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曲目解説 第1夜
文 奥田佳道◎音楽評論家
text by Yoshimichi Okuda
 
ヴァイオリン協奏曲集「和声と創意の試み」作品8より「四季」
アントニオ・ヴィヴァルディ(1678〜1741)
 
 イタリア・バロック期の名匠ヴィヴァルディの超人気曲が開演を告げる。1725年にアムステルダムで出版された協奏曲集「和声(ハルモニア)と創意(インヴェンツィオーネ)の試み」は、描写性、標題性の顕著な作品群と、この作曲家の多彩な筆致を選りすぐった作品群の2巻から成る。
 その初版譜第1巻冒頭の4曲、第1番から第4番の協奏曲が、言わずと知れた「四季」である。残された手紙などから、出版の数年前(かなり前)に完成していたようだ。自信作だったようで、ヴィヴァルディは「春」の第1楽章の旋律を、自作のオペラ「テムポー渓谷のドリッラ」の合唱に転用しているほど。
 ヴィヴァルディ作とも伝えられる作者不詳のソネット(短詩)と、演奏への指示が楽譜に添えられているのが大きな特徴となる。オリジナルの楽譜(自筆譜)は失われているが、英マンチェスターに残された1726年の手稿パート譜に基づく“新しい”ベーレンライター版ほか、いくつかの楽譜が存在する。
 
春―La primavera
 第1楽章:アレグロ 春が来た。小鳥たちの喜ばしい歌が春に挨拶を送る。眠る羊飼い。 第2楽章:ラルゴ 眠る羊飼い。花盛りの牧場。木の葉の甘いささやき。吠える犬。 第3楽章:アレグロ「田園舞曲」 バグパイプの音色に導かれ、妖精ニンフと羊飼いが輝く春に踊る。
 
夏―L'estate
 第1楽章:アレグロ・ノン・モルト「暑さに疲れたように(けだるさ)」 照りつける太陽に人も家畜も松の木も疲れ。カッコーの鳴き声も。 第2楽章:アダージョ〜プレスト やつれた身体。蚊と蠅。稲妻、とどろく雷鳴。 第3楽章:プレスト「夏の嵐」 吹き荒れる風。麦の穂も果物もなぎ倒されて。
 
秋―L'autunno
 第1楽章:アレグロ「村人たちの踊りと歌」 収穫、豊作の喜び。村人の祝いの踊りと歌。 第2楽章:アダージョ「居眠りをする酔っ払い」 祭りの後の穏やかな秋の空気。甘い眠り。 第3楽章:アレグロ「狩り」 夜明けだ。角笛と銃を持ち、犬を連れて、さあ狩りに。
 
冬―L'inverno
 第1楽章:アレグロ・ノン・モルト 冷たい雪、張る氷。激しい冬の風が吹き抜ける。絶え間のない足踏み、カタカタとなる歯。 第2楽章:ラルゴ 暖炉の炎を前にした幸せな日々。外は1日ずっと、すべてを潤す雨。 第3楽章:プレスト 氷を踏み締めてゆっくりと歩く。ころばぬように。あわてると滑って転ぶ。もう一度氷の上を走る。氷が裂ける。あぶない。閉ざされた扉を開いて外へ。南風、北風の競い合いをきく。これが冬の喜び。
 
 
 
カルメン幻想曲
パブロ・サラサーテ(1844〜1908)
 
