約束
千葉大学医学部 梅舟 仰胤
 
 「ついに解剖実習が始まるのか・・・」
 解剖実習オリエンテーションが始まると、僕の頭の中はとたんに色々な思いが交錯し始めた。思えば入学してからの二年間、基礎医学生命科学をはじめとした一連の医学と関連したカリキュラムも組まれていたが、正直自分は医学部にいるということを強く認識することはあまりなかった。そのせいか、医師を志すというモチベーションもそんなに高いレベルにあったとは言えなかった。そんな僕が、今急速に「自分は医学部に来たのだ」という感覚の洪水に飲み込まれそうになっていた。白菊会の方々や、森先生、門田先生の話を聞くにつれて、その洪水の勢いは増していった。
 オリエンテーション終了後、いざ解剖実習室に足を踏み入れてみると、実習台に横たわる多数の御遺体の姿が目に入ってきた。意外にも、さほど驚きを覚えることはなかった。その代わり、その光景を見るや否や、目の前に横たわる御遺体に対する感謝と畏敬の念と、これから二ヶ月間しっかりと勉強させていただこうという強い意気込みが体中に沸き起こった。少しでも医学生の役に立てたらという思いから、無償でご自分の体を提供してくださった白菊会の方々の気持ちに応えるべく、この二ヶ月間精一杯御遺体にお世話になって、隅から隅まで勉強し尽くそう! そんな気持ちで僕の胸は埋め尽くされていた。
 実習そのものは正直かなりハードなものであった。まず、事前に予習をしないと実習の効率が激しく落ちるので、前日にアトラス、教科書、手引書を机に広げ、しっかりと予習をする必要があった。これが予想以上に時間がかかる。実習そのものは手引書に沿って作業を進めていき、種々の構造物を同定していくわけだが、これがまた手引書や教科書通りにいくことは少なく、かなりの時間と労力を消費する。3限から始まり、遅いときは夜までかかるので、肉体的にも精神的にも疲労が激しい。それでも、時間をかけて目標物が剖出できた時の喜びは何にも換えがたいものがあり、ささやかな感動すら覚える。また、アトラスや教科書などでの勉強は、どうしても平面上という制約がついて回るため、なかなか実際の三次元的イメージが湧かないことも多々あるのだが、実習では好きな角度から好きなだけ実物を三次元的に観察することができ、人体構造の理解に多いに役に立ったということは言うまでもない。
 実習後半からは医療系専門学校、看護学校の生徒さんの見学も始まったが、僕はこれを非常に有意義に感じた。自分の持っているありったけの知識をフルに駆使して、具体例などを交えながらできる限り分かりやすく他人に説明することで、自分の頭の中に断片的なものとして入っていた知識が有機的に結びつき、再構築されるのは、僕自身にとってかなりプラスになった。さらに、自分では気づかなかったような点を、見学に来た生徒さんに質問され指摘されることで、自分の理解が不十分である所が浮き彫りとなり、その後の勉強に多いに役に立った。また、適当なことを言ってしまうと、見学に来た学生さんがそれをそのまま鵜呑みにしてしまうので、実習の予習も丁寧にするようになった。一つ気付いた事としては、一般の素人さんは専門知識を持った人の言うことをいとも簡単に鵜呑みにしてしまうということだ。それは医学的な専門知識を持った医学生、ドクターの場合ももちろん同様である。ゆえに、当然それなりに責任ある発言をしなければならないということを実感した。
 実習も残すところあと数回となってくると、あれだけ早く終わってほしいと思っていた実習初期の、気持ちが嘘であるかのように、実習が終わってしまうことが寂しく感じられた。確かに精神的にも肉体的にもかなりのエネルギーを消費する解剖実習が終わることに対する開放感はあったが、それと同時に今までお世話になってきた御遺体との別れの時期が近づきつつあるということが少しばかり寂しかった。実習をしていくうちに、無意識に御遺体に対する「愛着」が湧いてきたからであろう。というのも、それぞれの御遺体は画一的なものではなく、御遺体の数だけ異なった特徴、様相を示す。それゆえに、自分が剖出した筋、神経、構造物の一個一個に自ずと愛着が湧いてくるというわけだ。そしてそれが最終的には、御遺体という一個人に対する愛着となって現れるのであろう。黙祷に対する姿勢の変化にも同様のことが言える。実習の初期は少なからず形式的に捧げていた面もあったが、終盤に近づくほどに、「今日も色々と教えていただき、有難うございました」という自然な気持ちで黙祷に臨めるようになった。
 御遺体と最後のご対面となる納棺の日は、不思議とすがすがしい気持ちであった。この二ヶ月間、自分なりに頑張って実習に臨んできたことに対する達成感と、そのような学習の場を無償で提供してくださった御遺体に対する感謝と畏敬の念とが、すがすがしさを生み出していた。実習室の清掃などの作業にも自ずと力が入った。最後に棺に献花する場面では、棺に横たわる「先生」に対して「二ヶ月間お世話になりました。あなたは教科書では得られない多くの知識を教えてくれたかけがえのない先生です。これからも一生懸命勉強に励み、患者さんに信頼されるような良い医者になれるよう頑張ります」と語りかけた。そして、気のせいか、御遺体が、「頑張って良いお医者さんになってね。約束だよ」と僕に向って語りかけ、背中を押してくれたような気がした。
 医者は、無知であることが罪となる職業である。そのことを心に常に留め、今回の実習で得た知識をベースとして、今後も勉強に打ち込んでいきたい。御遺体との約束を果たすためにも。
 最後に、実習がスムーズに進むように色々準備をしてくださったり、実習中に僕たちの質問に丁寧に答えてくれた教官の方々、分からないところを教えあったり、辛いときに励ましあったりした友人にも感謝の意を表したい。多くの人々に支えられて、今こうして自分が勉強できる環境が整っていることを、一秒たりとも忘れないでいきたい。
 
