日本財団 図書館


◎いちばん欠けているのは、「幼小一貫」という基本的考え方
 
 もうひとつの問題は、初等教育をどう評価するかということです。文科省の大きなカリキュラムはあってもいいと思うのですが、学校自身も、もう少し独自のカリキュラムをもってもいいと思うのです。例えば地域に根差したようなカリキュラムを作る努力をしてほしい。いま困るのは、浅草だろうが、渋谷だろうが、同じことをやっているわけですね。教育というのは、よき想い出を残すことだと私は思っているのです。「何十年前、ここにこういうものがあった」と。昔の人はその生まれた地域というものを大切に、誇りをもっていたわけです。やはりそういった面で、社会科教育というか、もう少し体験的な学習を増やしてあげたほうが、子供たちにはよき思い出になると思うのです。
 また、子供たちに自分で問題を解決することを教えてあげることです。いま申しあげました地域社会の問題もそうですが、要するに、自分たちで解決する喜びみたいなものを学ばせることです。何かテーマを与えて、先生は方向づけすればいいだけなのです。
 それから、私は、老人の力を借りる必要があるのではないかと思っています。75歳過ぎてもお元気な方はいっぱいいらっしゃることだし、先ほどの話ではありませんが、核家族になってお孫さんも遊びに来ないわけです。ですから、何かをやりたいわけです。ところが、悲しいかな、何をやっていいかわからないんです。
 彼らは、何十年もある仕事に打ち込んできたわけです。例えば銀行員だったら、おカネの専門家でもあるわけです。そこで、そういう方たちが学校へ行って、ボランティアでいいと思うのですが、子供たちにおカネの大切さとか経済の仕組みだとかを教えるのです。これは子供たちにとって、すごく意味のあることなんですね。しかし、多くの日本人というのは、そういうのを勉強と考えない傾向があります。
 昔は、お年寄りというのは、そうしたことを大家族の中で自然に子供たちに与えていったわけです。ですから、核家族時代の今日では、自分が出前で、幼稚園でも小学校でも行って、自分たちの経験を面白おかしく子供たちに話せばいいのです。それで、その話を子供たちが目を輝かせて聞いていたりしているところに、また、老人の生きがいも出てくると思うのです。
 このように、新しい学校というのは、遊んでいる人全ての力を借りればいいのです。「自分たちだけの学校」というのでしょうか、何か距離があるんですね、学校というのは。私は、そうではないと思うのです。
 そこで、いまいちばん欠けているのは、「幼小一貫」ということなんです。「基礎基本がない」とよくいわれるのですが、幼稚園の教師の免許と小学校の教師の免許が分かれているわけですから、幼稚園の教師の免許をもっていても小学校の先生にはなれない。その逆もそうです。だから、幼稚園では何をやっているのか、小学校で何をやっているのか、お互いに分からない。それで「幼小一貫が理想」と言葉ではいいますが、実際は「基礎基本」という言葉だけが独り歩きしている。
 例えば、箸のもち方から、箸をもって食事をすること、これなどは「基礎基本」の中でも基本中の基本で、鉛筆の正しい持ち方につながる極めて大切なことです。こういうことを教えることが、幼小一貫の一つなのです。
 それからもうひとつ大きな問題は、学校が、日本の伝統文化をもう少し大切にしてほしいことですね。例えば、西洋のものは楽器にしても取り入れるわけですから、三味線とか琴とか、そういう日本古来のものも取り入れる必要があるのではないかと思うのです。また、シェイクスピアを取り上げても、歌舞伎はあまり取り上げないとか、それでは困りますね。やはり、まず自分の国のことを知らないと駄目です。
 また別の問題ですが、同じ幼児を扱うのに、保育園が厚生省で、幼稚園が文科省などというのも、おかしいわけです。そうするとお母さん方は、保育園へ入れておくと子供はよく育たない、というような錯覚に陥るわけです。保育園といったら、放ったらかして預かってくれるところで、幼稚園というのは教育してくれるところ、そういうイメージがあるんですね。みなさんイメージで来ていますから(笑)。やはり、幼稚園へ入れるお母さん方にしても、長い間預かってほしい場合もあるわけです。学童保育とかいろいろありますが、その辺をはっきりしたほうがいいと思うのです。
 それから年齢の問題にしても、早く入りたい人は早く入ればいいのではないでしょうか。飛び級などというのもあっていいわけです。ですから、そうした問題ももう少し柔軟にして、あまり枠にはめて縛らないことです。
 いま、教育法などでは、学校ひとつ作るのでも、校庭が何坪なければいけないとか、トイレはこうなっていなければいけない、みたいな細かいことばかりいっていますから、ここら辺も規制を緩和する必要があります。教育というのはそういう問題ではないんですね。
 例えば幼稚園を作るのでも、グランドがなければいけないとか、そんなくだらないことをいっていないで、手作りで楽しいものがあってもいいのです。教育というのは、先生に全てを任せるということではなくて、みんなで手塩にかけて、全ての方が力を貸すことです。それはボランティア団体みたいなものでいいわけで、老人たちも生きるし、子供たちも生きるのです。こういう改革というのは、したほうがいいのではないでしょうか。
 最後に申しあげておきたいことは、やはり、試験というのはあったほうがいいと思います。それは、入るときでもいいですし、出るときでもいいんですが、学力低下というのはよくないですね、生きる上で。知育偏重では困りますが、学力が低下すると、下手をしたら国が潰れることになります。
 しかし、いまのような試験はやめたほうがいいでしょうね。もう少し人間の全体を見るというか、極端にいえば、心まで見えればもっといいんでしょうけれど。心の教育が欠けていると思います。見えるところばかり見て、見えないところを見てあげないと人間は駄目なんです。
 試験というのは、わずか1時間から2時間で、風邪でもひいたらもちろんいい点などは取れないわけです。いまのような試験制度だったら、点を取るのが非常にうまいやつがいるんですね。その代わり社会へ出ると落ち込んでしまったりして、むしろ落ちこぼれた人のほうが優秀になったりするのです(笑)。社会に出ますと、いろいろな意味で創造性が豊かな人のほうが、成功するところがあります。
 