 19世紀中葉、2人のヴァイオリニストがヨーロッパの音楽界を席巻した。スペイン出身の奔放な天才パブロ・サラサーテと、オーストリア=ハンガリー二重帝国を拠点としロンドン、ベルリンでも活躍した中欧派ヨーゼフ・ヨアヒム(1831〜1907)である。多くの作曲家がこの2人のいずれか、もしくは双方の妙技に触発されて協奏曲を書いた。
 サラサーテ自身もまた、演奏効果満点の小品や編曲をいくつも残したことは皆様よくご存じの通り。「ツィゴイネルワイゼン」と「カルメン幻想曲」を知らぬ者はいない。
 南欧スペインを舞台としたビゼーのオペラ「カルメン」(1875年3月にパリ・オペラ・コミーク座で初演)に基づく、自由で華麗な幻想曲をご一緒に。ちなみにビゼーは初演から3カ月後の1875年6月に急死するが、このオペラはそれまでに30数回の上演を数え、同年秋にはウィーンでも大喝采を博した。
 現在、「カルメン幻想曲」の演奏には2通りある。サラサーテが書いた通りに、スペイン情緒満点の序奏「アラゴネーズ(第4幕への前奏曲より)」に続いて、「ハバネラ(第1幕)」、「捕らえられたカルメンの歌声(第1幕)」、「セギディーリャ(第1幕)」、「ジプシーの歌」の順に弾くパターン。
 もうひとつは、序奏「アラゴネーズ」の次に、死を暗示する第3幕のカルメンの独白「トランプ占いの場面」を挿入し、続いて「ハバネラ」、「カルメンの歌声」、「セギディーリャ」、「ジプシーの歌」の順で弾くパターン。ここでややこしいのは「カルメンの歌声」を外すケースも多いこと。「トランプ占いの場面」を編曲したのは、アウアーに学んだ往年の名ヴァイオリニストで、長らくフィラデルフィアのカーティス音楽院でも教えたエフレム・ジンバリスト(1890〜1985 露→米)。ジンバリスト編の「トランプ占いの場面」を挿入することで、カルメンの悲劇性がより鮮明に浮かび上がることは確かだ。
 
 
 
ハバネラ
カミーユ・サン=サーンス(1835〜1921)
 
 エレガントな旋律美、異国情緒漂うリズムに抱かれる至福のひととき。「序奏とロンド・カプリチオーソ」と並ぶサン=サーンスの小品美学の結晶をご一緒に。キューバ起源の4分の2拍子の舞曲ハバネラをこよなく愛したのは、言わずと知れたビゼー、サン=サーンス、ラヴェルなどフランスの作曲家。ラロやシャブリエも忘れてはいけないが、ハバネラ愛用は彼らのスペイン趣味とも結びつく。野暮な解説をさせていただくと、3連符のあとに8分音符2つがハバネラ・リズムの核だ。
 サン=サーンスは鬼才サラサーテとの交友を通じて、ヴァイオリン芸術に開眼した。単一楽章のヴァイオリン協奏曲第1番、代表作の協奏曲第3番、そして「序奏とロンド・カプリチオーソ」は盟友サラサーテに捧げられている。1887年に書かれ、1894年にパリで公式初演された「ハバネラ」は事情が違い、こちらはディアス・アルベルティーニという技巧派のために書かれた。蠱惑(こわく)的な楽想と飛び散る情熱の“火花”が聴き手を魅了してやまない。
 
 
 
チェロ協奏曲ホ短調作品85より第1、第2楽章
エドワード・エルガー(1857〜1934)
 
 楽想に漂う気高い情熱が聴こえてくる。慈愛に満ちた響き、得も言われぬ深み、内なる尽きせぬ憂い、そして奇想曲(カプリッチョ)風の筆致。ここで抜粋とはいえ、エルガー美学の精髄とも評すべきチェロ協奏曲とは心憎い選曲だ。「本格的な大曲で、よく書けていると思う。生き生きとしている」とは誰あろうエルガーの言葉である。
 第1次大戦の勃発で創作意欲を失いかけたエルガーだったが、愛妻アリスとともにイングランド南部サセックスの人里離れた山荘に引っ越し、そこで晩年の傑作を4曲編み出した。チェロ協奏曲は1919年6月に完成し、同年10月にロンドンでフェリックス・サモンドのチェロ、エルガー自身の指揮するロンドン響によって初演された。ベアトリス・ハリソンとジャクリーヌ・デュ・プレの愛奏曲で、彼女たちとこの協奏曲の「運命的な出逢い」に想いをはせるファンも多いことだろう。
 
第1楽章:アダージョ〜モデラート
第2楽章:レント〜アレグロ・モルト
 
 
 
ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調作品26
マックス・ブルッフ(1838〜1930)
 