大分大学医学部 江藤 潤也
 
 解剖が始まる前、私は亡くなった方ではあるとはいえ人体にメスを入れることができるのか正直不安でした。そして頭の中では整理をしたつもりで解剖初日にいどみました。しかし実際に解剖室に入ってご遺体を目の前にすると、メスを入れることが怖くてなかなかできませんでした。そしてやっとの思いでメスを入れたあの時の気持ちは何とも表現し難いものでした。その後、毎日解剖を繰り返していくうちに徐々にメスを入れることには慣れてはいきましたが、一方ではこの方はどのような気持ちで献体してくださったのか、自分はその方の意思に報いるだけの解剖をできているのかということが最後まで頭をはなれませんでした。解剖を終えた今でも、私は献体してくださった方の気持ちに十分報いることができたのかは分かりませんが、これまでにないくらい多くのことを実際に自分の目で学ぶことができました。そしてこれから献体してくださった方に納得していただけるような医師になれるように感謝の気持ちを決して忘れることなく努力していこうと強く思いました。
 
防衛医科大学校 太枝 美帆
 
 「解剖実習中なんだ」と数人の知人に話をした事がある。皆、「ふうん、大変だね」と言い、少し話が進むと、「で、何の解剖をしているの?」と尋ねてくる。やはり、一般の人にとって、人間の体を解剖するというのは、なかなか想像し難いものなのだろう。医学生である自分でさえ、実習が開始される前は、自分が人の解剖をする事へのためらいや恐れを感じ、実習ができるのか不安であった。
 緊張して御遺体と対面したのだが、その不安は実習中の数々の感動を前にしては、さほどの大きさではなかった。血管、神経、筋の走行など、これまで教科書で学んではいたが、実際もほとんど同様の物が剖出された。それは当たり前なのではあるが、改めて、人間という生き物が長い進化の歴史を経て、こんなにも複雑な構造を持ち、機能させているという神秘に驚いた。そして、その神秘に畏敬の念を抱いた。
 そのような感動があり、また一回一回のテーマを理解し剖出するのに一所懸命で、時に、自分が触れている御遺体が、生前は自分と同じように泣いたり笑ったりしていたことを忘れることもあった。解剖実習を終えた今、それを大変申し訳なく思う。私にとって、この実習は医学を学ぶ上で貴重なものであると同時に、初めて自分が医師になるのだと強く実感させられるものでもあった。全ては、献体者の方々の崇高な御意志によるものである。我々は、医師になるのであるが、決して自分一人の努力により達成されるのではない。たくさんの人々の支えがあり、医師として働くことができるのである。
 私は、医師になる上で得た感動や、周囲の支えへの感謝の気持ちを医師になってもしっかりと持ち続けたいと思っている。
 
