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第四章 船絵馬にみる弁才船の操帆法
 船絵馬にはたいてい大きな帆を揚げて走る側面から見た弁才船が描かれている。では、どの方向から吹く風に対してどう帆を操っているのだろうか。この問題を考えるにあたって、まず弁才船の帆と帆を操る綱について説明しておこう(図113)。
 
図113 帆装の図
船の科学館蔵『和漢船用集』より
 
 弁才船は、船首に小さな弥帆(やほ)を張り、船体のほぼ中央に巨大な本帆を揚げている。帆を構成する基本な単位はある幅の木綿布で、これを一反といい、長さには関係がない。一反の幅は、当初、三尺(〇・九一メートル)前後であったが、強度不足だったらしく、一八世紀前期以降、二尺五寸(〇・七六メートル)前後と狭くなる。
 船絵馬の白帆に引かれた多数の黒い線は帆布一反の境目を示しており、一見、一反の帆布をつぎつぎと横につないでいるかのようである。しかし、実際にはそうではなく、帆布を四反から六反つないだものを一はかいとして、一はかい同士を苧綱(おづな)で千鳥形にかき合わせ、通例、四はかいでもって本帆を構成していた。当然、隣合うはかいの間には隙間が明くが、これは強風時に帆が裂けるのを防ぐとともに、追風の際に帆の背面に生じる渦を少なくする効果があって、帆走性能の向上に役にも立つ。
 帆は、上端を帆桁に取り付け、裾(すそ)を帆足(ほあし)と称する綱で船上に渡した大渡(おおわたし)とよぶ太い綱(大廻(おおまわし)ともいう)にとめる。帆の上げ下げは帆桁の中央につけた水縄(みなわ)(身縄)を帆柱の先端の蝉(せみ)(滑車)に通して艫矢倉内の一対の轆轤(ろくろ)で巻きとって行う。帆の方向は帆桁の両端につけた手縄(てなわ)でかえ、帆のふくらみは両脇につけた両方綱(りょうほうづな)・脇取綱(わきとりづな)(一番下の両帆綱の異称)で調節する。西欧船と違って日本船では水主(かこ)が船上で水縄・手縄・両帆綱を用いて帆を操作するので、帆柱に上ることはない。
 では、帆足をとめるだけで、操帆に大した役割を果たしていないかのように見える大渡から話を始めよう。
 