 これぞドイツ・ロマン派の傑作と膝を叩きたくなる、旋律美こぼれる名協奏曲。ブラームスより5つ年下のブルッフの人気曲と言えば、まずヴァイオリン協奏曲第1番、そしてヴァイオリン(とハープ)のためのスコットランド幻想曲とチェロのための「コル・ニドライ」が2位の座を競うわけだが、近年は交響曲や晩年の弦楽八重奏曲(1920)、サラサーテが初演し、ハイフェッツが愛した名技性の強いヴァイオリン協奏曲第2番(1877)、ヨアヒムに捧げられた第3番(1891)、ヴァイオリンやチェロのための小品にも少しずつ光が差し込むようになった。生前のブルッフは私たちが漠然と思い描く以上にドイツ音楽界の長(おさ)として活躍、カンタータなど合唱曲が大人気で、指揮者、教育者としても名を成した。
 ブルッフはブラームス同様、ヨーゼフ・ヨアヒムの助言を受けつつヴァイオリン協奏曲の創作を開始したが、音楽史によくあるように、1866年4月のコブレンツ(ライン川沿いの古都)での初演はオットー・フォン・ケーニヒスロウという別のヴァイオリニストに委ねられた。曲は初演後大きく改訂され、そちら(現行版)の初演はヨアヒムが行なった。ヴァイオリンの重音を駆使した両端楽章のドラマ展開とメロディの美しさもさることながら、第2楽章の夢見るような、しかし高ぶりを見せるアダージョが素晴らしい。ブルッフはアダージョで冴える作曲家の筆頭だ。
 
第1楽章:前奏曲 アレグロ・モデラート
第2楽章:アダージョ
第3楽章:フィナーレ アレグロ・エネルジコ
 
 
 
曲目解説 第2夜
2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調BWV1043
ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685〜1750)
 
 オルガン、チェンバロの名手として知られたバッハは、無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータが示すように、ヴァイオリンまたはヴィオラの優れた弾き手でもあった。次男カール・フィリップ・エマヌエル・バッハは1774年、「父は老境を迎えるまでヴァイオリンを美しく演奏した。澄んだ音色で管弦楽を整えたが、それは鍵盤楽器を弾く以上に効果的だった。父は弦楽器の可能性を正しく理解していた」と回想した。
 バッハのヴァイオリン協奏曲群は長らく、1717年から23年にかけてのケーテン宮廷楽長時代に書かれたと考えられていた。ケーテン宮廷楽団の基本人員は13人。しかし、近年の音楽学はケーテンよりも後のライプツィヒ時代(1723〜50)の作品、ことに1730年から40年頃との見方を強めている。ライプツィヒの学生によって組織されたセミプロのコレギウム・ムジクム合奏団のために書かれた晩年の傑作というわけだが、確証はない。バッハは一連の協奏曲をチェンバロ協奏曲に編曲しているので、話はややこしい。
 両端楽章は、ソロの部分とトゥッティ(合奏)の部分が交替するバロック音楽特有のリトルネッロ(イタリア語で小さな反復)形式で書かれている。バッハの曲名に添えられているBWVは、ドイツ語の「バッハ作品主題目録」の頭文字。
 
第1楽章:ヴィヴァーチェ
第2楽章:ラルゴ・マ・ノン・タント
第3楽章:アレグロ
 
 
 
交響曲「イタリアのハロルド」より 第1楽章
エクトール・ベルリオーズ(1803〜1869)
 
