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3. 理論的に極めて不適切な政策
 そこで「専守防衛」が歴史的にはともかく、今後とも理論的に成り立ち得るものなのかを、以下で検証する。そのために、「専守防衛」策は(1)戦いの普遍の原則に合致するか否か、(2)地政学上の問題をクリアできるかどうか、(3)攻撃兵器優位時代の現在の状況下で、どのような結果をもたらすか、(4)侵略抑止力にどのような影響を与えるか−の4点について逐次究明していく。
 
(1)「攻撃は最大の防御」の原則に反する「専守防衛」
無視すべきでない軍事合理性
 「専守防衛」は、戦史に照らしても成功事例どころか実例もなきに等しい。そこで次に、「専守防衛」が理論的に成り立ち得るか否かという点を検証したい。結論からいえば、否といえる。「専守防衛」は政治力学上の、特に国会対策上の妥協の所産であり、軍事常識を完全に無視したものであるからだ。ドイツのルーデンドルフ将軍は、総力戦の時代には軍事が政治と違った独自の論理を持つと指摘。そのうえで、「戦争は国民生存意思の最高の表現である。従って、政治は戦争指導に奉仕すべきものである」と主張した。41戦争が第一次世界大戦以降、国家の総力を挙げて戦う総力戦になったとの将軍の指摘は正しい。しかし、戦争―軍事を政治より優位に置くのは間違いである。同じドイツのクラウゼヴィッツ将軍の喝破したように、戦争は「他の手段をも以ってする政治の継続」42である。これは戦争が総力戦の時代に入っても変わらない。つまり、軍事は「広義の政治」の一部であり、それは政治のウルティマ・ラティオ(最後の手段)である。
 だからといって、軍事にも「狭義の政治論理や政治判断」が全面的に通用すると考えるべきではないし、また全面的に適用してはならない。政治も軍事も力(power)の争いであるが、軍事−戦争は大量の流血と破壊を恒常的に伴う点で政治とは異なった法則が働くという点を見落としてはならない。この点では、ルーデンドルフ将軍の主張にも一面の真理があるといえる。それゆえ、軍事−戦争が政治の一部であるからといって、その政策策定に軍事論理を全く無視すべきでない。
 シビリアン・コントロール(政治の軍事に対する優先)といっても、軍事の相対的独立領域を容認したうえで、政治によって国家全体の立場から軍事をコントロールするということである。チャイナ古代の兵法書『司馬法』で指摘しているように、「軍隊の武容が政府に入れば民の文徳が廃れ、政府の文容が軍隊に混入すれば武徳が弱まる」からである。43シビリアン・コントロールは、日本でしばしば誤解されているように、政治家が軍事作戦などにまで介入することを意味しない。シビリアン・コントロールを考える場合、重要なのは、第1に政治上の目的と軍事合理性を如何に調和するかということ。また、軍事が政治に支配・介入するプリートリアリズムを防ぐことはむろん、逆に政治が不当に軍事に介入しそれを利用するシーザリズムを回避するという2点である。44
 洋の東西、時の古今を問わず、古来、戦いにおいて「攻撃は最大の防御」といわれてきた。チャイナ古代の兵法書『兵法呉子』も、「攻勢に出て勝つのは容易であるが、守勢で勝つのは難しい」と指摘している。45これは国家同士の戦いはむろん、武道関係を始めとするすべて運動競技にも適用できる普遍原則である。つまり、防御ばかりで攻撃しなかったならば、最後には必ず敗北する。戦いに勝利する要諦は、その戦いの主導権を握ることにある。だが、攻撃者は攻撃のタイミング、攻撃場所・目標、攻撃手段を任意に選択できるので、戦いの主導権を握ることができる。最近の例でも、米英軍は対イラク戦でイラクを攻撃した時は、それほど損害を被らなかった。それなのに、占領下で守る側にまわった現在、少数のゲリラやテロリストによる攻撃で被害が増えている。これも攻撃優位の現れの一つである。
 