 弁才船と中世の船の帆装に基本的な相違はないが、大きく異なる点が二つある。一つは、中世の帆に帆足がなく、帆の裾が帆桁(ほげた)に取り付けられていたことである。横風・逆風の時には風に対して帆が適当な角度を保つように帆桁を回すが、弁才船は帆の裾を帆足で大渡に止めているため、どうしても帆桁と帆の裾は西欧の横帆船のように平行にならず、帆はねじれる。とすれば、下に帆桁のある中世の帆は横風・逆風の時にねじれなかったのだろうか。
 横風・逆風帆走中の船は、藤原信実が「むろの海や瀬戸の早舟なみたてて片帆にかくる風のすずしさ」と詠んだように和歌にはしばしば登場するのに、絵巻物にはまったく姿を現さず、具体的に操帆法を知る手立てはない。しかし、真帆・片帆なる語が存在する。国語辞典によれば、真帆とは追い風を受けて帆走する船の十分に展張された帆をいい、片帆とは船が逆風・横風を受けて帆走する時の帆の状態をいう。建治元年(一二七五)に完成した語源辞典『名語記(みょうごき)』に経尊は真帆・片帆の語源をこう記している。
まぼは、おひ風のすぐにふく時、ゆがめず、ひく帆
をば、まぼといへる也
ほをゆがめてひくをば、かたほといへる也
 語源解釈はえてして牽強付会(けんきょうふかい)になりがちで、経尊の評判もあまりかんばしくはないが、こと真帆・片帆に関する限り経尊の説は傾聴にあたいしよう。帆走中の船を描く絵巻物をひもとくと、上の帆桁と違って下の帆桁には手縄に類する操作用の綱はないし、帆柱の前に積まれた荷物と後ろに設けられた屋形のため、下の帆桁は自由に動かせないばかりか、余った帆を下の帆桁に巻き付けて帆走する船まである。とすれば、どの風であれ下の帆桁は動かさず、横風・逆風の時には上の帆桁のみを回したため、経尊の説くように帆にねじれが生じたことは容易に想像がつこう。
 普通、国語辞典では語の由来について追風の時の船首尾線に対してほぼ直角に張る帆面を真帆、横風の時の斜めに片寄らせて張る帆面を片帆とするが、実際には横風の時には帆の上部は片帆でも、帆の下部は真帆なので、追風の時のゆがまない完全な帆を真帆、横風の時のゆがんだ不完全な帆を片帆とする経尊説のほうに説得力がある。
 もとより、下の帆桁は、帆の裾を取り付けるだけで、動かさなかったからこそ、大渡綱で代用できたのである。大渡の出現した時期は定かではないが、遅くも一六世紀後期に大渡が使われていたことはまず間違いない。一六〇三年(慶長八)刊行の『日葡(にっぽ)辞書』には「ほあし(帆足)」が収載され、また慶長一四年(一六〇九)一一月に阿波の蜂須賀至鎮(よししげ)が幕府に進上した大安宅船(あたけぶね)の請取目録には「大わたし」がみえるからである。
 大渡が下の帆桁の代用であることがわかれば、帆柱の前に張られていたことは容易に想像がつこう。船の大百科事典『和漢船用集』に金沢兼光が描いた前掲の帆装の図(図113)を見ると、やはり大渡は帆柱の前の矢倉上にある。しかし、当時の弁才船の矢倉は艫だけで、しかも帆柱の前は狭い。あるいは、これは総矢倉(そうやぐら)を有する関船の場合で、弁才船には当てはまらないと思われるやもしれない。しかし、「ベザイ造廻船」と題された弁才船の説明図にも大渡が帆柱と艫矢倉の破風(はふう)の間に描かれているので、弁才船でもやはり帆柱の前が大渡の定位置であったことは間違いない。
 ここで注目すべきは、兼光の時代には帆足を取る綱が大渡のほかにもう一房あったことである。彼は「鐶(クハン)」の一つである「大渡し鐶」について
又大廻しと云、帆足を取綱を通す者、ひらきに乗時の帆足を取をはい廻しと云
と割註で述べ、さらに帆の小名の一つとして「大廻索(ヲ、マワシナワ)」を挙げてこう註記している。
又大渡しとも云、ひらきに乗時、横にやるをはい廻しと云
はい廻は前掲の帆装図に見あたらないが、この綱が「脇廻(わきまわし)」あるいは「横渡(よこわたし)」とも呼ばれたことから、張る位置の見当はつこう。いずれの異称も大渡(大廻)との位置関係を示す語(脇・横)を冠しているところからして、「はい廻し」は「背廻し」、つまり大廻の背後の綱を意味しよう。
 むろん、背後といっても、帆柱と艫矢倉の破風(はふう)の間には綱を二房渡すだけの余地はないから、帆柱の後ろであり、モースの蒐集した一八世紀半ばを下らない弁才船の雛形(ひながた)(模型)は帆柱の前後に鐶を打っている。兼光の説明は、「ひらきに乗時」つまり横風・逆風帆走の時、帆足は、風上側を大渡、風下側を背廻に取ったことを意味しており、横風・逆風帆走時の帆のねじれを緩和するために背廻が導入されたのだろう。
 兼光は享保初年前後(一七二〇年ころ)にこの記事を書いたと推定されるが、後に大渡を張る位置は変わる。幕府の御城米廻漕関係の文書を集成した『廻船必用』には、廻船方改役にたずさわる者がわきまえておくべき船の各部の名称と船具の用法に関する書が収められており、船具の用法に次のようにみえるからである。
大渡壱房 是は面楫・取楫腰当通りえ引張置、右帆足を結付物也、但苧物也
脇廻 是は矢倉え引張、巻たる時、下手の帆足を括り付る物也
要するに、大渡を矢倉上ではなく腰当船梁(こしあてふなばり)上に張るのが当時の一般的なやり方となっていたわけである。もっとも、腰当船梁は帆柱の前にあるから、張る位置が変わったとはいえ、単に高低の違いにすぎない。用途からして、脇廻は背廻の別称であり、大渡の相対的な位置が変わらない以上、従来通り帆柱の後ろに張られていたのだろう。
 
