1993/03/28 朝日新聞朝刊
死刑執行「再開」の意味(社説)
三年以上にわたって死刑の執行がない、というわが国の近代行刑史上の記録に、ついに終止符が打たれた。法務省が事実を一切公表しないため、はっきりしたことはわからないが、大阪拘置所などで複数の死刑囚が処刑されたことは確実だ、という。
これは、過去四人の法相が署名しなかった死刑の執行命令に、今の後藤田法相がOKを出したことを意味する。それはとりも直さず、現在の法務当局が死刑制度は確固として維持する、という意思を明確にしたということにほかならない。
制度がある以上、法律通りの手続きを進めるのは法治国家として当然のことかもしれない。しかしこれで、広がりをみせ始めていた死刑の存廃をめぐる国民的論議に、微妙な影響も出てくるだろう。
執行しないことがどういう影響や結果を生むかという貴重な社会実験を含めて、死刑をめぐるいくつかの選択の道も、当面は閉ざされたことになる。まことに残念な事態だ、といわざるを得ない。
昨年暮れに就任した後藤田法相は、直後の記者会見で、「執行を大事にしないと、法秩序そのものがおかしくなる」と述べて死刑の執行の必要性を強調した。
死刑制度はあるが、執行されないというのは確かに変則的な事態だ。行政の立場からすれば、納得できないことであろう。しかし、刑事訴訟法が死刑の執行に大臣の命令を必要と定めているのは、一面で、究極的な刑だけにその執行を大臣の政治判断にゆだねた、とも考えられよう。
決まり通りにやるというだけなら政治家はいらない。私たちが、今年はじめ、「後藤田法相は考えてください」の見出しで、法相に慎重な判断を求めたのは、その変則事態が生んだ死刑の存廃論議に、「行政の長」でなく、「政治家」として加わってもらいたかったからだった。
ヨーロッパの主要国で最後まで死刑制度を維持していたフランスは、執行がない四年間を経たあと、ミッテラン大統領が誕生した八一年に廃止を実現した。この時の法務大臣だったロベール・バダンテール氏が昨年来日し、各地の会合でこう述べた。
「死刑廃止というのは国民の賛同を得られるようなものではないので、非常な政治的勇気がいる」
「世論が死刑の廃止に傾かない理由は単純だ。殺人の犠牲者になる可能性はだれにもあるが、だれも自分が死刑になるとは考えない。世論に追従するのでなく、自分の見解をはっきりと打ち出すのが政治だ」
今の日本でただちに死刑制度を廃止するのが妥当かどうか、議論があるところだろう。しかし、わが国に比べ治安がそれほどよくない西欧諸国が死刑制度を廃止できているのに、安全を誇るわが国がいつまでもこの制度を維持し続けるというのも、国際的には説得力に欠けるだろう。
死刑制度維持の立場からは、「法律がある以上当然だ」「感情で法を運用しなかった法相は立派だ」と、後藤田氏の「果断」を支持する声が強い。
しかし、人類の長い歴史からみると、国家による「応報」としての死刑制度は、時代を追って普遍性を失ってきていることは確かであり、一面で「流れを逆行させた」との評価を受けても仕方があるまい。
それまで覚悟の上だとすれば、法相には少なくとも滞っている執行を次から次にと処理するようなことだけは避けてほしい。どんな事件であれ誤判の可能性はある。とりかえしようのない刑なのだから、慎重な上にも慎重な姿勢を求めたい。
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