 生誕200年のベルリオーズ・イヤーも大詰めを迎えた。旧弊や因習をことごとく打ち破り、文字通り革新的な作品を発表したベルリオーズの交響曲から、第1楽章を。
 鬼才が鬼才に手を差し伸べた。交響曲「イタリアのハロルド」はパガニーニの依頼で書き始められる。1833年に「幻想交響曲」の再演を聴き、感銘を受けたこのヴァイオリンの悪魔的名手が、ベルリオーズにヴィオラとオーケストラのための作品を書いてほしいと頼んだのだ。「えっ、ヴィオラ?」 パガニーニは当時、アントニオ・ストラディヴァリ製作のヴィオラを手に入れ、そのお披露目を兼ねた公演の開催を目論んでいたのだ。なおパガニーニはストラディヴァリウス収集家でもあり、亡くなった時には11挺の楽器を有していたことが分かっている。
 ベルリオーズは、英バイロンの長編詩チャイルド・ハロルドの巡礼に基づく、ヴィオラ独奏を伴う交響曲に着手する。ヴィオラがハロルド役というわけだ。パガニーニの独奏を念頭に置いて第1楽章を書くのだが、創作の進行状況を見に来たパガニーニはソロの見せ場が乏しいことに失望。それ以降ベルリオーズは自由に作曲を続けることになる。曲は1834年の暮れにパリで初演され、第2楽章がアンコールされるほどの成功を収めた。
 後日談がある。オペラ「ベンヴェヌート・チェルリーニ」の大失敗で経済的に行き詰まったベルリオーズは1838年の暮れ、生活資金を稼ぐべく、「幻想交響曲」と「イタリアのハロルド」を自ら指揮する。果たして起死回生の夕べとなるのだが、これを聴いて、やはり奴は凄いと感激したのが誰あろうパガニーニなのだ。それで彼は先の「イタリアのハロルド」の件は都合よく忘れ、気前よく2万フランをベルリオーズに寄付。創作に専念出来る環境が整ったベルリオーズは1839年、劇的交響曲「ロメオとジュリエット」を作曲する。
 一連の経緯は出来すぎと言えば出来すぎで、歴史家の間でも意見が分かれるところだが、未曾有の興行記録をもつパガニーニがそれなりに裕福だったこと、彼がベルリオーズに一目も二目も置いていたことは確かだ。二人はどんな会話を交わしていたのだろうか。
 
第1楽章:山におけるハロルド、憂愁、幸福と歓喜の場面
 
 
 
セレナードより第5楽章
レナード・バーンスタイン(1918〜1990)
 
 独奏ヴァイオリン、弦楽合奏、ハープと打楽器のための「セレナード」。バーンスタインは協奏曲ではなくセレナードと命名したが、これはセレナードの語源―タベのひととき、バルコニーの下で令嬢(や夫人)に捧げる愛の歌―に立ち戻ろうという「彼の気分」の反映のよう。バーンスタインはまた、男性同士の友情や愛について多くを語ったプラトンの哲学的対話篇『シンポジウム(饗宴と訳される)』を再び読んだことで、作曲の霊感を得たとも語っている。実際、古代ギリシャの哲人の名を挙げながら、詳細な解説を書いた。独奏ヴァイオリンに主たる語り手の役割が与えられたが、セレナードはやはり、深遠な哲学と無邪気な世界を自在に行き来した天才バーンスタインの自画像と見るべきか。
 クーセヴィッキー財団の委嘱によって作曲、1954年の夏にアイザック・スターンのヴァイオリンによってヴェネツィアで初演された。バーンスタインの自信作にして人気作で、とくに若い世代のヴァイオリニストが好んで取り上げる。
 変化に富んだ5つの楽章から成る。悲運の預言者と偶像破壊を下敷きにしたと言われる第5楽章は「ソクラテスとアルキビアデス」の対話。前楽章アガトンの旋律が管弦楽の序奏だ。独奏ヴァイオリンとチェロの二重奏、シンポジウム(饗宴)を中断するジャズ手法のエピソードなどが聴きどころだ。バーンスタインの“イズム”が色濃く現れた鮮烈な音楽に圧倒される。
 
 
 
ロマンス第2番ヘ長調作品50
ルートヴィッヒ・ヴァン・べートーヴェン(1770〜1827)
 
 憧憬に満ちたメロディが広がり、内に秘めた情熱も添えられる。協奏曲やソナタの影に隠れることなく、音楽ファンに愛されてきたベートーヴェンのロマンスとは、ほほ緩む選曲。ロマンス第1番ト長調のおよそ2年前、1798年の秋頃に書かれた。アンダンテ・カンタービレ(カンタービレは歌うようにの意)と記されたスコアから立ち昇る情趣は、まさに絶品。ロマンス主題に2つの副主題が織り込まれたロンドのスタイルで書かれている。
 
 
 
ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品77
ヨハネス・ブラームス(1833〜1897)
 
