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1998/03/29 産経新聞朝刊
【一筆多論】論説委員 飯田浩史 注目される林被告判決
 
 死者十二人、五千五百人以上の重軽傷者を出した「地下鉄サリン事件」の実行犯の一人として起訴された元オウム真理教幹部、林郁夫被告(五一)の求刑が、異例の無期懲役だったことで「結果の重大性を軽視している」など検察側の論告の妥当性をめぐって論議が起きている。
 わたし個人は死刑制度存続論者で、常識や判例に従えば死刑求刑が妥当と考えるが、「極刑をもって臨むには躊躇(ちゅうちょ)せざるを得ない」という検察側の量刑事情には理解できる面もある。
 理解しにくいのは一部雑誌が早々と検察批判を行ったのに対し、ふだん「死刑廃止」に積極的だった新聞、テレビなどのマスメディアの多くが自らの意見を表明せず識者などの論評で“お茶を濁して”いたことだ。一紙だけは「寛大すぎる」との意見を表明したが、裏返せば死刑を求刑すべき、ということになる。同紙のこれまでの死刑存廃論議へのスタンスとは整合性を欠くのではないだろうか。
 一方、まったく論評しないメディアの態度は、松本、地下鉄両サリン事件をはじめ、一連のオウム事件のすべての主犯として起訴されている(本人は無罪を主張している)オウム真理教元代表、麻原彰晃(四三)被告=本名、松本智津夫=に対する求刑(死刑求刑が確実視される)の際にも論評せざるを得なくなる“自縄自縛”を避けるため、あえて無視したと推察される。
 そうだとすると、五月二十六日の林被告の判決への論評に注目したい。判決が求刑通りか、求刑を上回る死刑か、いずれにせよ、従来「死刑廃止」を主張してきたマスメディアが死刑存廃論議にいかなる姿勢を示すか、にである。まったく触れない可能性が強いが、それでは死刑存廃論議に参加する資格はない。
 さらにこれまでの裁判に対する被告の不まじめさや国選弁護団の法廷戦術などから結審がいつになるか見当もつかない麻原裁判では、有罪と認定されれば「死刑」以外の判決はありえない。その時の死刑廃止論とのかねあいも注目しなくてはならないだろう。
 死刑執行の度に、死刑の不当性を唱えるのであれば、現実に即して麻原被告に有罪判決が出たときこそ、世間の死刑存続論者を説得する絶好の機会と考えるべきだ。
 元参議院議員の中山千夏さんは「死刑という殺人は国家の合法的な権力行使であり、一般犯罪による殺人は個人の非合法的な非倫理的行為である。しかし(死刑も)殺人は殺人であり、個人にとっての非倫理的行為を国家に許すのは矛盾だ」などの論理から「たとえヒトラーでも死刑にすべきではない」と主張している。
 一理はあるが、わたしは常々「死刑制度の廃止は、最大かつ、かけがえのない『人権』である被害者の命を保護することができなかった国家が、いかなる凶悪非道な犯人でもその命は保障する、と宣言することを意味する。被害者、加害者の人権を守る姿勢にこれほど差があっていいのだろうか」と反論してきた。
 死刑問題は人それぞれの死生観や価値観によって判断が異なる。永遠に正誤の決着はつけようもなく、世論が決めることである。しかし現在のように被害者よりも加害者の人権の方が重視される(結果として)風潮をあおることだけは排斥しなくてはならないと考えている。
 ところで林被告への無期求刑で、古くて新しい問題が提起された。遺族からもあった「仮釈放のない終身刑があってもいいのではないか」との指摘である。確かにわが国の法制下では無期懲役刑は服役態度によっては十七、八年で仮出所できる。死刑との格差が大きすぎると思うのは自然の感情だ。
 だが、終身刑には思わぬ落とし穴がある。一九八一年に国民世論に反して死刑を廃止したフランスでは、命の保障はされたものの社会復帰の希望もなくなった終身服役囚が、「これ以上立場は悪くはならない」と脱獄を企て、集団で看守を襲うなどしたため、刑務官が増員を要求、ストライキ騒ぎにまで発展した。
 わが国では死刑以外の刑には懲罰の他に教育刑の側面があり、社会復帰を手助けする目的がある。だが終身刑にはそうした目的はなく、ただ懲罰のために一生刑務所に閉じ込めておくことになる。その結果、受刑者の心が荒(すさ)むのは自然の成り行きであろう。
 また現実問題としてわが国で死刑が言い渡されるのは殺人、強盗致死など凶悪犯の〇・五%にも満たない。二十日、大阪地裁で死刑を言い渡された犬の訓練士は五人の男女を連続して殺害したとされる“殺人鬼”である。こうした救いようのない異常な犯罪者だけが死刑判決を受けている実態も考慮すべきだ。
 死刑だけでなく殺人犯への科刑も一般的に軽い。平成八年を例にあげれば、殺人罪の終局判決で有罪判決を受けた犯人は五百五十二人、うち死刑はゼロ、無期懲役十三人、懲役十年から二十年、七十八人。十年未満が四百六十一人、八三・五%を占める。
 
 
 
 
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