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二 下り
 下り(さがり)は、黒ツグ縄もしくは蕨(わらび)縄で作った水押(一名、女首)につける飾りで、髢(かもじ)とも呼ばれる。形状によってばら下り、突出し下り、長下りの三つ(図82)があり、下りのない水押を奴(やっこ)水押という。
 興味深いことに、明治三四年(一九〇一)に大阪市史編纂係の求めに応じて作成した菱垣廻船歓晃丸(かんこうまる)の図面の解説のなかで桃木武平は下りについて次のように記している。
一名かもじ〔髢〕、之レハ船首ノ装飾ニシテ、蕨縄ヲ束ネテ作ル、此図ノ如ク、長ク下ニ垂レタルモノハ、諸侯ノ御手船ニ限リテ附シタルナリ、近時御手船ニ模シ、或ハ商船ニテモ諸侯ニ関係アルモノ、船ニ附シタリシガ、近代ハ一般ニ用ヰラルル事トナレリ、文政年頃ノ俗謡ニ兵庫高田屋サガリノ長サ、今ノウドンヤノ荷ノ長サ之ニ依リテ見レバ、其頃ヨリ商船ニモ長下さがりヲ附初メタルモノナル可キカ、和漢船用集ニ載スル菱垣船図のさがりハらんぐひ形ト云ヘルモノニシテ、寛政頃マデハ大抵此形ナリシガ如シ、近代江戸通ヒ樽・菱垣廻船ニテハ、専ラつきだし、ほりあげ等ノかもじ多シ、長さがりハ菱垣ニテハ本船ノミナリシトフ、
 桃木が例に挙げた『和漢船用集』の菱垣(檜垣)廻船の図(図83)からすれば、「らんぐい形」の下りがばら下りの異称であることは明白である。また「ほりあげ」下りがどのような形状かは不明であるが、呼称からして突出し下りの別称か、あるいはそれに類した下りをいうのかもしれない。
 ここで想起すべきは、九店(くたな)仲間の荒荷仕建の廻船四九艘の建造年・積石数・船名・船主名・船頭名・船印・帆印・下りを問屋別に記した安政四年(一八五七)一二月の『九店差配廻船明覧』である。同書に図示された「ナガ下り」「ゲンキ下り」「ツキダシ下り」の三種の下り(図84)のうち、形状の類似から「ゲンキ下り」が「ほりあげ」下りに相当する可能性があるが、臆測の域を出ない。確証のない「ほりあげ」下りはともかくとして、「ゲンキ下り」と「ツキダシ下り」の区別は今ひとつ定かでないうえ、『九店差配廻船明覧』で下りのわかる四三艘のうち、突出し下りの三六艘に対してゲンキ下りは四艘と少ないので、ここではこうした形状の下りを突出し下りとして一括して扱うことにしたい。
 三つの下りのうちではばら下りがもっとも古く、『厳島図屏風』に描かれた慶長期(一五九六)の弁才船の船首についている。一八世紀に描かれた船絵馬の下りはばら下り以外にはなく、文化一四年(一八一七)の絵馬を最後にばら下りは姿を消すから、一八世紀末の寛政頃まではたいてい「らんぐひ形」の下りとする桃木説は正鵠を射ている。
 桃木が指摘するように、確かに関船は長下りである。しかしながら、大名の手船がすべて長下りをつけていたわけではない。弁才船でも、大名のそれはばら下りだからである。ことによると、当初、軍船は長下り、荷船はばら下りという区別があったのかもしれないが、いずれにせよ、長下りが弁才船に普及するのは絵馬のうえからは文化三年(一八〇六)以降のことである。一方、突出し下りも長下りとほぼ時を同じくして文化元年以降に普及する。
 桃木の解説によれば、歓晃丸は慶応三年(一八六七)に建造され、明治一一年(一八七八)まで菱垣廻船あるいは樽廻船として活躍したという。より正確には、菱垣廻船ではなく、その後身たる九店差配廻船というべきであるが、ともあれ、安政四年一二月の『九店差配廻船明覧』をひもとくと、下りのわかる四三艘のうち突出し下り・ゲンキ下りの四〇艘に対して、長下りは嘉永元年(一八四八)五月建造の先代の歓晃丸をはじめとしてわずか三艘にすぎないから、近代において「長さがりハ菱垣ニテハ本船ノミ」という桃木氏の話を額面通り受け取ってもいいだろう。
 幕末には突出し下り・ゲンキ下りなどをつけた廻船がほとんどであった樽廻船・九店差配廻船も、明治一〇年代の初めには弁才船から蒸気船・洋式帆船への転換を終えていたし、また絵馬の上では突出し下りは慶応三年を最後に姿を消すので、突出し下りは遅くも明治一〇年代の前半には廃れ、以後、下りは長下り一色で塗りつぶされたと考えてよかろう。
 
図82 三種類の下り
ばら下り
 
長下り
 
突出し下り







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