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図98 享和2年(1802)の享和丸の絵馬
美浜町の金毘羅宮蔵
 
図99 寅9月の幸全丸の絵馬
寺泊町の白山媛神社蔵
 
図100 右近家の八幡丸
河野村の磯前神社蔵
 
 ここで前掲の寛政元年の菱垣廻船の絵馬の蛇腹垣をとくとご覧頂きたい。菱垣廻船は大坂から江戸へ大量の商品を輸送していた廻船で、綿など軽くて嵩張る荷物を胴の間にうず高く積み上げていた。蛇腹垣はこうした山積みの荷物の波除けとして装着したもので、菱垣廻船こそ最初に蛇腹垣をつけた廻船ではなかろうか。とすれば、菱垣廻船の蛇腹垣装着によって、航路筋の東海地域の廻船も荷嵩が大きい時には見よう見まねで蛇腹垣をつけるようになり、その結果、前述の明和年間の栄昌丸の絵馬となって残ったのではあるまいか。
 もとより、私見は憶測にすぎないが、北前船の場合、荷物を山積みにして蛇腹垣をつけた姿は船絵馬のみでなく、河野村(福井県南条郡)の磯前神社に奉納された右近権左衛門の持船八幡(やはた)丸の写真(図100)のように明治時代の写真にも数多く見られる。しかし、北前船における蛇腹垣の普及は、船絵馬でみる限り、足洗の出現する天保八年(一八三七)以降のことで、享和二年の初出より三十数年も遅い。以来、九割がたの廻船が装着していて、以前とは格段の違いがある。となれば、北前船の蛇腹垣は瀬戸内・太平洋側からの伝播とみるほかないが、本家のほうは明治時代後期になると合の子船と洋式帆船に転換して、蛇腹垣は姿を消してしまう。一方、日本海では依然として弁才船を重用していたため、蛇腹垣を必ず装着し、それが当時の人々の目には北前船独自の艤装と映り、初めにあげたような古老の話になったのではなかろうか。だから、その時点では本当であったけれども、歴史的には間違いといわざるをえない。







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