秋田大学医学部 大友めぐみ
 
 約3ヶ月間の解剖学実習が終わりました。4月7日、初めて御遺体にお会いしてからの3ヶ月は、とても短い期間だったように思います。生活の中心であった解剖学実習が終わった今、実習前とは様々なことに対する意識や考え方が変わっている自分に気付いています。また御遺体から、これから私が医師を目指す上で大切な何かを頂いたと感じています。
 実習日初日の朝、私は緊張と不安を抱いていました。解剖するということに対する覚悟はしていたはずでしたが、実際に家族以外の人の死と対面するということに戸惑っていました。実習室に入り、最初の黙祷をし、御遺体の御顔を拝見しました。御遺体の優しそうな御顔は私の不安を少しずつ取り除いてくださりました。そして、人の死との対面という思いを抱いていた自分がとても恥ずかしくなりました。献体してくださった方はお亡くなりになっていました。しかし、同時に生きていらっしゃいました。御名前、御年齢、病歴を教えて頂き、実際に御体を拝見させて頂くうちに、その思いはより強くなっていきました。生前の御姿を想像しながら、御遺体から多くのことを教えて頂きました。
 毎日の実習の中では人体の構造、仕組みの素晴らしさに感動しました。これまで教科書でしか見たことがなかった構造も、実際に拝見することでより鮮明なイメージとなりました。特に心臓を解剖させて頂いた時は、人が生きるということの重みを感じました。人体の構造、仕組みに感激すると同時に、それを解明していくという側面を持つ医学の面白さを感じました。
 解剖実習も終盤に差し掛ったころ白菊会総会に参加させて頂き、将来献体を御希望なさっている方々とお話をさせて頂く機会がありました。隣に座ったのは、十数年の間ほぼ毎年総会に参加しているという方でした。お帰りになる際、毎年総会で出された箸袋を記念に持ち帰っているということを話してくださいました。私は会話の中で、医学に役立ててほしいというその方の強い思いを感じました。また、私が解剖させて頂いた方も同じ思いでいらっしゃったのだろうと思いました。果たして今まで全力で勉強できていただろうか、自分に甘えてはいないだろうかと考え自分が情けなくなることもありました。しかし白菊会総会でお話しした後、できるだけ多くのことを教えて頂こうと改めて思い実習に臨みました。
 解剖学実習が終わり、最後の黙祷をした今、御献体をしてくださった方、そして御遺族の方には感謝の気持ちでいっぱいです。これから勉強していく中で思い出されるのは、今回解剖をさせて頂き多くのことを教えて頂いた方であり、御体であると思います。解剖学実習を生かして硬張っていきたいと思います。御献体をしてくださった方と御遺族の方々、先生方、班員やクラスの人達、どうもありがとうございました。
 
―遺骨返還式に思う
大阪市立大学医学部 大野 剛史
 
 解剖学実習を終え、先日無事遺骨返還式を迎えることができた。式には小さなお子様も見え、「ああ、きっとこの子が生まれた時には、我々が解剖した御霊も大喜びされただろうな」と考えたり、ご遺骨の返還の際に涙を流されたご遺族を見て、私も思わず涙を浮かべたりした。
 御霊をはじめご遺族のご好意から成り立つ解剖学実習の意義を二つ挙げてみようと思う。
 一つ目は、医学部長も遺骨返還式で話されていたように、そのインパクトである。医学部長は、四十数年前に実習に臨んだとのことであるが、今でも神経脈管の走行や筋の起始停止等が目に浮かんでくるのであろう。それほど我々の視覚に訴えるものは大きい。また、本やコンピュータグラフィックなどでは正確に再現することは不可能である。二つ目は、医学生として最初に出会うことのできる「人の尊厳」であるという点だ。そういう意味で医学生は、解剖学実習を介して初めて人の暖かみに触れ、かつ自分が相手にするのは化学物質でも数式でもなく「人間」なのだという自覚に立たされるのである。







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