 華麗な人脈をひとくさり。ハンブルク出身の青年ブラームスの才能を最初に激賞したのはロマン派の化身ローベルト・シューマン(1810〜1856)、シューマン夫人は19世紀中葉屈指のヴィルトゥオーゾピアニストにしてサロンの華だったクララ・シューマン(旧姓ヴィーク/1819〜1896)である。クララは1870年、ウィーン楽友協会の室内楽ホール(1937年にブラームスザールと命名)のこけら落としを任された。
 クララとブラームスの親密な間柄は有名だ。彼はスケッチや曲を書き上げると、誰よりも先にクララに楽譜を届け、弾いてもらう、あるいは一緒に弾きながら、意見を求めることが多かった。そんなクララもブラームスに特別な感情を抱いていたに違いない。
 ブラームスを見出したシューマンに話を戻せば、彼はメンデルスゾーンの親友であり、ショパンやリスト、シューベルトの兄フェルディナントとも交友した。シューマンが楽都ウィーンのフェルディナントの館で見つけたフランツ・シューベルトの「グレイト」の楽譜は、ライプツィヒのゲヴァントハウス管に贈られ、メンデルスゾーンの指揮で公式初演された。ゲヴァントハウス管の楽長だったメンデルスゾーンは、長らく忘れ去られていたバッハのマタイ受難曲を蘇らせ、シューマンの交響曲第1番「春」の初演も指揮した。1830年代中葉から40年代後半にかけての同管のコンサートマスターはフェルディナント・ダーヴィットで、この人はメンデルスゾーンの協奏曲誕生の立て役者として名高い。
 そろそろ本題へ。周知のようにブラームスとハンガリー系の名ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒム(1831〜1907)は長年の親友だった。それゆえに度々衝突もしたが、ブラームスは常々ヨアヒムのためにヴァイオリン協奏曲を書こうと思っていたようである。
 ある演奏会を契機に気持ちが固まった。1877年9月、ドイツ南部のバーデンバーデンで、サラサーテ独奏によるブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番を聴いたのだ。ブラームスはブルッフの曲をかなり痛烈に批判したが、サラサーテの妙技には感銘を受けたという。
 1878年の夏、お気に入りの風光明媚な避暑地、南オーストリアはヴェルター湖畔のペルチャッハで創作にいそしんだ。ペルチャッハでは前年に交響曲第2番、翌年にヴァイオリン・ソナタ第1番「雨の歌」の作曲が進められている。
 ヴァイオリン協奏曲は当初、4楽章で構想されていた。しかしヨアヒムの反対、ブラームスの推敲好きなどにより、中間2楽章が破棄され、新たに牧歌的かつ表出性の強いアダージョ(現在の第2楽章)が書かれた。ブラームスとヨアヒムは楽曲の大枠から細部の音型に至るまで、半年近くに渡って「激論」を交わしたようだ。
 曲は1879年1月1日、ヨアヒムの独奏、ブラームス指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団で初演されたが、作曲者は例によってその後も改訂を続けた。
 
第1楽章:アレグロ・ノン・トロッポ
第2楽章:アダージョ オーボエも「主役」を演じる。
第3楽章:アレグロ・ジョコーソ、マ・ノン・トロッポ・ヴィヴァーチェ
 
 
 
曲目解説 第3夜
ウィーン奇想曲、愛の悲しみ、美しきロスマリン
フリッツ・クライスラー(1875〜1962)
 
 古き良き時代の楽都ウィーンの優美な調べ。情趣あふるる、たおやかなワルツに酔いしれるオープニング。ウィーン生まれのヴァイオリニスト、フリッツ・クライスラーは演奏活動のかたわら、おびただしい数のヴァイオリン小品を創作、さらに古典派以降の協奏曲のカデンツァを手がけた。小品のいくつかは17、18世紀に書かれた手稿譜の編曲として発表、後に自作と公表し、人々を驚かせた。一方、発表当初から自作として演奏し、出版された小品もある。
 摩訶不思議な幻想味がこぼれる「ウィーン奇想曲」は1910年に出版されたオリジナル曲集の第2曲。故郷ウィーンが辿ってきた道程を回想するかのような響きが素晴らしい。
 「愛の悲しみ」は、「愛の喜び」と対をなすワルツで、1910年に古典的手稿譜の編曲として発表した曲集のひとつ。さらに言えば、「愛の喜び」、「愛の悲しみ」、「美しきロスマリン」は、“古いウィーンの舞踏歌3部作”をなす。
 「美しきロスマリン」のロスマリンとは、美しい花を咲かせる“まんねんろう”のことで、ローズマリーと同義。オーストリアや南ドイツでは、可憐な少女や愛する人、一番大切な宝物を指す、文字通り匂やかな言葉だった。豊かな情感の象徴でもある。
 