軍事大国でも専守防衛では防衛困難
 攻撃側がその攻撃のタイミングを恣意的に選べるので、相手国が警戒心を解いていたり、準備が不充分な時を選んで攻撃を仕掛けることができる。また、相手国内が深刻な政争で大混乱している時期を選ぶことも可能だ。さらに、同盟国が他地域の紛争に関わっていて軍事支援できない時期を選ぶとか、相手国が同盟諸国と経済問題などで深刻な対立状態にあるチャンスを掴むこともできる。攻撃場所も、相手の防御がない、あるいは防御の弱い場所を自由に選べるし、そのうえ最大の効果を上げられる目標を狙える。攻撃手段もテロ、ゲリラなど低烈度手段から核兵器まで、達成しようとする政治目的に合わせた手段を採用できる。「攻撃は最大の防御」といわれるのはこのためだ。
 もっとも、彼我の軍事能力に大きな格差がある場合には、“横綱相撲”で先ず攻撃を受け流し、次いで反撃に移って最終的に勝利を収めることは可能である。しかし、劣勢の軍事力しか保有しない国家にとっては、戦いの主導権が握れなければ敗北は避けがたい。相撲に例えれば、小兵の力士が巨漢の力士の攻撃をまともに受けたり、真正面から強襲したりしては、勝利は覚束ない。小兵力士は奇襲等で積極的に戦い、戦いの主導権をとるしか勝機はないのだ。
 「侵攻してくる相手をそのつど撃退するという受動的な防衛戦略」「防衛上の必要からも相手の基地を攻撃するというような戦略的な攻勢はとらない」というような防衛政策では、換言すれば国家の防衛政策として無条件に「専守防衛」策を採用していたならば、軍事大国でも防衛は極めて困難といってよい。第1に、攻撃側は自己の領土内の攻撃基地、兵器・弾薬備蓄基地、重要産業施設、都市を反撃から守る必要がないので、本来ならば防御に用いなければならない軍事力まで攻撃に回せるという利点があるからだ。
 第2に、攻撃側は自己の継戦能力を損なうことなく、侵攻作戦を展開できるという利点があるからである。我々が諸々の難題に直面した場合、原因となっている根元の除去に取り組まないで表面に現れた現象だけに対応していては、その問題は永久に解決しない。それは丁度、地域に広がっている悪臭を除去するのに流れ出た臭いを消臭剤で消すよりも、悪臭源を除去するのが簡単かつ効果的なのと同じである。特定の情勢下で、政治的思惑から出撃基地や補給基地の攻撃を控えるということは、戦略上あり得る。しかし、無条件に最初から出撃基地や補給基地など攻撃力の根元への攻撃を放棄することは、防衛政策上、最悪の選択である。
 米軍はベトナム戦争の際、北ベトナムへの爆撃を最初は手控えたことによって、非常に不利な状況に陥った。また、朝鮮戦争の場合も、中国東北地域(旧満州)への爆撃を手控えたために、米国は中国軍との戦いに苦しんだという歴史がある。これはいずれも軍事的合理性よりも、不利を覚悟で政略を優先させたわけである。だが、留意すべきは、最初から無条件で策源を攻撃する戦略を放棄していたわけではないという点である。現に、米国はその後、ベトナムでは限定的な北爆を開始するのである。
 
“対米従属”の根元は専守防衛策に
 軍事大国でも政略のために軍事合理性を犠牲にすることは不利であるのに、軍事小国である日本の場合は致命的な結果を招きかねない。つまり、所期の“自衛”すら不可能になるからだ。それゆえ、昭和32年策定の『国防の基本方針』に強調しているように、あるいは日米間の防衛協力ガイドラインに定めているように、最終的には米軍の攻撃力によって日本を防衛するしかない状況にある。このことは換言すれば、米国の支援がなければ我が国は防衛できないということであり、国家存立の重要なカギを米国に握られていることを意味する。元カーター政権の国家安全保障担当の特別補佐官で、知日家のブレジンスキー教授が数年前、『フォーリン・アフェアーズ』誌上で、日本を米国の「保護国的存在」と指摘したことがあった。保護国とは外交と防衛を他国に依存するモナコのような国家を指すが、そのような侮蔑的な言い方をされても否定できないような状況にあるのだ。
 我が国では日米安保条約に全幅の信頼を置いている向きが多い。これは保守陣営だけでなく、安保条約廃棄、非武装を唱えている左翼陣営も、深層心理においては安全保障分野で米国依存心が強い。だが、マキャベリーが強調しているように、「同盟にその国家の安全の多くを委ねている国家は危うい」といえる。そこで日米同盟が信頼できるかといえば、そうでもない。北大西洋条約機構(NATO)に比べると、日米安保体制は条約上も実態上も日本にとって非常に不利であり、かつ信頼性も低いからである。46
 それでも日米安保体制が日本の防衛に有効に機能したのは、イデオロギー対立を特徴とする「冷戦」という、同盟以外の別の要因が働いたからである。冷戦下で西側同盟の盟主だった米国にとって、日本が侵略され東側陣営に組み込まれることは、冷戦の帰趨を決するような大きな痛手であった。それゆえ、条約内容やその裏付けとなる体制と無関係に、“日本のためでなく、西側陣営のため”に日本を防衛する公算が大きかった。この結果、欠陥ある日米安保体制だったが、冷戦下で日本の安全は保たれたのである。
 しかしながら、冷戦は終わったのである。当然の結果として、日本の安全にとって好都合な状況はなくなっていることを承知しなければならない。我が国は冷戦終焉後、日米防衛協力体制の整備のために法的、実態的諸措置をとった。これに対して、「冷戦が終わり、平和な国際社会が実現されつつあるのに何故?」との疑問が一部から出された。これは冷戦が終わったがゆえに、条約内容や体制の欠陥がそのまま日米安保体制の信頼性に影響を与えるようになったからである。
 

41 『国家総力戦』(間野俊夫訳、三笠書房)p.21.
42 『戦争論(上巻)』(馬込健之助訳、南北書院)pp.32〜33.
43 北村佳逸『兵法呉子・司馬法』(立命館出版)、p.175.
44 拙著『国家安全保障の政治経済学』(泰流社、1988年)pp.234〜256.
45 上記『兵法呉子・司馬法』p.32.
46 上記拙著、pp.112〜148.







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