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西瀬戸2 大分
400年前、ローマに行った少年たち
天正遣欧使節の旅
 
 
「天正遣欧使節肖像画」より4人の少年たち 京都大学附属図書館蔵
 
●16世紀、少年たちの遣欧使節
 九州のキリスト教の歴史は古い。今から500年ほど前の安土桃山時代、九州には豊後(ぶんご)(大分県)の国主・大友宗麟(おおともそうりん)をはじめとする3人のキリシタン大名がいた。かれらは外国人宣教師(せんきょうし)のすすめで、4人の少年たちをローマに派遣した。天正遣欧使節(てんしょうけんおうしせつ)という。
 少年たちは1582年に長崎から出航して、2年かけてポルトガルのリスボンに到着した。ヨーロッパではポルトガル、スペイン、イタリアをめぐり各地で歓迎された。再びリスボンから日本に向かい、長崎に着いたのは1590年であった。8年におよぶ長旅を終えた少年たちを待っていたものは、キリシタンを国外へ追放するという秀吉の新しい法律であった。
 少年たちは、それぞれに過酷(かこく)な運命をたどることになるが、かれらの勇気ある旅、そして西洋から持ち帰った印刷機や音楽などは、後の日本の文化に大きな影響を与えることになる。
 
ボラ
 
 
 東京で大発生して話題になったボラは、海水と真水が混ざる汽水域(きすいいき)で暮らし、海底のどろ(の有機物)を主食にしている。だから身はどろ臭いといやがられるが、冬にはどろ臭さもなく、洗いや塩焼きで食べるとおいしい魚である。かつては瀬戸内海や伊勢湾で盛んにとられていた。沿岸で何千、何万という大群で越冬しているボラを、数十隻の船で取り囲んで一気にとる。その大掛かりな漁は冬の風物詩(ふうぶつし)でもあった。沿岸の漁業が盛んな時代には、ほかの魚より簡単で大量にとれる大切な魚であった。
 
 ボラは成長するにつれて味が変わるといわれている。小さなボラは頭もおいしく、大きくなると内臓や卵も食べられる。そんなところから、ブリやスズキと並ぶ出世魚(しゅっせうお)といわれるようになった。出世魚とは、成長するに従って、名前が変わっていく魚のこと。ボラの場合、ち魚をオボコ、10cmぐらいをスバシリ、20cm前後をイナ、30cmを超えるとボラ、50cmを超える大物をトドと呼ぶ。「結局のところ」という意味の「とどのつまり」の語源であるという。
 
山口県上関町の巻きボラは10世紀以来の特産品
 
 
日本橋・魚河岸(うおがし)のいなせ髷
 
 江戸時代の終わりごろ、日本橋魚河岸(うおがし)(魚市場)の若者間でイナ(20cmぐらいのボラ)を乗せたようなチョンマゲがはやった。その髪型は「イナセ(背)まげ」と呼ばれ、かっこいい若者を「イナセだねー」というようになった。
 ボラは西日本ではまだまだ食用の魚であるが、河口の水質が悪化し、防波堤が造られ、ボラにとって住みにくい環境になるに従って食卓から遠ざかっている。







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