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 あまり時間がないので簡単に申し上げていきたいと思いますが、江戸時代以前に白旗はどのように認識されていたのかということです。文献としては江戸時代よりもさらに古く、『日本書紀』および『常陸国風土記』を調べてみました。レジュメナンバー4、69ページとあるものの下の段を見ていただけますか。具体的な論証の部分は飛ばさせていただきますが、3行目の「かくして」というところからです。「『日本書紀』や『常陸国風土記』が成立した8世紀前半には、白旗は降伏の印であったことが確実である。
 もちろん、これらの編纂書には古代中国文化の影響が濃厚にみられるというのが定説で、そうすると、当時の、古代日本で白旗が降伏の意味をもっていたかどうか、いささか疑問もある。なぜなら古代中国文献のなかの白旗には、例えば周の武王が父の遺志を継いで白旗を掲げ戦ったという故事がある。これは、服忌の意味の白旗であって、必ずしも降伏の白旗でもないのである」。
 しかしそうはいっても、「古代の編纂書では」、つまり『日本書紀』や『常陸国風土記』では、「白旗すべてが降伏の意味で使われている」ということです。だから中国文化の影響があるといっても、古代の日本では白旗に降伏の意味をかなり認めていたということはあり得るだろうというのです。
 さらに言えることが次のことです。もっと重要なことは、これら『日本書紀』や『常陸国風土記』を江戸時代の知識人はよく読んでいたということです。こういうものを読むサークルも各地にあったようです。名古屋や常陸、つまり水戸ではそういったサークルもあり、こういうものを刊行しようという動きもあったわけです。これらの記述から、江戸時代後期の知識人は、白旗は降伏の印であったということを十分に理解していたように思われます。
 そこから少し飛ばして後ろから4行目、「『日本書紀』や『常陸国風土記』に散見される白旗はすべて降伏の意味の白旗なので少なくとも、白旗が降伏を表すことは、たとえペリーから教わらなくとも十分に知っていた、わかっていた知識人は相当多くいた」ということです。まずそれがいえます。
 そして18世紀初頭のロシアとの戦いにおいて、実は白旗がクローズアップされてきます。それは何かというと、文化魯寇事件という事件がありますが、これに関してはここにあります『仙台漂民とレザノフ』という書物が一番手軽で詳しいですし、今日買ってくださって本当にありがたく思っておりますが、私の『江戸のナポレオン伝説』でもこの事件について書いてありますので、読んでいただきたいと思います。要するにレザノフが開国要求を掲げて長崎に来たのですが、半年待たせて断ってしまいました。それでレザノフ一行はくやしくてしょうがなくて、行きがけの駄賃で、何かないと皇帝に面目が立たないと思ったのでしょうか、樺太や、さらに礼文、利尻などで日本人を拉致したり、あるいは幕府宛に幕府への不満を述べた文書を日本側に渡したりして、悪さをするのです。
 これはロシア側の国家権力の発動ではなかったのですが、文書を渡してきたものですから、日本側はこれはロシア側の国家権力の発動だということで、東北諸藩に出兵を命じたり、幕府からは大目付、それから若年寄まで出兵することになり大変な騒動になりました。これが日本人のロシア恐怖を非常に掻き立てたといわれています。
 それで戦争になるのではないかということでしたが、どうなったかというと、レジュメ5の70ページと書かれた下のところを見てください。1行目ですが、ロシアとの戦争があり得るという状況の中で、文化4年7月1日のこと、長崎出島のオランダ商館長、ヘンドリック・ドゥフは、これは彼の日記ですが、オランダ通詞で大通詞職にあった石橋助左衛門と、同中山作三郎および同名村多吉郎の三人の訪問を受けたという記述があります。
 この記述はあとで読んでいただきたいと思いますが、71ページとあるところの「注目すべきは」というところです。「ロシア船に談判に行くつもりだが、その時彼らがどんな行動を取ったらいいか教えてもらいたいと求めた」。これは北方で起こっていることが長崎に関係があるのです。要するに北方で起こっている国際紛争を解決するために、国際的な感覚、知識、情報を持っているのは長崎の人ですから、こういう人間が駆り出されて北方に行くのです。
 そのときに、彼らもオランダ商館長にいろいろ聞いておかないと、自分たちの身が危ないし、まともな仕事はできないだろうと考えて、オランダ商館長に聞く。それで、「ロシア船に談判に行くつもりだが、その時彼らがどんな行動を取ったらいいか」、「彼らが」というのはわれわれがということですが、われわれはどんな行動を執ったらいいかを教えてもらいたいと求めた。
 「私は彼ら」、つまり行く通詞たちに、「彼らがロシア人と話したいなら、船に少数の人を乗り組ませ、その舳先に白旗を掲げて行くべきであり、そうすればロシア人は疑いなく彼らと会談するであろう」というわけです。つまり交渉のための軍使の印が白旗で、これが慣例であったということがわかります。これは降伏の意味の白旗ではありません。現在のハーグ陸戦協定と同様の意味の白旗ということになるわけです。つまり19世紀前半には、白旗は軍使を表す国際慣例であるということを長崎のオランダ人を通じて長崎のオランダ通詞および長崎奉行所の役人、そして松前奉行所の役人など異国人と交渉に当たる役目を持った人々は、当然知っていたということになります。