図114 寛政元年(1789)の菱垣廻船の絵馬 
江刺市の愛宕神社蔵
 
 廻船方改役人の必携には年紀がないが、一八世紀中期から一九世紀初めの間に成ったことはまず間違いない。この間に腰当船梁上の大渡が主流となったわけで、遅くも一八世紀後期にそうであったことは確実である。目下のところ、大渡の位置を示す史料は本必携以外にはないうえ、一八世紀後期に比して中期の船絵馬は少ないため、一般化の時期を特定することはなかなかむつかしい。それでも延享三年(一七四六)の三光丸の絵馬(図9、9)を見ると、左舷の帆の裾が垣立の下に伸びているので、当時、すでに大渡を腰当船梁に張る弁才船が存在したことだけは間違いない。もとより、大渡を張る旧来のやり方が廃れたわけではない。明治一四年(一八八一)生まれの船主は、帆柱の前方に大渡を張り、端を伝馬込の立に止めたと語っているからである。
 では、なぜ大渡を低くしたのだろうか。むろん、大渡の位置に左右されるのは帆である。一八世紀末の能代における船用材の木取りと造船に関する『船大工業方』は帆柱についてこう記している。
八合(ごう)・七合(ごう)五勺(しゃく)目を節(ふし)・疵(きず)等無之様(これなきよう)吟味すへき事第一也、帆ハ常に十分に懸候事無之、平生は七合五勺目・八合目へ掛て走る也、故ニ此処に帆桁を当候故、右疵有ては不成事也
難船時あるいは入港時でもない限り船絵馬には帆を目一杯に揚げた弁才船が描かれているが、実際には平常の帆の位置は七合五勺から八合目であったわけで、どのような経緯からいずれを先に低くしたかは不明にせよ、確かに低い帆と腰当船梁上の大渡は釣り合っている。
 もっとも、荷物を高く積み、ために艫矢倉(ともやぐら)が他の廻船に比べて高い菱垣廻船は、高い帆のほうが好都合であったはずで、大渡を下げなかった。寛政元年(一七八九)に江刺市(岩手県)の愛宕神社に奉納された絵馬(図114)には、帆を高く上げ、帆柱の前の大渡に帆足をとる菱垣廻船が描かれている。
 菱垣廻船はともかくとして、大渡を腰当船梁上に張ったなら、胴の間に積んだ荷物が帆足を取る邪魔になったのではないかと誰しもいぶかしく思うだろう。しかし、そうした形跡は認められない。一八世紀中期以降、荷物を積んだ弁才船は、伝馬船を合羽(かっぱ)の上に載せ、垣立(かきたつ)の上に二重垣立を立てたことを念頭に置いて、例えば寛政元年(一七八九)に寺泊町(新潟県三島郡)の白山媛神社に奉納された絵馬(図115)をみると、時得丸は荷物を積んでいるのに、帆足は下方に伸びている。これに類する船絵馬は枚挙にいとまがない。
 
図115 寛政元年(1789)の絵馬 
寺泊町の白山媛神社蔵
 
 胴の間上で帆足を取る作業にどれくらいのスペースがあればいいかは、空船から見当がつく。パリ提督の船図集に載る明治二一年(一八八八)の一五〇〇積弁才船の図(図116)を見ると、帆足はやはり下方に伸びている。もとより、空船は伝馬込(てんまこみ)に伝馬船を搭載するから、作業スペースは伝馬船と艫矢倉までの間、つまり船首尾方向の長さにして一七〇〇石積でも五尺(一・五メートル)程度、九〇〇石積では四尺(一・二メートル)位しかないが、それでも作業に支障はなかったわけで、荷物を積んだ時には伝馬込艫一番立(てんまこみとものいちばんたつ)より後ろを空けていたのだろう。
 時得丸の絵馬に明らかなように、当初、胴(どう)の間(ま)上に積んだ荷物の高さは二重垣立(にじゅうかきたつ)を越えなかった。やがて波除けとして蛇腹垣(じゃばらがき)を舷側に装着すると、胴の間には荷物を山積みにしたはずであるが、帆足が蛇腹垣の陰になって見えないため、大渡を張り替えたかどうかはわからない。ところが、一九世紀に入って胴の間の上に常苫(じょうどま)を葺くと、そうせざるをえなかったことは確実である。艫矢倉上であれ腰当船梁上であれ、大渡は常苫に覆われて、用をなさなくなるからである(図117)。
 文化一〇年(一八一三)に浦賀奉行所同心今西幸蔵が著した『今西氏家舶縄墨私記』の帆装の図(図118)を見ると、帆柱の後ろには二房の綱が張られ、後ろの綱に「此綱ヲ大渡シト云、帆足ヲトル所也」と註記されている。もとより、註記のない前の綱が背廻である。大渡と背廻の位置からすれば、図には描かれていなくとも、帆柱の前には常苫が葺かれていたはずで、ために大渡を背廻の後ろに移して、背廻と役割を交代させたのである。もっとも、背廻の後ろといっても、帆柱と梶柄の間には二房の綱を張る余地はないから、大渡を移したのは梶柄(かじづか)に仕掛けた横道(おうどう)(どんすともいう)の後ろだろう。大渡が高くなれば、帆を目一杯揚げるのも当然で、帆桁の回転を容易ならしめるため、幕末・明治の弁才船は蝉の直下に桁廻(けたまわし)を付けている。
 もとより、常苫のために背廻の後ろに移された大渡は、荷役した後に常苫を撤去すると元に戻された。それは、文久元年(一八六一)に粟崎(金沢市)の粟崎八幡神社に奉納された大絵馬(図119)を見るとよくわかる。左の空船の白山丸では大渡は腰当船梁上、背廻は艫倉上にあるのに、右の荷物を満載した永福丸では大渡と背廻が艫矢倉の上にあることが読みとれるからである。







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