 
 
ロッシーニの「タンクレディ」のアリア「こんなに胸さわぎが」による序奏と変奏曲
ニコロ・パガニーニ(1782〜1840)
 
 19世紀のヨーロッパ諸国はほぼ例外なく、華麗なテクニックを誇るヴィルトゥオーゾとロッシーニに代表されるイタリア・オペラに夢中になっていた。ヴィルトゥオーゾの代表として、ヴァイオリンのパガニーニ、ピアノのリストを挙げるまでもない。
 ロッシーニの「セビリアの理髪師」、「オテロ」、「チェネレントラ」、「エジプトのモーゼ」、「タンクレディ」、あるいはパイジェッロの「水車小屋の娘」のアリアは、ただちに流行り歌となった。楽都ウィーンも例外ではなく、ベートーヴェンもシューベルトもアン・デア・ウィーン劇場でのロッシーニ人気をやっかんでいたほど。
 ヴァイオリンの鬼才パガニーニはロッシーニの友人でもあり、彼のオペラ・アリアを主題とした超絶技巧小品をいくつか作曲している。1819年、ヴェネツィアでのオペラの初演(1813年)から6年後に書かれた「こんなに胸さわぎが」(1幕のアリア)による序奏と変奏曲もそのひとつ。楽譜は1851年になってようやく出版された。オリジナルはヴァイオリンとオーケストラだが、クライスラー(時々アウアー)によるピアノ版での演奏が主流。
 
 
 
主題と変奏
オリヴィエ・メシアン(1908〜1992)
 
 20世紀を代表する作曲家のひとりで、フランス楽界を牽引したオリヴィエ・メシアンの多岐に渡る作品のなかで、この「主題と変奏」の演奏頻度は高いほうだ。1931年に書かれ、翌年の初演ではメシアン自身がピアノを弾いた。異次元の神秘世界へ誘うかのようなホ長調の主題と5つの変奏で構成され、第3変奏以下は続けて演奏される。「先輩」ドビュッシーに一脈通じる半音階的な筆致、3連符、大胆な跳躍音程、低音トリルが絶妙なアクセントを形成。メシアン初期の代表作で、東洋的な色彩、そしてもちろん祈りの情感(カトリック信仰)も織り込まれた。
 
 
 
ノクターン第20番嬰ハ短調(ミルスタイン編曲)
フレデリック=フランソワ・ショパン(1810〜1849)
 
 この奇跡の楽の音、神への祈りにも通じたノクターンを前に、野暮な解説は不要だろう。だから少しだけ。1830年に紡がれた「レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ」(遅く、表情豊かに)で、同時期のピアノ協奏曲第2番ヘ短調や歌曲「乙女の願い」の旋律も聴こえる。ショパンのノクターンやマズルカは、サン=サーンス、サラサーテ、クライスラー、アウアー、そして晩年まで現役を貫き通したナタン・ミルスタイン(1904〜1992 ウクライナ→米)によって、ヴァイオリンの名曲にも生まれ変わった。
 
 
 
ワルツ・スケルツォ作品34
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840〜1893)
 
 有名なヴァイオリン協奏曲が作品35、こちらが作品34。サラサーテの超絶技巧を耳にして以来、ヴァイオリン協奏曲の作曲に関心を抱いていたと言われるチャイコフスキーは、友人のヴァイオリニストで作曲の弟子でもあったヨシフ・コテック(またはイオシフ・コテーク)とラロのスペイン交響曲をピアノで演奏し、感激。コテックの助言のもとに当該ジャンルへの参入を決意するわけだが、その少し前に、彼の演奏に触発されて書いたのがヴァイオリンとオーケストラのためのワルツ・スケルツォだ。
 バレエであれ交響曲であれ小品であれ、ワルツを書かせたら素晴らしいに決まっているチャイコフスキーの技が光るしなやかな逸品で、作曲者自身によるピアノ編曲も知られる。オリジナルは560小節を超えるが、後半部分をかなりカットしての演奏が多い。
 
