|
1994/09/19 朝日新聞朝刊
ダム開発はまだ必要か(社説)
敬老の日のNHKのテレビ番組に、増山たづ子さんの姿があった。ダムの湖底に村ごと沈む故郷、岐阜県の旧徳山村を撮り続けている七十七歳のおばあちゃんだ。
無人の村のあちこちに、思い出を訪ね歩く。川のせせらぎとカジカガエルの澄んだ鳴き声に耳をそばだて、つぶやく。
「ふるさとを失ったもんでないと、この悲しみはわからん」「大自然を孫子のために残しといてやりたい」
かんがい、発電、工業や生活のための用水、そして洪水調節。さまざまな目的で千余りの近代的なダムが、戦後つくられた。さらに五百七十近いダムが、建設または調査中だ。すべてが完成すれば、すでに完成したものと合わせ、東京都に匹敵する面積が水没することになる。
本当に、まだそんなにたくさんのダムが必要なのだろうか。今年の異常渇水を追い風に、ダムづくりに積極的な政府に対し、他方では疑問の声も強くなっている。
ダム建設に反対する全国の市民団体が、今月下旬、“ダム反対サミット”を開くのも、そうした動きのひとつだ。
大きな疑問は、建設計画が概して過大な需要予測を前提にしている点である。
たとえば、徳山ダムが計画され、長良川河口堰(ぜき)が建設中の木曽川水系の場合、一九八五年から二〇〇〇年までの十五年間に、水道用水が毎秒二十四トン、工業用水が二十二トンも増えると見込んでいる。九〇年までの十五年間の実績では、水道こそ約十一トン増加したものの、工業用水は約九トンも減っているのに、だ。
同じことは、他の水系の需給計画と全国総合水資源計画についてもいえる。
たしかに今年は各地で水不足が深刻だ。しかし、その中でも、優先的な水利権をもつ発電などにはゆとりがある場合が少なくない。水の使い方を社会の実態に合ったものにすれば、大きな混乱なく乗り切れたはず、との指摘もある。
埋まりゆくダムが海辺を削る、といった弊害も目立っている。設計時の計算以上に急速に上流からの土砂が底にたまり、貯水量の急減しているダムが続出している。その一方で、砂が流れなくなった河口付近の海岸では、浸食が進んでいる。
ダムは電源として戦後の経済を支え、工業や都市の急増する水需要にこたえるなどの役割を果たしてきた。しかし、最近になって、山村を衰退させ、山や川を荒らすといった弊害が大きすぎるのではないか、という疑問が強まっている。
昨年のゼネコン汚職は、ダム建設が政治家と建設会社の利権のタネになっている実態をさらけだした。河川関係の役所や公団が、自らの仕事の拡大のために、過剰なダムづくりを進める傾向も否定できまい。
「アメリカのダム建設の時代は、いま終わるのです」。巨大な水資源開発をおこなってきた合衆国開墾局のビアード総裁は、今年五月の演説でこう述べた。
近代河川工法のひとつの手本だった米国が、弊害の深刻化や、環境を重視する国民の価値観の変化を背景に、新規のダムづくりをやめようとしている。開墾局は今後、水資源の管理と環境の回復に活動の重点を移す。日本と事情が同じでないのはもちろんだが、注目したい流れである。
日本も、ダム建設の意味を問い直すときだ。山林の保全や雨水の利用などへの助成を手厚くし、自然と調和した水の使い方に改めてはどうだろう。計画中のすべてのダムが本当に必要なのか、政府はまず、その総点検から始めるべきである。
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。
|