 ですから松本健一氏が近代的な白旗の意味をペリーで初めて知ったということは、知っている人たちはいたわけですから、この段階でもう破綻したわけです。ただし、これをどれだけの人間が知っていたかというところはちょっと弱いのです。その点についてはもう少し検討することとして、実は『甲子夜話』の中にもこれと同じ記述があることを、レジュメ6の73ページと書いてあるところ以下で述べておりますので、それについてはあとでお家で楽しみながら読んでいただければと思います。
 船の科学館の講演会ですので、もう少し船の海戦の話をしておきたいと思います。レジュメの5の71ページと書いてあるところで、文化4年12月というところです。先ほどの話は夏でしたが、その冬にまたオランダ通詞たちはオランダ商館長に、今度は戦争の仕方について質問をしています。特に海戦、海の戦いについてです。それが72ページ以下の問答形式になっているものです。上の段です。「海戦ではカノン砲かモルチール砲か」。カノン砲は砲身が長い、モルチールは臼砲と呼ばれる短いものです。それから五つ目の問いを見てください。「海上戦の方法、使用武器を文書にせよ。文書にできなければ、絵図で知らせよ」という問いをオランダ通詞が商館長にします。
 そうすると、「艦隊同士の戦闘では、最初にカノン砲で敵艦のロープ類を損傷させ、砲弾を水面下に打ち込み浸水させる。このとき降伏する場合は船尾の旗が降ろされる」。つまりその国の国籍を掲げた旗を、とにかく降ろせば降参という話になるのです。つまり白旗を上げなくても、とにかく船尾の旗を引き降ろせば降参です。
 「発砲が止むと小船で拿捕のために乗り付ける。直ちに旗が引き降ろされない場合は船を乗っ取るために手榴弾を投げ込む」ということですが、こういうことも情報として提供されているわけです。さらに、この『甲子夜話』の中でも白旗を立てて、和睦の使者に行くという話も出ておりまして、やはり文化魯寇事件の段階では、身近に戦争の可能性があるので、もちろん白旗だけではありませんが、白旗も含めて海戦の仕方についてずいぶん研究していたということです。
 本木庄左衛門という長崎のオランダ通詞がつくりました『軍艦図解』という軍艦の説明書にも、白旗の意味がきちんと出ています。そういうわけで、いくつかのデータを見ると、19世紀初頭には白旗の意味を日本人の一部はわかっていたということです。
 さらにそれに輪をかけたのがアヘン戦争だろうと思います。ここにまた吉田松陰が登場するのですが、74ページ以降にアヘン戦争と白旗ということで出しておきました。ここにも、75ページの上のところに、「松陰が述べるには、西洋の海上戦闘では敗戦して降伏する場合は白旗をマストに掲げる。また、所用により敵船に行く場合は、船足の速い小船に白旗を立てて行く」とありますが、こういうことがしっかり学ばれているわけです。ペリーの来航直前ではありますが、アヘン戦争を調べる中で、吉田松陰も白旗の意味については、きちんと正確にわかっていたというわけです。
 なおかつ、ここに出したのは『海外新話』と呼ばれる嘉永2年に改版された嶺田楓江という人が刊行したアヘン戦争に関する情報です。ここには白旗のことは載ってはいませんが、たとえば私が注目したいのは、これは尾張の尾州一宮の芝源とありますが、商家の人、商人がこれを買って読んでいるらしいということです。こういう五冊本、あるいはさらに拾遺とかいろいろなパターンで出されたりしますが、こういうものが刊行されて、これは軍記もののようになっています。ですから非常に読みやすいのですが、こういうものが庶民にも読まれていた。ただし嶺田楓江の『海外新話』は、こういうものは出してはいかんと言われて版木没収になってしまいますが、出されています。
 これは『海外新話』の中の最初の部分ですが、世界地図があります。このように色が塗られているところはイギリスの植民地を表したりしています。こういった世界情報、それからペリーが来る前に、蒸気船というものはこんなものだということで蒸気船も描かれています。その構造はわからなかったと思いますが、実際にペリーの“サスケハナ”、“ミシシッピ”に乗って、蒸気機関が動いてということがやっとわかったと思いますが、煙を出して外の輪が回って推進するということまではわかっていました。
 さらにこちらのほうは、もっと庶民レベルのもので、『永代年代記大成』と呼ばれるものですが、これはその巻頭に地球万国山海輿地全図というメルカトル図法の地図まで口絵に描かれていて、ここにアメリカ、それから日本、あるいはオランダなどと書いてあるわけです。これはどんなものかというと、たとえば歴代将軍はこうだとか、京都はこうだとか、生活便覧みたいなものですが、出されたのは弘化3年ということでペリー来航の数年前になります。これは江戸の有名な本屋さんたちが名を連ねていまして、明治16年ぐらいまで刊行されていますので、多くの人がこれを読んだと思いますから世界情報は結構庶民にまで届いていたというわけです。そういう中にペリーが来て、さまざまな情報が錯綜していくのですが、その情報の一つにペリーの白旗というものもあったのでしょう。







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