 
 
「神話−3つの詩」作品30より“アレトゥーサの泉”
カロル・シマノフスキ(1882〜1937)
 
 ここでポーランドの作曲家カロル・シマノフスキ(ロシア統治時代のウクライナ生まれ)の代表作に身を委ねたい。近年オペラや宗教曲、交響曲、弦楽四重奏曲、ヴァイオリン・ソナタの再評価が著しく、演奏の機会も徐々にだが増えている。スクリャービンの作風と並び称される神秘主義、あるいは印象主義的な手法、南欧や地中海沿岸への憧れ、古代や東洋への興味、ポーランド(スラヴ)の民俗音楽をモダニズムの技法で昇華させた筆致が聴き手を捉えて離さない。彼は音楽のみならず、言論、出版人としても活躍。20世紀の初めには同国のアルトゥール・ルービンシュタイン(1887〜1982)やヴァイオリンのパウル・コハニスキ(1887〜1934)とも行動を供にした。
 そのコハニスキの協力を仰ぎながら作曲された神話(全3曲)は、シマノフスキのギリシャ神話への傾倒ぶりを示す幻想的な小品で、特に名高い第1曲“アレトゥーサの泉”は、水の精アレトゥーサと彼女に恋する川の神アルフェスの物語を描いたという。
 
 
 
レントより遅く(ロック編曲)
クロード・ドビュッシー(1862〜1918)
 
 ひっそりと佇むワルツ。しかしフランス楽壇の長(おさ)として尊敬を一身に集めていたドビュッシーの遊び心が露となった佳品だ。「美しい聴衆が集う5時のお茶の会のために書いた」と作曲家。前奏曲集第1巻や「ハイドンを讃えて」とほぼ同時期に書かれた小品で、ドビュッシーのロマ(ジプシー)音楽への想いも見え隠れする。ノスタルジックな味わいが身上だ。自身によって管弦楽化されたほか、多くの編曲で愛されている。
 
 
 
ワルツ・カプリース(イザイ編曲)
カミーユ・サン=サーンス(1835〜1921)
 
 サン=サーンスの華麗な作風が際立つピアノ曲「ワルツ形式による練習曲」作品52の6(6つの練習曲作品52の終曲、1877)を、無伴奏ソナタの作曲者でもある希代のヴァイオリニスト、ウジェーヌ・イザイ(1858〜1931)が、さらに色鮮やかに、芳醇に編曲。イザイはもちろんサン=サーンスの許可を得て筆を走らせている。雅な味わいと技の見せ場が一体となったサロン風ワルツの決定版で、オリジナルはヴァイオリンとオーケストラ。
 
 
 
弦楽四重奏曲第14番ニ短調D810「死と乙女」
フランツ・シューベルト(1797〜1828)
 
 愛好家と友人に囲まれながら芸術と人生を彷徨い(さまよい)、孤独や寂寥を愛でている時でも“うた”を、そして即興の精神と変奏の技とハーモニーの微妙な変幻を忘れなかった楽徒シューベルト。独自の死生観をもち、東欧ハンガリーの舞曲に親しみを覚え、ウィンナ・ワルツの創始者グループやロッシーニの人気をやっかむ一面も見せた。
 1820年代の半ばに完成したと見られるニ短調の弦楽四重奏曲「死と乙女」には、ロマン派を実感させる主情的な響き―怒り、葛藤、悩みも聴こえてくる。愛称は第2楽章の変奏主題が、歌曲「死と乙女」(1817)の伴奏旋律に基づくことによる。公式の初演は1833年。「未完成」や「グレイト」同様、生前には実現しなかった。
第1楽章:アレグロ 第2楽章:アンダンテ・コン・モト 歌曲「死と乙女」の伴奏旋律主題による変奏曲。 第3楽章:スケルツォ、アレグロ・モルト 第4楽章:プレスト 何か(絶望か堅牢な意志か)に駆り立てられて疾走する壮絶なフィナーレ。







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