□質疑応答
 大島 学生のときの落ちこぼれが社会に出て成功したというのは、すごく大事なところじゃないですか。逆相関するというのは。
 大堀 それはそうなんですが、ただ、親とか教師が落ちこぼれていると思っているだけで、ある種のユニークさなんですね。質問して答えないと、この子はできないって、バカな先生は思うんですが、そうではなくて、じつはその子は熟慮しちゃっているんですよ(笑)。成功している人も「俺なんか知能指数低かったんだよ」と、よくいいますが、それはそうでしょう。知能テストっていうのは、答えだけ聞くんですから。(笑)
 ですから、奥深く見ていないっていうのでしょうか、十把一絡げみたいにやってきた教育を、もう少し学校も多様化させて少人数でやってみる必要がある。自分の好きな学校に入って、それでユニークな子供ができればいいのです。やはり子供の性格もいろいろありますから、それを見抜いてあげないとかわいそうです。医者の場合と同じで、誰でも先生にしちゃいけないんだと思います。当たり外れがあっては、かわいそうですよね。
 國田 逆に、教育はどんな風であろうとも、才能のある子供は、大体ちゃんと育つものなんでしょうか。
 大堀 育ちますね。それと、はっきりいえば親ですよ。いま成功した人を見ると、やはり、その人たちの親はしっかりしていましたね、みんなそうです。私のところに来ていた子供ですが、両親ともジャーナリストで昼間は取材に行っていて、その子は鍵っ子です。夜になると、帰宅した両親は机に向かって原稿を書いている。それで、その子は、お父さんもお母さんも勉強する姿しか見たことがないわけです。そうすると、その子も自然に勉強していた。(笑)
 子供を鍵っ子にしているので、親は心配するわけです。「先生、うちの子供は大丈夫でしょうか」と。「ええ、2人の姿を見ていたら大丈夫でしょう」といいました。やはりその通りになりました。だから、言葉で教えることはないと思うのです。
 大島 即効性を求めるみたいなところがありますからね。
 大堀 そうですね。子供は、もう少し長い目で見る。だから結局、教えようとするから駄目なんです。特に幼児の場合は、教えてはいけないのです。ともに学ぶということなんですね。例えばピアノでも、「お前さん、やれ」ではなくて、下手でも親も一緒に弾けばいいのです。そうすれば子供は、面白がってやるんです。
 そういった意味では、地域の人たちが子供たちの教育といったものに全体で取り組んであげると、いろいろなユニークさが出てきます。それぞれの子供に合ったおばさんがいたり、気の合った先生が出てきたりするんですね。
 國田 先生は伝統行事が大切であるというお話をされていらっしゃいますが、伝統行事そのものよりも、むしろそれをやりながら、何か遊ぼうということですか。
 大堀 そうですね。ですから、例えば節分でいえば、子供は、鬼がいるというのと、いないというのと、半分ぐらいずつにわかれます。それでいろいろなことを言い出し、結局、鬼っていうのはあまりいいものではない、というようなイメージが出てくるわけです。それで自分たちのイメージというのが脹らんできたところで、じゃあ、鬼をともかくみんなで作ってみようということになります。
 その前に大切なことは、子供たちに、ガラクタやいらないものや捨てるようなものを集めさせておくのです。それで、5人なら5人で話し合って、それじゃあ、自分はどの部分を作るのか、役割分担みたいなものが出てくるわけです。それで人の手も借りてみんなで完成すると、楽しく作り上げられたという実感を経験することができるのです。
 そうすると次に、自分の家では節分に何をやったかという話になって、豆をまいたということになり、どうして豆をまくんだろうという話になってくるんです。作り話でもいいからその話をしてやれば、それをきっかけに、子供が家へ帰ったときにお父さんが意気揚々と豆まきの言い伝えをしゃべるかもしれない。(笑)
 さらには、私どものところには年長組に5歳と6歳がいますから、5歳と6歳を並ばせておいて、自分の年の数だけ豆を箸で取ってこいっていうんです。手先が不器用なつまめない子供でも、みんながやっていると楽しいものでやり出すわけです。今度は、それを全部一緒にして仲良く分けてみようっていうと、ひとつ余ります。どうするんだっていうと、包丁で切るとか、はさみで切るとか、もうとにかく未分化ですから(笑)、とにかく豆が吹っ飛んでしまうんです。するとそのうちに、心優しいのが「先生、何もないからあげる」とか、じゃんけんをしようとかいろいろな意見が出てくるんです。
 子供の教育というのは、こんなことなんじゃないかなと私は思います。







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION